独白
本日二話目です。今日は二話分の更新です。
今話は華耶視点です。
わたしは記憶喪失というものらしかった。
覚えているのは自分の名前が秋月華耶であるという事だけで、それ以外の一切の記憶が、まるで漂白されてしまったのかのように真っ白になってしまっていた。
どうすればいいのか、どうするべきなのか何一つ分からないまま途方に暮れていたわたしを保護してくれたのは大葉 知代という女の人だった。気が付けば彼女の一人暮らしの家に連れていかれていて、あっという間にお風呂に入れられ、そして彼女のお古の服を着せられていた。
そうして惜しみなく注がれる善意に最初は戸惑ってばかりだったのを覚えている。わたしでなくても誰だってそうだろう。一晩泊めてくれただけでも感謝で胸がいっぱいになるくらいなのに、記憶が戻るまでずっと居てもいいと言ってくれたのだ。
もちろん、そんなにお世話になるわけにはいかないと判断出来るだけの理性はあった。見ず知らずの他人にそこまでしてもらう事に対しての忌避感というものがあったし、何よりわたしはわたし自身が————記憶喪失という状況に置かれている自分の事が怖かった。そんなわたしに親切にしてくれた知代さんの側にいて迷惑をかけたくないという思いもあった。
そんなわたしを見て、知代さんは柔らかく笑って言った。
『人に迷惑をかけないでいられる人なんていないわ。それに私、女の子の子供が欲しかったの。華耶ちゃん、私の娘になってくれないかしら?』
わたしには失った記憶がどういうものなのかは分からないけれど、それでも生涯の中でこんなにも人の温かさに触れた事はないだろうと確信じみた思いを抱くほどだった。
気が付けば涙が出ていた。それも恥ずかしい事にしくしく、といった具合ではなく、わーわーといったように、子供みたいに泣き叫んでしまうほどだった。
何も分からないという恐怖は、わたしの想像以上にわたしの中を蝕んでいたんだ、とわたしは泣きながらどこか冷静な頭の片隅でそう感じていた。そんなわたしを、泣き止むまでずっとあやすように頭を撫でてくれた知代さん。
それは正しく母親の行動のそれであり、だけど記憶がないからこそわたしはそこで本当の母親というものに思いを馳せ、また泣いた。
そんなわたしを、やっぱり知代さんは受け入れてくれた。そして、弱いわたしもまた、知代さんに甘えるようになったのだろう。
もし記憶が戻らなくてもこのまま……なんて思う自分がいた事も確かだ。
記憶を取り戻すための手がかりがないという事に気が付いたのは、知代さんの家に転がり込んでからすぐの事だった。
元々わたしが着ていた服は、ちょっと遅れてはいたけれど特に特徴のない、季節の流行を押さえているもの。カバンやポーチの類もなく、ポケットに財布を入れているでもない。このご時世であり得ない事にスマホすら持っていなかったのだ。
そうしてわたしはまた途方に暮れる事になった。泣き出しそうにすらなった。原因が分からない事から、待っていて戻るようなものでもないだろう。
そうして塞ぎ込んでいた頃、そこでようやくわたしには不思議な力がある事を思い出したのだ。
————記憶を操る力。
非現実的だけど、自分が走れるという事を知っているように、わたしにはその力がある事を本能的に知っていた。その使い方も、効果も、メリットもデメリットも、全て。
これを使えば、わたしの記憶につながる手がかりがつかめるのではないか。そんな考えに至るまでそんなに時間はかからなかった。
方法は簡単だ、わたしではない他人の記憶を覗き、わたしに繋がるものを探し出す。そして見つけたそれらからわたしのルーツを辿る、というものだ。言葉にすれば簡単ではあるが、それを実行するにあたって幾つかの弊害があった。
一つは精神的なものだ。記憶というのは本来当人だけのもの。ましてや嫌な記憶、忘れたい記憶というものは他人には見られたくないと思う人がほとんどだろう。
もう一つは物理的な事。単純に途方もない時間が必要になる可能性があるという事だ。正直に言って、わたしがやろうとしている事は行き当たりばったりの頭の悪い方法だった。どれだけ時間がかかるか検討すらつかないそれを、一人でやり切ろうというのだ。
知代さんに言えば手伝いくらいはしてくれるのかもしれない。そう思えるだけ、知代さんはわたしに親身になって接してくれている。だけどいつまでも知代さんにおんぶにだっこではいられない。
そう思えばなんとかしようという気が湧いてきた。
これ以外の解決策が見つからず、かといって何もしないではいられないわたしはそれから記憶集めを始めた。その旅の友はこうだ。
「————いらない記憶、ありませんか?」
原則として集めるのは、相手がいらない記憶、恥ずかしくて封印していたり、嫌な思いをして記憶から消し去りたい、なんて思っている記憶だ。
そうして、もらった記憶を覗く、という事は言わない事にした。トラブルになる事が目に見えているし、そうなった場合真っ先に知代さんに迷惑がかかってしまう。
