第八章 決定的な日
恵美が家を出てからというもの、小夜と志津香は、ほとんど毎日のように尾長家を訪れるようになっていた。
平日は、小夜の学校帰りに志津香と待ち合わせて、そのまま家へ来る。志津香が夜の仕事に出る時間まで、三人で過ごすのが当たり前になっていた。
土日も同じだった。昼前からやって来て、夕方まで一緒に過ごす。
小夜は相変わらず健介にぴったりと寄り添い、志津香は少し離れたところで微笑みながらその様子を見ている。そんな光景が、いつしか日常になっていた。
しかし、ある土曜日は違った。
昼頃、チャイムが鳴った。
健介が玄関まで出迎えに行くと、そこに立っていたのは志津香一人だった。
「あれ、小夜ちゃんは?」
「今日は父と母に預けてきました」
志津香は少しだけ真剣な表情をしていた。
「実は……大事なお話があるんです」
その言い方に、健介は自然と背筋を伸ばした。
「どうぞ、上がって下さい」
ダイニングに案内し、向かい合って座る。健介は台所でお茶を入れ、湯気の立つ湯呑みを差し出した。
「今日は小夜ちゃんは?」
改めて聞くと、志津香は静かに答えた。
「さっき言った通り、預けてきました」
そして、少し間を置いてから続ける。
「……本当に、大事なお話なんです」
「な、何ですか?」
志津香は立ち上がった。
そして、ゆっくりと健介に近づいてくる。
「私……ずっと思ってたんです」
震えるような声だった。
「健介さんといる時間が、一番落ち着くって」
そのまま、健介のすぐ目の前まで来る。
「私じゃ……ダメですか?」
そう言って、そっと手を伸ばした。
突然の距離の近さに、健介は戸惑う。
「いや……そういうわけじゃ……」
言葉がうまく続かない。
志津香はそのまま健介の胸に顔を寄せた。
拒む理由が見つからないまま、健介は動けなくなっていた。
次の瞬間、志津香がそっと顔を上げる。
その距離のまま、唇が触れた。
最初は戸惑いだった。
だが、もう一度重なった時、健介の中で何かが切れた。
その日、二人は長い時間を一緒に過ごした。
会話も、沈黙も、触れ合いも、すべてが自然に重なっていく。
誰もいない家の中で、二人だけの時間が流れていった。
夕方近くになり、静かになった部屋で、志津香がぽつりと言った。
「健介さん……奥さんと別れて、私と一緒になってくれませんか?」
健介は、しばらく何も言えなかった。
「小夜も、貴方のこと本当の父親みたいに思ってます。きっと、うまくいくと思うんです」
真っ直ぐな目だった。
その視線を受けて、健介はゆっくりとうなずいた。
「……分かった」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「離婚して、志津香さんと一緒になる」
志津香は、ほっとしたように息を吐いた。
三日後。
恵美が実家で過ごしていると、大きな段ボールがいくつも届いた。
送り主は、尾長健介。
不安な気持ちのまま箱を開けると、中に入っていたのは、自宅に置いてきた自分の荷物だった。衣類、日用品、細かな私物まで、きちんとまとめられている。
その中に、一通の封筒が入っていた。
震える手で開く。
中には、短い手紙と、離婚届。
『別れてくれ。
財産分与はする。親権も渡す。養育費も払う。
離婚届を同封したから記入して返送してくれ』
それだけだった。
話し合いもなかった。
一方的に決められていた。
納得がいかず、恵美はすぐに家へ向かった。
チャイムを鳴らす。
だが、誰も出てこない。
ドアノブを回す。
鍵が開かない。
何度か試して、ようやく気づいた。
鍵が変えられている。
電話をかけても、出ない。
手紙を書いても、返事は来ない。
日が経つにつれ、恵美の中で、少しずつ何かが折れていった。
そして、ついに。
離婚届に名前を書いた。
それを封筒に入れて、ポストに投函した。
数日後。
口座を確認すると、夫婦の貯金の半分と、今月分の養育費が振り込まれていた。
それを見た瞬間、現実が胸に突き刺さる。
もう、戻れない。
膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちる。
声も出ないまま、ただ涙だけが止まらなかった。
その日、恵美は一日中泣き続けた。




