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自己愛者(ナルシシスト)の婚約者から逃れて:バリ島で私を救ってくれた人  作者: NoxVane


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第79章 残された足跡

シャニアの家の前には、空港へ向かうタクシーが待機していた。トランクには大きなスーツケースが整然と並べられている。早朝の空はまだ淡い青色に染まり、夜の名残である冷たい空気が肌を刺した。


トリアはテラスに立ち、ここ数ヶ月の自分を守ってくれた家を見つめていた。深く息を吸い込み、その光景を瞳に焼き付ける。プルメリアの木、かつて壊れ、今は修復された窓。目には見えないが、確かにそこにある温もり。


ユダはタクシーの傍らで運転手と短く言葉を交わし、トリアが別れを告げるための時間を作ってくれていた。


手元のスマートフォンが震えた。サンティからのメッセージだ。


それは単なる別れの挨拶ではなく、ジャカルタのローカルニュースのスクリーンショットと、長い文章だった。


『トリア、飛び立つ前にこれを見て。これで、何の憂いもなくインドネシアを離れられるはずだから』


トリアはニュースの見出しに目を落とした。


【バリ島での刑事事件に関与、IT企業のマネージャーが懲戒解雇】


トリアの目が見開かれた。サンティからの追伸が続く。


『ハルランは昨日の午後、正式にナワセナを解雇されたわ。人事がデンパサール警察での事件を知ったみたい。同業他社でもブラックリスト入り確定ね。それに、消費者金融の借金で取り立て屋に追われてるっていう噂よ』


トリアは長く、重い溜息をついた。虚しさはあったが、同情はなかった。すべてはハルラン自身が蒔いた種だ。かつて役職を鼻にかけていた男は、自らの執着によって自滅した。


メッセージはまだ続いていた。


『それからクラリッサのことだけど……因果応報って本当にあるのね。社内の上司との不倫がバレて、オフィスのロビーでその奥さんに乗り込まれたの。その動画がTikTokで拡散されて大炎上。恥ずかしくて退職したそうよ』


トリアは画面を閉じた。歓喜の声を上げる必要はない。ただ、正義はなされたのだと知るだけで十分だった。心を壊した二人は、今、それぞれの報いを受けている。


「終わったのね」


トリアは呟き、スマートフォンをポケットにしまった。もう振り返ることはない。その章は、完全に幕を閉じたのだ。


◇◇◇


一方、デンパサール郊外の狭いアパートの一室では、ユニ・ララサティが疲れ切った顔でノートパソコンの前に座っていた。髪は乱れ、目は腫れ上がっている。


画面には、不動産会社からの不採用通知が表示されていた。


『慎重に検討いたしました結果、バックグラウンドチェックおよび前職からのリファレンスに基づき、採用を見送らせていただくこととなりました』


今週に入って五度目の拒絶だった。


ユニは苛立ちに任せてマウスを叩きつけた。従業員データの漏洩と犯罪教唆によるアルカディア・プライムからの解雇は、バリの人事コミュニティに瞬く間に広まっていた。


彼女の名は非公式のブラックリストに載り、まともな企業で雇ってくれるところなどどこにもない。


インスタグラムを開くと、アレグラの公式アカウントがタグ付けしたトリアの最後の投稿が目に飛び込んできた。笑顔と花束に囲まれた、華やかな送別会の写真。


「ちくしょう……」


ユニの口から呪詛が漏れ、悔しさと後悔の涙がこぼれ落ちた。愚かな嫉妬のせいで、彼女は仕事も、評判も、キャリアの未来もすべて失った。憎んでいた相手が空高く羽ばたいていく一方で、自分だけが泥沼に取り残されていた。


◇◇◇


アレグラ・クリエイティブ・グループのオフィス。部屋の隅にあるトリアのデスクは、すっかり片付いていた。積み上げられた書類も、飲みかけのボトルも、小さなメモも、もうそこにはない。ただ、ミラへの贈り物として残された小さなサボテンが一つ、静かに置かれている。


