第1話 番号の灯
夜明けの前が、枯れ野はいちばん静かだ。
鈴は枯れ草の根方に膝をつき、銅線の輪を指の腹でたどった。かかっている。野兎の後ろ脚が縄に食い込んで、もう冷たくなりかけていた。血の匂いに、土の匂いが混じる。鼻の奥を刺す、錆びた水のような匂い。長くいると舌の付け根がしびれてくるから、ここでは息を浅くする。それだけは、燼に教わるまでもなく体が覚えた。
兎の脚を外し、首を一度ひねって、腰の袋へ落とした。一匹。
夜明け前の枯れ野は、息が白くなるほど冷える。鈴は銅線で切れた指先に、はあ、と息を吹きかけた。かじかんだ手で結び目をいじると、縄がうまく言うことをきかない。それでも、井戸が凍る冬よりはましだ。冬の罠は、獲物より先に、こちらの指を持っていく。
枯れ野は立入禁止だ。土が呪い——枯れ——に喰われていて、踏み込んだ者は足の裏から腐ると言われている。地面のところどころに、油を流したような薄い虹がにじんでいる。枯れが染み出している場所だ。そこを避けて歩く。草はみな灰がかった緑で、葉の先から順に、銀色に錆びていく。咲きかけた花が、咲ききらないまま灰になって、風で崩れていく。鼻の奥の錆びた匂いは、その崩れた花のものかもしれなかった。
だから誰も来ない。だから鈴は来る。罠を張れる土地が、もう、ここにしか残っていない。
二本目の縄の前で、手が止まった。
それは鈴のものではない。少し離れた茨の根に、古い輪が一つ、錆びたまま埋もれている。去年の冬から、誰も結び直していない輪。
燼の罠だ。
鈴は手を伸ばしかけて、やめた。獲物はかかっていない。当たり前だ。張った本人が、去年の灯改めで連れていかれた。あいつはいつも、二人で分けるとき、大きいほうを鈴の袋に放り込んだ。理由を聞いても、肩をすくめるだけだった。
一度だけ、しつこく訊いた。なんであたしばっかり、と。燼は枯れ草に寝ころんだまま、遠くの空を指さして言った。「上のやつらは、取れるだけ取る。だから、おれたちは逆をやるんだ」。意味はよく分からなかった。ただ、そう言ったときのあいつの横顔が、めずらしく笑っていたのは、覚えている。
——もう、いない。
考えるのをやめて、自分の縄に戻る。世界はそんなに大きくない。鈴の世界は、腰の袋に入るぶんだけ。あと二匹あれば、小夜に三日ぶんの汁が作れる。
三本目の縄は、枯れ野の縁にある。
縁は、毒がいちばん浅い。灰がかった草のあいだに、ひとつまみだけ緑の残る場所があって、その根方に、丸い葉が低く広がっていた。蕗だ。枯れ野で、いちばんしぶとい野草。あとひと月もすれば、茎が立つ。
去年の春を、思い出した。
五軒先の子が、水汲みの帰りに、鈴の袋を覗き込んできた。摘んだばかりの蕗の葉を見つけて、目を丸くした。
「あたしと同じ名前だ」
苦いから食べないよ、と鈴は言った。子どもの舌には向かない。けれどその子は、苦くてもいいから一度なめてみたい、と袖を引いて聞かなかった。葉を一枚ちぎってやると、口に入れて、顔じゅうをしわくちゃにした。それで終わりかと思ったら、しわくちゃのまま、小さな手を出した。
「もう一枚」
「苦いんでしょ」
「苦いけど、あたしの味だもん」
変な子だ、と思った。思いながら、もう一枚渡した。受け取った蕗は、両手を口元に当てて、はあ、と息を吹いた。寒い朝で、指が赤かった。冷たい手を、自分の息であたためる。あの子の、いつもの癖だった。
葉は、まだ小さい。開ききったら少し摘んで、持っていってやろうか。考えかけて、やめた。この郷で、先の約束を口にするのは、縁起がよくない。
鈴は縁に背を向けて、三本目の縄を確かめた。空だった。
東の地平が、白んできた。
朝日ではない。
灯都。聖山の上に浮かぶ都の中心で、大灯が燃えている。夜明けより先に、あの白い火柱はいつもそこにある。遠すぎて熱はないのに、見ていると首の後ろが冷える。あれが八洲を毒の潮から守っているのだと、子どもの頃から聞かされてきた。
何を焚べて燃えているのかも、聞かされてきた。
鈴は袋の口を結び、白い火に背を向けた。
◆
灰郷は、坂を下りきった窪地にある。
