惜別
本日の更新です。一話目です。
「その顔、お別れはしっかりと出来たみたいね」
次の日、連絡を入れた僕は知代さんの家を訪ねていた。僕を迎えた知代さんは化粧の上からでも分かるほどに目を赤くはらしており、昨晩にどういう状態になっていたかが容易に予想出来た。
前回と同じようにダイニングに通され、そのまま飲み物をとってくると知代さんはキッチンの方へと向かっていった。
すぐに戻って来た知代さんは手に三つのコップの乗せたおぼんを持っていた。二つはお茶で、残る一つはオレンジジュースが入っていた。
お礼を言ってその中のお茶を手に取る。テーブルの対面に座った知代さんもまた同じようにお茶の入ったコップを手に取り、残った一つは隣の空いている席の前へと置いた。
「華耶のもの、ですか」
「そう。あの時も言ったでしょう? あの子はジュースが好きなようだったから」
その心遣いが僕には嬉しく感じられた。華耶という存在が僕以外の中でも息づいているのを感じる。例えそれが仮初のものであったとしても、だ。
知代さんはコップの揺らぐ水面をじっと見つめたまま、しばらく口を開かなかった。まるでそこから、求めるものが見えてくるかのように。ややあって顔を上げた知代さんはいつも通りの柔らかな笑みを湛えていた。
「昨日のね、ちょうど日が落ちたくらいの時かしら。あの子が来てくれたのよ」
「そう、ですか……。律儀、でしたからね。彼女は」
日が落ちた頃、というと僕とのお別れを済ませた彼女が、残る力を振り絞って伝えたい人の元まで行ったという事だろうか。少なくとも僕があの公園に行くまで彼女はあそこにいただろうし、僕が着いてから最後の時まで彼女は僕とともにいた。そこから行く事は難しいだろう。
そういうところは最後まで彼女らしい。
「来てくれたって言ってもね、私が聞いたのはあの子の声だけだったの。すぐに分かったわ。ああ、この子はもう役目を終えたんだなって。でも、それでも私にも会いに来てくれた事がなによりも嬉しかったの」
「知代さん……」
じわり、と浮かび上がる涙を懐から取り出したハンカチでそっと拭った後、彼女はごめんなさいね、と静かに謝った。
知代さんが華耶の事を実の娘のように想っていたのと同じで、華耶自身も知代さんの事を深く慕っていたのだろう。それはもしかしたら母親のように、というわけにはいかなかったかもしれないけど、確かなその気持ちを伝えるために華耶はこちらにも足を運んだのだろう。
「分かってはいるのよ。この記憶は、華耶ちゃんと過ごした日々の記憶は近いうちに忘れ去ってしまうって事は。当事者の貴方ならまだしも、私はほとんど関係のない赤の他人だから」
「そんな事! 華耶は、ずっと貴女に感謝をしていました! 途方に暮れていた自分を拾ってくれた事、そこから世話もしてくれた事、家に住まわせてくれた事、全部!」
華耶だけではない。僕もまた世話になった。同じような体験をした身の上としては、これ以上にないほど、心に響いた言葉だった。
そんな知代さんをとてもじゃないが、関係ない赤の他人なんて風に片付ける事は出来なかった。
僕のそんな思いとは裏腹に、知代さんはゆるゆると首を振る事で言葉を否定した。
「そうだけど、そうじゃないの。あの時と同じなら、貴方もいつかは今回の一連の出来事についてを忘れてしまう時が来るのよ。私もそうだったから、分かるのよ。でも、あの時と違って私は華耶ちゃん本人とは全然関係がない。そのせいか、もう一日しか経っていない今でも、少しずつ記憶が薄れていっているのが分かるのよ」
「この記憶が、なくなる……」
「なくなる、というよりは、思い出せなくなると言った方が正しいかもしれないわね。今回の私みたいに、こうしてまた関わるようになると思い出すようになるみたい」
一連の出来事の記憶がなくなると言っても、華耶との記憶全てがなくなるわけではない。なら、別にいいのではないか。そうなるわけもなく、僕は歯痒い気持ちになった。恐らく、僕たちとしてはどうしようもない事なのだろう。もしそれがなかったのだとしたら、今頃世間では少なからず話題になっているはずだからだ。
僕も、そして知代さんも経験した事だ。その他にも同じような経験をした人がいると言う可能性は大いにあり得る。だけど、皆が皆、忘れ去ってしまっているのだ。
「でも、あの子がしてくれた事がなくなるわけではないわ。そうでしょう?」
まっすぐに目を見て、知代さんははっきりと僕にそう言った。その通りだ。記憶がなくなったとしても、受け継いだ思いがある。それは記憶が消えたくらいでなくなってしまうような軽いものでは決してない。
大丈夫、と言ってくれた華耶の言葉を、僕は現実のものにしなければならないのだ。
「……じゃあ、僕はこれで」
「あら、もう行くの? もう少しいても全然いいのに」
それから少しばかり話をし、コップの中身が空になったところで僕はそう切り出した。別にこの家に居づらくなったわけではない。単純に、ここの後にまだ行くべき場所が残っていたからだ。
「また、後日に日を改めて様子を見に来ます。華耶の事を思い出せなくなるなら、もしかしたら僕の事も忘れてしまうかもしれませんし」
「そうね、そればっかりは私にもどうなるか分からないわ。華耶ちゃんがいなくてもどこかで会っていた、という事になるのか、それとも完全に関係ごとなくなってしまうのか」
僕としてはせめて前者であってほしい。知代さんに返すべき恩は見上げるほどに積み重なってしまっている。そんなままで完全な他人になってしまうというのは寂し過ぎる。
いや、例え後者だったとしても、もう一度関係を作り直せばいいだけの話か。知代さんはあの例の喫茶店の常連のようだし、何度か通っていれば偶然に出会うという事もあるかもしれない。
と、そこまで考えて、僕は自然に未来について思いを馳せていた事に気が付いた。少し前ならば、まったくと言っていいほどになかった事だ。
————これで、いいんだよな、華耶。僕は心の中でそう語りかけた。返ってくる声はもちろんなかったけれど、どこかで華耶があの笑顔を浮かべている、そんな気がした。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。