ミラはその空っぽの机の前に立ち、ティッシュで目尻を拭った。


「トリアさんがいないと、本当に寂しいね、セラ」


隣にいたセラが、ミラの肩をそっと抱き寄せた。


「ええ。でも、彼女は幸せを掴んだのよ。それが一番大事なこと。この席にはまた新しい誰かが座るけれど、トリアがここにいた記憶は消えないわ」


ミラは頷き、小さなサボテンを見つめて微かに微笑んだ。


「元気に育ってね、サボちゃん。ご主人は幸せを探しに行ったんだから」


執務室では、バスカラ・リンタンが窓辺に立ち、駐車場を見下ろしていた。ユダの黒いセダンも、彼が愛用していたバイクもない光景は、どこか物足りなさを感じさせる。


彼は先月撮影したプロジェクトチームの集合写真に目をやった。中央で堂々と立ち、自信に満ちた笑みを浮かべるユダの姿がある。


「元気でな、ユダ」


バスカラは低く呟いた。「最高のリーダーだったよ。遠くへ、高く飛び立ってくれ。アレグラのことは心配いらない」


彼は写真をデスクに戻すと、再び仕事へと意識を切り替えた。オフィスの日常はこれからも回り続けるが、ユダとトリアが残した足跡は、いつまでもこの場所に刻まれ続けるだろう。


◇◇◇


シャニアの家の前で、トリアは最後にもう一度シャニアを抱きしめた。その抱擁は強く、長く、万感の思いが込められていた。


「元気でね、シャニアさん。体に気をつけて」


「あなたもね。ちゃんと上着を着るのよ。着いたら連絡して」


シャニアは声を震わせながら答えた。


ユダもシャニアと握手を交わす。


「それじゃあ、行ってきます。いろいろと、本当にありがとうございました」


「ええ、ユダ。トリアをしっかり守るのよ。傷つけたら承知しないからね」


シャニアは涙を拭いながら、茶目っ気たっぷりに釘を刺した。


トリアとユダがタクシーに乗り込み、ドアが閉まる。


車はゆっくりと庭を離れていった。トリアは窓越しに手を振り続け、角を曲がってシャニアの姿が見えなくなるまで、その手を下ろさなかった。


ユダがトリアの手を取り、座席の上で力強く握りしめた。


「準備はいいかい?」


トリアは顔を上げ、ユダの瞳を見つめた。これまでで最も晴れやかで、穏やかな微笑みを浮かべる。


「ええ、準備はできてるわ」


タクシーはバイパス・ングラ・ライを抜け、空港へと向かう。背後には暗い過去、痛み、そして涙が残されていく。目の前には、幸せな物語を綴るための新しい地平線が、どこまでも広がっていた。


傷を癒やしてくれたバリの島が、今、二人を送り出そうとしている。それは逃避ではなく、新しい世界を征服するための、勝者の旅立ちだった。


◇◇◇


イ・グスティ・ングラ・ライ国際空港の出発ロビーに、搭乗案内のアナウンスが響き渡った。シドニー経由オークランド行きの乗客たちが、次々とゲートへと吸い込まれていく。


トリアとユダは、巨大なガラス窓の近くにある待合席に並んで座っていた。外では大型のボーイング機が、今か今かと大空を切り裂く準備を整えている。


トリアは遠くを見つめるような眼差しで、その機体を見つめていた。記憶が数ヶ月前へと引き戻される。


あの時の自分は、重い足取りでスーツケースを引きずり、サングラスの奥で目を腫らし、心は粉々に砕け散っていた。逃げるようにバリへやってきた彼女は、スーツケースいっぱいのトラウマと自信喪失を抱えていた。世界が終わったかのように感じ、バリはただ、完全に諦めるまでの束の間の隠れ家に過ぎないと思っていた。