鈍色の屋根が肩を寄せ合って、その上にいつも埃が薄くかかっている。朝の井戸端には、もう人が並んでいた。誰も顔を上げない。顔を上げて、空の式神と目が合うのを嫌うからだ。
紙でできた鳥が、低く屋根のあいだを縫っていく。一枚、また一枚。羽の継ぎ目に細い目が描いてあって、それがこちらを向くと、井戸端のざわめきが一拍やむ。
窪地の奥から、労役の列が上ってきた。褐の野良着の男たちが、灰の窯場へ下りていく。列の歩幅が、きれいにそろっている。そろえろ、と誰かに言われたわけではない。そろっていない歩き方は、目につく。目につけば、読まれる。だからこの郷の男たちは、歩幅まで、土の色になる。列の最後尾に、去年まで燼の親父がいた場所が、ある。今は、別の背中で埋まっていた。
灰郷の朝は、いつもこの色をしている。鈍色の屋根、褐の野良着、井戸水の濁った銀。どれも、この郷の者に許された色だ。鮮やかな色は、上にだけある。聞いた話では、灯都の鏡守は紫や銀の衣を着るという。見たことはない。見たことのある者は、もう灰郷には戻ってこない。
鈴は袋を体の前に回し、足を少しだけ遅くした。急がない。急ぐ者は、見られる。
息を浅く、視線を低く。土の色になる。これも狩りだ。枯れ野で兎に気づかれないのと、何も変わらない。式神の継ぎ目の目が、鈴の頭の上を通り過ぎて、隣の路地へ滑っていった。
通り過ぎてから、ようやく肩の力を抜く。
見られなければ、生きていける。読まれなければ、ここにいられる。鈴がこの十六年で覚えたことは、つまるところ、それだけだった。
井戸の縁で、隣のばあさまが釣瓶を手繰っていた。鈴を見て、皺の中の目を、少しだけ細める。
「明日だね」
返事をしないでいると、ばあさまは桶に水を移しながら、独り言のように続けた。
「鏡の前じゃ、息を殺すんだよ。火ってのはね、見られていると思うと、見られたいように燃えちまう。お前さんは昔から、目立たないのだけは上手だ。明日も、そうしておゆき」
水面に、鈴の顔がゆれて映った。鈍色の空ごと、揺れた。
「……鈍色だよ、あたしは」
「そうかい」ばあさまは笑わなかった。「そうだといいねえ」
◆
「おかえり」
戸を引くと、小夜の声が先に来た。
土間の奥、藁の寝床に半身を起こして、妹がこちらを見ている。十四になるのに、手首は鈴の二本ぶんもない。朝の薄明かりに、頬の血の気のなさが透けて見えた。
「起きてたの」
声が、自分でも分かるくらい柔らかくなる。灰郷でも枯れ野でもない声。ここだけの声だ。
「兎の匂いで分かる」小夜は鼻を鳴らして笑った。「鈴姉、いつも血の匂いさせて帰ってくるもの」
「臭いって言いたいの」
「お腹が鳴るって言ってるの」
鈴は袋から一匹出して、土間の隅で皮を剥ぎはじめた。小夜は寝床から、その手元をじっと見ている。痩せた指で、薄い毛布の縁を撫でながら。
「ねえ、鈴姉」
「ん」
「明日でしょ。灯改め」
手が、止まりかけた。止めなかった。
「うん」
「鈴姉の魂火、何色だと思う?」
刃を兎の腹に滑らせながら、鈴は少し考えるふりをした。本当は、考えたくない。
「鈍色じゃない。この郷の色。あんたと同じ」
「同じがいい」
小夜の声が、急に小さくなった。
「同じ色なら、鈴姉はどこにも連れていかれない。ここにいられる。……あたし、それがいい」
灰郷の子は、灯改めの話をするとき、みんな声をひそめる。色のいい子は上へ召される、と大人は言う。聞こえはいいが、それがどういうことか、子どもでも知っている。井戸端から消えた顔は、二度と戻らない。
鈴は刃を置いて、寝床のそばへ寄った。ずり落ちた毛布を、小夜の薄い肩までかけ直す。額に手を当てると、朝より熱が高い。手のひらに、骨の形がそのまま伝わってくる。この熱を下げる草が、今日のうちに要る。それは、明日の灯改めなどより、鈴にはずっと大きな問題だった。
土間の隅の棚から、乾いた草の束を下ろした。白い小さな花を、穂のまま干したものだ。小夜の熱には、これしか効かない。残りは、指でつまめるほどしかなかった。
欠けた鍋で、湯が薄い緑になるまで煎じる。匂いだけで、小夜が顔をしかめた。
「にがい」
「苦いのが、効くの」
「鈴姉の薬、いっつも苦い」
