閑話:いつか落ちてくるその日まで(後編)
――背景から登場人物に変わりたいと思ったきっかけを、敢えて挙げるとするならば。
それはこれだろうな、と。
思うところは、ある。
ばり、ばり、と小気味いい音がした。
「~~~~~~っ!!」
目の前には、教室ではツンと澄ましている顔を見事に崩して悶える古比奈がいた。灰色の猫が近付いてきていることには、どうやら気付いていないらしい。
今日のお供は、どうやら煎餅のようだ。家で頼めばもっと高価で高品質なものが用意されるだろうに。こっそりとスーパーやコンビニで市販されているものを買ってくる背徳感がスパイスとなっているのだろうか。単純に、味が好き、という話かもしれないが。さて、どうだろう。
そんな風に穿った見方をする俺のことなんて全く眼中にもないのであろう彼女は、疑っているこちらが馬鹿らしくなるほどに、ふにゃふにゃした顔を無防備に晒している。
幸せいっぱい。喜色満面。そんな言葉がとてもよく似合う表情。
――初めて見た時に、心底不思議に感じた、その表情。話し掛けてみようか、などと珍しくも思ってしまった、きっかけ。
(どうして、たかだか菓子ひとつでここまで幸せそうになれるんだろう)
別に、特別空腹だからというわけでもあるまいに。
俺と、彼女と、いったい何が違うのだろう。
――きっと、初めはそんな些細な興味からだった。自分と違う感性を持つ者に対しての、ほんの些細な興味。『野菜や魚よりかは肉の方が良い。仮にそうでなくとも腹に収まればとりあえずは構わない』――そういうレベルでしか食事を捉えられない自分とは違う、食べることを楽しむ姿。
ばり、と二枚目を勢いよく頬張る音がした。
まるっきり俺の存在を忘れたかのような彼女が、少し腹立たしい。
俺は音も立てずに擦り寄ると、彼女のふくらはぎに頭のてっぺんをぐりぐりと押し当てた。
「あ、ハイ!」
ぱああ、と表情が明るくなっ――たかと思えば、直後、彼女は、喜んでしまった自分を恥じ入り、その事実を隠すように眉根を寄せた。
どうも未だに古比奈の中では、『ハイと呼んでいる猫は、国永瑛士という人間である』という認識が上手く脳内に記銘されないらしい。無理もない。普通に生きていれば、繋がるはずがないもの同士だ。
ただの猫になら見せる屈託ない笑みは、化け猫には無邪気に披露できないようだ。雲ってしまった表情を前にして、ハイと呼ばれる猫のひげが、少しだけ下を向く。
それでもひとまずは、俺に意識を向けさせる、という目論見は成功だ。
気を取り直して、にゃあ、と普段より高い声で鳴くと、古比奈は強張った表情を少しだけ緩めて、口を尖らせた。
「もう、しょうがないなあ」
古比奈は自分の鞄をさばくって、猫用のドライフードを取り出した。……ドライフードって、あんまり好きじゃないんだけどな。ぼそぼそするし。まあ、文句は言える立場でもない。それに、食べたら彼女は喜ぶから。
目の前に広げられた袋から、直接ドライフードをつつく。古比奈は、俺がそれを食べ始めたのを確認すると、自分も再び煎餅を食べ始めた。
この時の静かに流れる時間は、嫌いではない。不思議と心が落ち着く。本当の自分は、食べることなんて特別好きでもないのに。
それがどうしてなのかを、俺はほどほどに理解している。敢えて、俺からはそれ以上に踏み込まないように気を付けながら。
だって、まだ、駄目だ。
まだ、その覚悟を決める段階までには行き着いていないから。
それでも――
「んんん、やっぱり美味しいなあ……」
