第十三章 帰る場所
健介は、必要最低限の荷物だけをまとめて家を出た。
小さなバッグ一つ。
それだけだった。
玄関を出た瞬間、どこへ行けばいいのか分からなくなった。
両親はすでに亡くなっている。帰れる実家はない。友人も、長く疎遠になっていた。
肩を落とし、足取りも定まらないまま、ただ歩き続けた。
どれくらい歩いただろうか。
気がつけば、見覚えのある住宅街に立っていた。
元妻、恵美の実家の前だった。
自分でも、どうしてここに来てしまったのか分からない。
ただ、無意識に足が向いていた。
門の前に立つ。
チャイムを押す勇気は出なかった。
この家に、どんな顔をして立っていればいいのかも分からない。
ただ、立ち尽くしていた。
その時、後ろから声がした。
「……健介?」
振り向くと、買い物袋を抱えた恵美が立っていた。
「健介!? なにしてるの!?」
驚きと、警戒が混ざった声だった。
健介は、しばらく言葉が出なかった。
そして、途切れ途切れに、ここに至るまでのことを話した。
家を追い出されたこと。
名義が変わっていたこと。
貯金がなくなっていたこと。
すべてを話し終えた時、恵美は静かに息を吐いた。
「……ふーん」
冷たい声だった。
「じゃあ、あの女に家も財産も全部取られたんだ」
一拍、間があく。
「因果応報ね」
健介は、地面に手をついた。
そのまま深く頭を下げる。
「俺が悪かった!」
声が震えた。
「この通り謝るから……俺とやり直してくれ!」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、恵美の声が落ちてきた。
「……ふざけないでよ」
低く、はっきりとした声だった。
「あんたの顔なんか、二度と見たくない」
健介は顔を上げられなかった。
「帰って」
それだけ言うと、恵美は家の中へ入り、ドアを閉めた。
鍵のかかる音が、静かに響いた。
その夜、健介は公園のベンチで一晩を過ごした。
冷たい夜風が、体に染みた。
朝になり、健介はふらふらと立ち上がった。
足が、自然とあの家の方へ向いていた。
自分の家だった場所。
だが、もう帰れない場所。
少し離れたところから、ただ眺めることしかできなかった。
しばらくして、玄関のドアが開いた。
出てきたのは、志津香だった。
その隣に、康政がいる。
二人は腕を組んでいた。
まるで恋人のように、自然に。
その後ろから、小夜が駆けてくる。
「パパ、まって!」
小夜がそう呼んだのは、健介ではなかった。
康政の腕にしがみつく。
康政は笑いながら、小夜の頭を撫でた。
健介は、言葉を失った。
ふと、門柱に目がいく。
表札が変わっていた。
門柱の表札には、はっきりと
“本城”
と書かれていた。
志津香と康政は腕を組み、小夜は康政の腕にぶら下がるようにして笑っている。
「パパ、はやく!」
小夜がそう呼んだ。
その声を聞いた瞬間、健介の中で何かが、すっと腑に落ちた。
自分が追い出されたのではない。
最初から、ここに居場所などなかったのだ。
思い返せば、すべてが出来すぎていた。
公園での出会い。
偶然のように続いた再会。
いつの間にか入り込んでくる距離感。
気づけば、家の中に居場所を作られていた。
そして、気づいた時には、もう何も残っていなかった。
家も。
金も。
家族も。
あの母娘は、最初からここに巣を作るつもりだったのだ。
自分は、ただ選ばれただけ。
そこまで考えた時、健介の胸の奥に、別の痛みが広がった。
――違う。
最初に巣を壊したのは、自分の方だった。
恵美がいて、愛美がいて、あの三人で過ごしていた時間。
あの家には、ちゃんと“家族”があった。
そこへ入り込んできたのは、小夜たちだけではない。
志津香に手を伸ばしたのは、自分だった。
恵美を追い出したのも、自分だった。
自分が壊した巣に、別の鳥が入り込んできただけのことだ。
因果は、ただ巡っただけだった。
健介は、ゆっくりと目を閉じた。
心の中で、恵美に謝った。
もう一度やり直したいと、何度も思った。
だが、時間は戻らない。
もう一度目を開けた時、志津香たちの姿は玄関の奥へ消えていた。
そこにあったのは、もう自分の知らない家だった。
健介は、静かに背を向けた。
自分が壊した場所には、もう戻れない。
そして、自分が選ばれた理由も、きっと一生分からないままなのだろう。