「甘い薬なんて、上の人らのものだよ」
飲ませながら、頭の中で枯れ野の地図を繰った。この草が生えるのは、縁のいちばん外れ、油の虹を二つ越えた岩の陰だけだ。摘みごろの株が、あと三つ。明日、改めが昼に終われば、帰りに寄れる。乾かして束にすれば、ひと月はもつ。その先は、その先で考えればいい。
小夜の熱の段取りなら、いくらでも先まで組めた。組めないのは、自分の明日のことだけだった。
「鈍色だよ」
鈴は言い切った。嘘をつくのは得意だ。式神にも、改め所の役人にも、いくらでもつける。
ただ、小夜にだけは、ほんとうは、つきたくない。
「明日の昼には帰ってくる。汁、作っておくから、それまで寝てなさい」
小夜は毛布の縁を、また撫でた。それから、ふっと窓の外へ目をやって、誰に言うともなく呟いた。
「名前って、火より先にあるのにね」
「……何の話」
「ううん」小夜は笑った。「大灯はさ、名前を燃やして燃えてるんでしょ。でも、燃やされる前から、その人には名前があったんだよ。火が点く前から。先にあるほうが、後から消されちゃう。——変なの」
鈴は返事をしなかった。
それから小夜は、窓の外の薄い光を見たまま、もう一度、小さく言った。
「明日、もし鈍色じゃない色が出ても。あたしは、その色も好きになるよ。鈴姉の色だもの」
鈴は、剥いだ皮を丁寧にたたんで、隅に置いた。妹の言うことは、ときどき、鈴の知らない場所から降ってくる。病で寝てばかりだから、頭の中だけが、遠くまで行くのかもしれない。
そう思うことにした。
◆
汁を火にかけて、水を汲みに出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
路地を曲がったところで、人だかりにぶつかった。
声は出ていない。ただ、みんなが家の壁に背を貼りつけるようにして、道の真ん中を空けている。その真ん中を、守人が二人、ゆっくり歩いてきた。朱の上衣。腰に細い棒。
棒の先に、青白い灯がともっている。
その灯に、小さな手が引かれていた。
蕗だ。
五軒先の、まだ七つの子。枯れ野の縁に芽吹く、あの苦い野草と同じ名前。今朝がた、鈴が縁で葉を見つけた、あの蕗だ。開いたら摘んで、持っていってやろうかと、考えかけた。苦いけど、あたしの味だもん。しわくちゃの顔が、まだ朝のことのように近かった。朝のことだった。
蕗の首に、薄い木の札が掛けられている。札のまんなかで、数字がいくつか、青白く光っていた。守人の棒の先と同じ、熱のない冷たい灯だ。
鈴は、その灯がどういうものか知っている。改め所で名前を読み取られた子は、その名を札に移されて、火を点される。名前のあった場所に、番号が灯る。そうなったら、もう誰も、その子を名前では呼ばない。改め所でも、灯都へ運ぶ荷車の上でも、ただの数として数えられる。
すぐに焼かれるわけではない、とも聞く。大灯がひと息に呑む名前の数は、暦で決められているらしい。だから順番を待つあいだ、無名にされた者たちは、灯都のどこか暗い溜めに押し込められて、番号のまま、ただ控えている。火に焚べられる、その日まで。それが半月なのか、一年なのか、誰も知らない。荷車は月に一度、決まった朝に郷を出て、空へ向かう。乗せられた子の数だけ、郷の井戸端が、しばらく静かになる。蕗も、これからそこへ行く。
蕗は泣いていなかった。
ただ、握った両手を口元に当てて、はあ、と息を吹いていた。寒くもないのに。怖いとき、いつもそうする子だった。冷たい手をあたためるみたいに、自分の息を、自分の指に。
その指のあいだから、青白い番号の光が漏れていた。
蕗の母親が、道の端で膝をついて、口を手で押さえている。声を出せば、自分の番号も灯る。それを知っているから、誰も声を出さない。
守人が通り過ぎる。
蕗の目が、人垣のなかを、何かを探すように動いた。
鈴と、目が合った。
ほんの一瞬。蕗の口が、小さく動いた。鈴の名を呼ぼうとしたのか、助けて、と言おうとしたのか。分からない。
鈴は、
目を伏せた。
水桶を持つ手に力を入れて、壁のほうへ半歩、退いた。土の色になる。見られない。関わらない。それが、ここで生きるということだ。蕗の番号の光が、路地の角を曲がって、消えていった。