だけど、やはりと言っていいのか、記憶集めの旅はなかなか順調と言えるような進展は起こらなかった。
声を掛ける八、九割の人はまずわたしの言う事を信じようとしない。それもそうだ、二十かそこらの女性が訳の分からない事を言い連ねているのだ。中には警察に通報しようとした人もいたくらいだ。それに、下心を持ってわたしに近づいてくる人もいた。いつの間にかそんな人たちを避けられるようになったのはありがたいやら悲しいやら。
残りの一割の人たちはわたしでも不思議な事に真正面からわたしの話を信じてくれた。騙しているような背徳感に身を苛まれながら、そうして集まった記憶を見ても、だけどわたしに繋がりそうなものは何一つ見当たらなかった。
日に日に精神が摩耗していくのが分かった。知代さんには手伝わなくていい旨と同時に、わたしがやろうとしている事を伝えていたため、疲れて帰ってくるわたしをすごく心配はしてくれた。
だけど、わたしから始めた事でやっぱり知代さんに頼るわけにもいかず、曖昧に微笑む事しか出来なかった。
そうして記憶を集めていく日々。そんな中、ある時に不思議な男の人に出会った。
その日は丁度クリスマス。空が祝福するかのように綺麗な雪を降らせ、珍しく街は白一色となっていた。その頃になるとわたしが知代さんと出会った街から出て、他の街に行くようになっていた。そうして行動範囲を広げないといつまで経っても何も分からないままだと思ったからだった。
帰るのにも相応の時間がかかるため、そろそろ夜になるという頃、あと一人に声を掛けて知代さんに連絡しようと思っていた時だった。
「————いらない記憶、ありませんか?」
いつも通りの決まった言葉。これに対する反応もほとんど決まっていた。
その男の人も例のごとく驚いたような表情を見せた。だけどそこからが違った。彼は、瞳を潤ませながら笑ったのだ。それも嘲笑うだとか、そんなマイナスの感情を伴った笑顔ではない。もっと温かさを感じさせるそんな笑みだった。
もしかしたら、外気が目を刺激したのかもしれない。今日はそれだけ寒いし、そうなってしまいそうなほどに驚きで目を見開いていた。
でも、笑顔を浮かべたのはなぜなのだろうか、わたしにはそれが分からなかった。
そんな不思議な男の子、彼の名前は榎田 蒼というらしかった。
何の因果か、その彼に記憶集めを手伝ってもらう事になった。気が付けばわたしは、彼に自分の身の上話を聞かせてしまっていた。なぜなのか、自分でも分からない。ただ、笑いもしないで聞いてくれた彼の事をいい人だなと強く思った。
恥ずかしい話だけど、その頃のわたしはひどく疲れ切ってしまっていた。精神的にも身体的にもだ。だから、わたしはいらない事まで口走ってしまった。そんなわたしの積りに積もった悩みを彼は一蹴した。何がなんだか分からなくなるほどの衝撃だった。
そこから丸二日は考え込んだ。時には彼の事を恨んだりもした。よくも余計な事を言ってくれたな、と。完全にお門違いな怒りである事は分かっている。だけど、それでも思わずにはいられなかった。
『胡散臭い君の話に乗っかる方も乗っかる方だ』。彼はそう言った。胡散臭いとはなんだ、と小一時間ほど問い詰めたいような気もしたが、ぐうの音も出ない指摘でもある。それでも、そんな言葉に、心がすうっと楽になったのを感じたのだ。
わたしは少しだけ彼を信じてみようと思った。その歯に衣着せぬ態度、物言いが気に入ったのだろうか、それともわたしと話している時に見せる柔らかい表情が気になったからなのか、実際はどうなのか分からない。彼はわたしの記憶を取り戻すのを手伝ってくれると言ってくれた。なんだかうれしいような、そうじゃないような不思議な感覚がした。
そんな風にして榎田くんに手伝ってもらって数か月が経った。これほどまでに時間が経つのを早いと思った事はない。本当に気が付いたら既に春になっていた、というくらいだ。
彼と過ごしてきて、わたしの中で明確に変わったことがあった。それは彼の事を目で追うようになったという事だ。これが意味するところ、それが何なのか見当はつくが理解はしたくはなかった。
榎田くんには彼女がいるらしい。それは会った日に本人の口から聞いていた。それに時折わたしを見ながら、わたしではない誰かを見ているような、そんな気持ちになる時がある。あれは絶対に彼女の事を考えているに違いない。女の勘というやつだ。
そんな彼と善意とは言え二人きりで過ごすのはいかがなものか、そういう懸念がわたしにはあった。だけどどれだけ言っても榎田くんは一向に構う様子はなく、彼女さんの方もそれくらいで怒るほど狭量ではないのだという話も聞いていた。
後ろめたい反面、浮かれる気持ちもあった。それだけ日々が充実していたからだろうか、追い打ちをかけるようにわたしの記憶の一部が戻り始めた。