あれほど気を付けろと注意したのに、ぱたぱたと足を動かしてスカートをはためかせる古比奈の姿に、ふう、と息を吐く。ぱたり、と尻尾を一度だけ動かした。その動作が、彼女からしたら呆れているように見えたらしい――実際、呆れていたのだが、それは彼女の言う「美味しいんだから、つい次に手が伸びちゃうのは仕方ないでしょ!」とは全く違う理由だ――。
ぷりぷりしながら軽く頬を膨らませる彼女の機嫌をとるように、猫の柔らかい肢体を擦り付ける。
「わ、私は、そんな安い手には乗らないんだからね!」
と、言いながらも、細い手が猫の毛をわしわしと撫でている。ついでに、吊り上げた目尻と反して、口元が緩々だ。上目遣いで見たら、余計にゆるっとなった。これで彼女は、本当に本心を隠しているつもりなのだろうか。つくづく不思議で仕方ない。
雑な手つきで、半ば逆撫でに近い形で触られることは好きではない。大概の猫にとってはアウトだろう。
だが、俺は大人しくされるがままになっていた。
ちらりと見上げると、蕩けた顔が視界に入った。菓子を食べている時の満面の笑みとは違う、ゆるりと解れた微笑み。愛おしそうに細められた目。
強がって、嘘吐きに振る舞う彼女の『本物』。
それが俺に向けられたものではないことを、俺は知っている。
だから、まだ、駄目なのだ。
それでも――本当はわかっている。本当の嘘吐きが誰なのか。
まるで彼女の意志を尊重しているかのように擬態している予防線には、もはやなんの意味もないことを。
まるごとの微笑みを俺に向けて欲しくなって、それ以外の感情も全て見せて欲しくなって、彼女の髪に、頬に、腕に、自分の指先で触れたいと渇望して、強がりごと腕の中に閉じ込めたいと願った時から、もう後戻りなどする気がないことを。
初めは、たしかに、揶揄うことだけが目的だった。些細な興味だけだった。――でも、今は、そうではない。
今はただ……待っているだけだ。
その腕が、不用意に自分に伸ばされる機会を。
その顔に、剥き出しの感情が浮かぶ決定的な瞬間を。
優しさとは程遠い感情で――。
(――あ)
やば、と思った直後、自分の身体を熱が駆け巡った。煙が身を隠すように包み、その中で身体が変化する。猫から人間へと。
ぱちり、と瞬きしている間に、目の前に古比奈が出現した。……いや、出現したのは俺の方か。などと脳内で訂正していると、古比奈が「ぴぎゃ!」と妙な悲鳴を上げながら目を瞑り、手足をばたばた動かし始めた。
「何してんの早く服を着てよ馬鹿!」
「…………あー」
「あー、じゃないわよ!」
ぴぎゃあああ、と半泣き状態になっている古比奈を眺めていると、どこからともなく颯爽と研が現れて、手早く着替えを置いていった。今までどこに控えていたのだろう。まあ、どこでもいいか。いつものことだから。
さっさと疑問を棄てて着替え始めた俺の前では、ぎゅっと目を閉じたままの古比奈が「着た? 着たの? もう良いの?」と未だに半べそ状態で地べたに座り込んでいる。
たとえば今、手を伸ばしたら、俺の願いは簡単に叶うのだろう。……半分だけは。
そうしてしまおうか、と衝動的に思う瞬間もある。
けれど。
「ねえ、ちょっと……? なんで返事が無いの? く、国永……?」
無防備におろおろしている古比奈を見、――手を伸ばす。
……そのまま、むにー、と頬を左右に伸ばした。
「ふひゃ」
びっくりして目をぱっと開いた古比奈の姿に、ふっと吹き出すと、案の定彼女はひどく憤慨した。その怒った声を聞きながら、俺はますます笑う。
俺は嘘吐きだけれど。
想う気持ちすら、綺麗なだけではないけれど。
それでも――きみに負けないくらいの『本物』も持っていると思うから。
だから、早く俺を好きになって、古比奈。
書き終えてからふと思ったのですが、そこはかとなくヤンデレの気配が…?