人垣がほどけても、鈴はしばらく動けなかった。水桶の水面が、まだ揺れている。さっき半歩退いたときに、自分の手が震えたのだ。震えた理由を、鈴は考えないことにした。
口の中で、名前が一つ、つかえていた。
呼べば、灯る。呼ばなければ、ここにいられる。
鈴は、それを呑み込んだ。
世界は、腰の袋に入るぶんだけ。家で汁が煮えている。小夜が待っている。それだけ。それだけだ。
——蕗。
胸の奥で、一度だけ、その名を呼んだ。声には、しなかった。
◆
夕方、水を汲みに戻ると、井戸端はいつもどおりだった。
誰も、昼の話をしなかった。蕗の家は戸を閉てたきりで、煙も上がっていない。隣の家は、いつもより少しだけ大きな音で釜を鳴らしていた。そうやって、この郷は呑み込む。消えた子の名前は、井戸に落とした桶と同じだ。覗き込んでも、暗いだけ。引き上げる縄を、誰も持っていない。
ばあさまだけが、釣瓶の手を止めずに、ぽつりと言った。
「あの子は、よく笑う子だったがねえ」
だった、と、もう言っていた。
鈴は桶に水を受けながら、何も答えなかった。答えれば、自分の口も「だった」と言ってしまいそうだった。
◆
その夜、大灯がいつもより明るかった。
戸の隙間から、白い光がひとすじ、土間に伸びている。今日、名前が幾つか焚べられたのだ。そう思うと、汁の味が、よく分からなかった。
遠くから見る大灯は、きれいだった。白く、静かで、夜の藍をやわらかく押しのけている。子どもの頃は、あの光を見ると、胸の奥がふしぎと高鳴った。何も知らなかったからだ。きれいだと思わせておくところが、あの火のいちばん質の悪いところだと、今は思う。
水を運び入れると、小夜が藁の上で半身を起こしていた。薬が効いたのか、頬に少しだけ色が戻っている。
「鈴姉。今日、外、騒がしくなかった?」
手桶を置く音が、自分でも分かるくらい、大きくなった。
「……何も」
「そう? 昼に、足音がいっぱいした気がしたの。それと、誰かのお母さんの声」
「風だよ。今日は、風が強かった」
小夜は、ふうん、と言って、また横になった。疑った様子はなかった。この子は、鈴の嘘を疑わない。だから鈴の嘘は、この家の中でだけ、罪になる。
鈍色だよ、と昼に言った。風だよ、と今言った。一日で、二度。妹にだけはつきたくない嘘が、もう二つ、囲炉裏の灰の中に埋まっていた。
小夜はやがて、寝息を立てはじめた。鈴は囲炉裏の前に座って、消えかけた熾火を、枯れ枝の先でつついていた。
赤い熾が、息を吹き返す。
ふと、その赤が、ゆれた。
赤から、橙へ。橙から、ひとすじ、見たことのない縹の色がよぎって、すぐに消えた。
鈴は手を止めた。
火が、こちらを見た気がした。
気のせいだ。煙が目にしみただけ。鈴は熾火を灰でそっと覆って、消した。指の先が、少し熱い。火に触れてもいないのに。
外で、式神の紙の羽が、低く一度、鳴いた。
外の郷は、静かすぎた。
灯改めの前の夜は、いつも、こうだ。十六になる子のいる家は、灯を早く消す。いない家も、つられて消す。騒げば、目立つ。目立てば、読まれる。郷じゅうが、息を浅くして、朝を待つ。どこかの家で、赤子が、短く泣いて、すぐ、母親の胸の音に、沈んだ。あの子も、十六年後には、鏡の前に立つ。この郷では、生まれた日から、その日までの数えかたしか、ない。
鈴は息を浅くして、寝床へ入った。小夜の薄い背に、自分の背を合わせる。妹の息が、規則正しく上下している。あたたかい。
明日、自分は読まれる。
鏡が鈴の火を覗き込んで、色を決めて、行き先を決める。鈍色でありますように、と鈴は思った。
見られていると思うと、見られたいように燃える。ばあさまの言葉が、暗がりで一度、よみがえった。鈴は目を閉じて、火のことを考えないようにした。何も思わない、何も望まない。土の色の火でいよう。番号の灯さえともらなければ、明日の昼には、この背中のぬくもりのところへ、帰ってこられる。
それだけを、願った。
蕗のことは、もう考えないようにした。
考えないようにしたのに、まぶたの裏で、青白い指のあいだから漏れる光が、いつまでも消えなかった。