と言っても戻った記憶はごくわずか。市境の山を少し登った所にある公園と、そこから見える夜景の記憶だ。榎田くんに聞いたところ、そこはカップル御用達の名所らしく、あそこ辺りに住んでいる人ならほとんどが知っているらしい。
少なくはあったが、兆しは見えた。それに、わたしはこの街に住んでいたかもしれないという可能性も出てきた。何より榎田くんと一緒に色々と見られたのがとてもよかった。彼女さんには悪いけど、ここ最近で一番の思い出だ。
楽し過ぎて知代さんへの連絡をすっかり忘れてしまっていたくらいだ。慌てて電話を掛けたところ、やはり心配を掛けてしまっていた。どうしようもないほどに罪悪感にかられたが、電話を切る直前に知代さんが言い放った一言によって一時的にそれは吹き飛んだ。
『あ、そういえば貴女が言っていた、蒼くん……だったかしら。今度私にも会わせてくれないかしら?』
過去のわたしは何を思ったのか、知代さんの前で榎田くんを名前呼びしてしまうという暴挙を犯していた。彼の前では一回すら口にしたこともないのにだ。これではわたしは初恋に苦しむ少女のようだ。だけど一度言った言葉を取り消す事は出来ず、知代さんの前での蒼くん呼びは定着してしまった。そんなわたしにとって、ある時榎田くんの前でいきなりそう呼んでみて慌てさせるのが最近の目標だったりする。
その日から数日が経ち、知代さんと榎田くんが会う日になった。当たり前のようにわたしも同席すると思っていたけれど、何故か知代さんからわたしだけ来ないようにというお達しをもらってしまった。
まさかわたしが榎田くんの事を色々と言っていた事を言いふらせるのでは。なんて心配をしていた事もあったけれど、知代さんに限ってそんな事はないだろう。
正直な話、今のわたしにはそれよりも大切な事があった。それは今わたしがいる場所と大いに関係があった。
1DKの平均的な広さの部屋に、最低限な家具と少々の小物類。キッチンには今日の分のものだろうか、洗い物が溜まっている。
————何を隠そう、わたしは今榎田くんの部屋の中にいるのだった。
榎田くんの部屋に入るのはこれで三回目だ。一回目は忘れものを届けに、二回目は珍しく榎田くんから飲みに誘われ、意外にもお酒に弱かった彼を介抱した時だ。
そのどちらの時も、なんというか部屋が整理整頓されていなかったのだ。これまた意外に思ったものだ。何しろ榎田くんはそういうところはきっちりとしているため、部屋の中も相応に綺麗なものと思っていた————思い込んでいたからだ。
それを見たわたしが何を思うのか。掃除をしたい、である。
綺麗好きというわけではなく、掃除という行為自体が好きなわたしはついそう口走ってしまった。それを真に受けた榎田くんはあろうことかわたしに頼み込んできた。
彼女のいる人が、彼女でもなんでもない人に部屋の掃除を依頼する。これは一体どういう事なのだろうか。
だけど日頃お世話になっている手前断る事も出来ず、手持ち無沙汰の今日に請け負ったというわけだ。
「————さて、請け負ったからには徹底的にやりますか!」
頬を軽く張り、気合を入れる。最低限の掃除はしたのだろう、前来た時よりかはいくらか綺麗にはなっていた。しかし、細部にはまだまだ汚れがある。わたしは意気揚々と取り組んだ。
そして十分もしないうちに心が折れそうになった。
何しろ、掃除している途中で出てくるのだ。明らかに榎田くんの物ではなさそうな小物などなどが。持ち物の少なさを見た感じ、同棲はしていないのだろうが、少なからずの頻度で訪れているのだろうと分かるだけのものが。
だけどどれも少し前のものと言ったような感じで、もしかしたら最近は来れていないのかもしれない、と変な所で競争意識が顔を出す。少しうれしくなったのは心の中だけにしまっておこう。
「ん……? これは……」
掃除をしている中、気になっていた事があった。元々色々と本を読むとは聞いていたが、そうして並べられた本棚の中の本の幾らかを旅行誌が占めているのだ。
それらの中でもわたしの目を引くものがあった。やたら付箋の付けられた一冊だ。悪いとは思いつつ、これくらいはいいだろうの精神でぺらぺらと頁をめくっていく。
京都、福井、静岡などなど色々な所に貼られているけれど、もしかして彼女と行く予定でもあったのだろうか。羨ましいものだ。
「おや……?」
そうして旅行誌を眺めていたところ、スマホが着信音を鳴らす。榎田くんだろう。
わたしは旅行誌を元あった場所に戻し、メッセージを開いた。
————知代さんはもう帰ったよ。今から僕も帰る。
そんな風な内容が送られてきていた。むずがゆいような感覚を覚える。
わたしはお疲れ様とだけ送って再び掃除に取り掛かった。それから榎田くんが帰ってくるまでの間、わたしはひたすら彼の部屋を掃除していたのだった。
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