けれど、今日は違う。


トリアは隣を見た。ユダがパスポートとチケットを確認し、忘れ物がないか念入りにチェックしている。落ち着いた様子だが、その瞳には期待の光が宿っていた。


視線に気づいたユダが、トリアを振り返って優しく微笑む。


「どうした? 何か忘れ物かな」


トリアは静かに首を振り、微笑みを返した。


「ううん。ただ……ここに来た時の私と、今から旅立つ私が、どれだけ違うかって考えてたの」


ユダはパスポートを閉じ、トリアの手を包み込んだ。


「どう違うんだい?」


「あの時は、あなたと一緒に傷を抱えてここに来た」トリアは正直に答えた。「今は、あなたと一緒に希望を抱いてここを去る」


ユダは握る手に力を込めた。


「希望と、それから未来の夫も一緒だろう?」


悪戯っぽく付け加えられた言葉に、トリアは小さく笑った。


「ええ、そうね。それから、向こう見ずな未来の夫もね」


「さあ、行こう。呼ばれたよ」


ユダが立ち上がり、トリアの手を優しく引いた。


二人は並んで搭乗橋へと歩き出した。その足取りは力強く、リズムは重なっている。もう迷いはない。過去の影に怯えることもない。


◇◇◇


機内に入り、二人は窓際の席を見つけた。トリアが窓側に座り、ユダが通路側に座る。


トリアはシートベルトを締め、背もたれに身を預けた。左手を上げ、薬指に輝くシンプルで美しい婚約指輪を見つめる。小さなダイヤモンドが、機内の照明を反射してきらめいた。


この指輪は単なる装飾品ではない。それは約束の証だ。自分は愛される価値があり、守られる価値があり、そして幸せになる価値があるのだという証。


「綺麗だね」


トリアを見つめていたユダが言った。


「ええ、本当に」トリアは答える。「ありがとう、ユダ。指輪だけじゃなくて、全部に。あなたの忍耐強さ、私を守ってくれたこと……そして、自分自身をもう一度信じさせてくれた、あなたの愛に」


ユダは微笑み、トリアを深く見つめた。


「僕の方こそありがとう、トリア。君がいたから、僕は大きな決断を下す勇気を持てた。キャリア以上の目的を、君が与えてくれたんだ。君は……僕の帰る場所ホームだよ」


飛行機のエンジンが轟音を上げ始めた。機体がゆっくりと後退し、滑走路へと向かう振動が全身に伝わってくる。


ユダが肘掛けの上に手を伸ばした。トリアはその手を迎え入れ、指を固く絡ませる。


「緊張してる?」


「少しだけ。でも、ワクワクするような緊張感よ」


機体は旋回し、滑走路の端で一時停止した。エンジンの出力が最大になる。凄まじい加速とともに、二人の体はシートに押しつけられた。


トリアは窓の外に目をやった。空港の景色、海、バリの家々の屋根が、猛スピードで後ろへと流れていく。


車輪がアスファルトを離れた。浮遊感。


高度が上がるにつれ、眼下のバリ島が小さくなっていく。甘く苦い思い出が詰まった島。二人が出会い、恋に落ち、互いの傷を癒やし合った場所。


白く光る海岸線、小さな波しぶき、そして雲に隠れたアグン山の遠景。


(さようなら、バリ)


トリアは心の中で呟いた。(私を癒やしてくれて、ありがとう)


飛行機は白い雲の層を突き抜け、果てしない青空へと躍り出た。数千キロ南には、新しい生活が待っている。新しいアパート、新しい仕事、新しい隣人、そして新しい冒険。


困難もあるだろう。文化の違いやホームシック、些細な問題。けれど、彼女はもう怖くなかった。


隣を見ると、ユダが目を閉じている。けれど、その手は今もトリアの手を離さない。


トリアはユダの逞しい肩に頭を預けた。目を閉じ、彼の穏やかな鼓動を感じる。


高度三万五千フィート。空と大地の狭間で、トリア・マヘスワリはついに真の安らぎを見つけた。それは場所ではなく、一人の人間の中にあった。


過去は遠く後ろに去り、距離と時間の中に溶けていく。そして未来は……窓の外の空のように、どこまでも明るく輝いていた。


「準備はできているわ」


彼女は小さく呟き、微笑みを浮かべたまま眠りについた。


飛行機は二つの心を乗せて、希望に満ちた新しい地平線へと飛び続けていく。


【完】


第79章、そして最終章。長らくお読みいただき、本当にありがとうございました。

トリアとユダの旅は、ここで一旦区切りを迎えます。

バリでの出会い、別れ、そして新たな地への旅立ち。

二人の物語が、皆さんの心に残る温かいものとなっていれば幸いです。

この作品を書き続けることができたのは、読んでくださった皆様のおかげです。

もしよろしければ、最後の感想や「ここが好きだった」という言葉を、コメントやブックマークで残していただけると、作者にとって何よりの喜びとなります。

次は異世界やパラレルワールド、次元移動といったジャンルにも挑戦してみたいと思っています。

また新しい物語でお会いできる日を楽しみにしていてください。

X(@mrnoxvane)やLINE(ID: noxvane)でも、お気軽にご連絡ください。

本当に、ありがとうございました。

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