全ての男は武器である
日本のどこか、一九八〇年代のいつか──。
※※※
男は、殴り合いのための武器を持って生まれるという。
例えば、中手骨という骨がある。手の甲を支え、手首と指を繋ぐ骨であるが、この骨の骨頭は人体の中でも異彩を放つ不穏かつ血腥い形状をしている。いわゆる、拳骨である。
拳骨が殴打の威力を最大化する形状であるのは、決して遺伝子の気まぐれによるものではない。殴り合いによって雄同士の競争に勝利した集団が遺伝子を拡散させ、人類という種を拳闘生物に昇華させた痕跡なのである。
男体の生物学的武器化は拳骨に留まらない。例えば、彫りが深い。髭が生えている。これらの特徴は、どちらも打撃の衝撃を吸収するためのものだ。拳骨によって強化された殴打に対抗し得る集団がばら撒いた防御の遺伝子の発現なのだ。
であるなら、男と男が殴り合うのは遺伝学的な宿命なのかもしれない。もし恐竜が隕石を生き延びてディノサウロイドに進化し、高度な文明を築いていたとしても、パキケファロサウルスの末裔は頭突きによる男の張り合いを辞められないだろうし、トリケラトプスのツノにしても同じであろう。
1億年後の地球に人間でなく鹿の末裔が帝国を築いていたとしても、彼らの社会の決闘は角を用いたものになるはずだ。それと同じように、人間の雄もまた殴り合いというものからは決して逃げられないのかもしれない。
「ぶえっくしょい!」
しかし、俺の悩みは人類が囚われた終わらない殴り合いの螺旋ではなく、この家賃2万円の木造アパートの不潔さだった。
壁はあちこち剥げた古い繊維壁で、畳の藺草の十本に一本は黒ずむか黄ばんでいる。窓は北向きに設えられており、真っ昼間の今でも薄暗かった。さらに悪いことに、夜になれば気の効いた笠もない惨めな裸電球に頼らなければならない。
ここは大正の終わりに建てられた建築で、四畳半一間、風呂無し、共同トイレという代物だ。ここに越してきてからクシャミが止まらなくなったし、定期的に皮膚のどこかがガジガジになった。
そうなるとワセリン代が勿体なく、慢性化の心配など今更なので、酒屋でビール瓶を買ってきて時代劇の侍を真似るつもりで口に含んだビールを荒れた部分に吹きつけることにしている。
効果が上がったことはないのだが、禁酒している俺にとっては「これは"薬"を無駄にしないためだから仕方ない」という大義名分で飲むのに大変都合がいいのだ。今となっては肌が荒れるのはまだか、まだかと待ち構えている次第である。
そんな汚らしい部屋の狭い台所で、俺は今日もやっとの思いで昼飯を作り上げた。切るときは床にまな板を置いて切り、炒めるときは一口コンロで炒め、炊くときは畳に置いた炊飯器で炊いた特製の怪力飯だ。
主食に納豆と卵のかかった白米どんぶり、主菜にこんにゃく、きくらげ、皮無しの鶏胸肉、ヨーグルト、豆腐、もやしを混ぜて小麦粉でとろみをつけた大きな塊、副菜にはタッパーにギチギチに詰まった山のようなブロッコリー。
それをちゃぶ台に置き、ブロッコリーをいくつか奥歯ですり潰した後、中華レンゲを手にとって一気に塊をかっ込んだ。美味いからではない。味がくる前に平らげたいのだ。
やがて味が滲んでくると、急いで卵納豆飯を流し込む。舌が落ち着いてくると再び塊へ。これを繰り返していると、20分くらいでようやく塊は消えた。俺は安心感に額の汗を拭うと、菩薩のように穏やかな気持ちで残りの米を吸い込んだ。ブロッコリータッパーを3分の1くらい減らしたところで完食だ。
今日は日課の10キロランニングも午前に済ませていて、ウェイトトレーニングは休養日だ。そして、日曜日である。することも無いのでテレビをつけてみると、ちょうど巨人と広島の試合がやっていた。
衣笠が西本から単打を放つ場面である。続く長嶋清幸までツーベースを打って三塁ランナーがホームインしたので、舌打ちしてスコアを見ると5回で1-6という有り様であった。俺は嫌になってテレビを消し、天井のシミを数えるのに専念することにした。
右のシミにシミ太郎、左のシミにシミ子と名付けて二人の会話を想像してみる。
シミ子先生、ぼかあ貴女が好きです。誰がなんと言おうと好きなんです。嫌だわシミ太郎くん、貴方と私は教師と生徒の関係じゃないの。先生、そんなの愛の前じゃあ関係ありません。だめよシミ太郎くん、いけないわ、あっ……。
俺が年上好きでないとは言わないが、結婚は年上としたいと思っている。5歳以上は年上で、しかも処女という女と結婚したい。
年上の女の前で可愛いオトコノコをやるのが好きだが、俺より経験豊富な女に過去の男と比較されるのは嫌だ。だから年上の処女に男を教えたい。
それは15歳の頃から考えていることなのだが、それには、今の俺が三十路手前であることにも目を向けねばならないだろう。今の俺は28歳であって、要望を叶えるには33歳の処女と結婚しなければならず、33歳の処女は恐らく拗らせた人が多い。
拗らせた男と拗らせた女がくっついても多分上手くはいかない。割れ鍋に綴じ蓋では、中の汁物が漏れるだけだ。
しばらくシミ太郎とシミ子の恋愛劇を進めていき、子供が二人くらい生まれたところで、ドアが乱暴に打ち鳴らされた。溜め息をつく。俺の部屋に歓迎すべき来客は無い。面倒なのでそのまま寝転んでいると、さらに強くドアが叩かれたので、仕方なく玄関に向かった。足の裏がひんやりと冷たい。
「はい、はい、そんな強く叩かなくても聞こえてます」
目の前に現れたのは、ヴェルサーチの柄シャツの上に白いスーツジャケットを羽織り、セカンドバッグを小脇に抱えたパンチパーマ・ちょび髭・サングラスのソウル歌手にしか見えない男と、その脇のこれまたヴェルサーチのジャージセットアップを着た坊主頭の太った小男。
金田兄弟、という二人組だ。もっとも、二人が兄弟だと名乗ったことはなく、金田だと名乗ったことすら無いが、誰からともなくそう呼びだしたとの話である。
彼らにまつわる唯一の確かなことは、大阪にいられなくなって東京に流れてきた二人組だ、ということだった。
「ニイさん、いるんなら早く出えや。おらんかと思うたわ」
金田兄──サングラスの方──は、これでも俺より年下だ。22歳とのことだった。
「今日は何の用だよ」
「日体大の砲丸投げや」
「は?」
「日体大の砲丸投げ選手やっちゅうデカブツがワシのスケに"ツッコミ"よった。デカすぎてワシらも手ぇ出されんし、デカすぎてワシのスケも血ぃ止まらんいう話や。それでニイさんに話持ってきたんや」
「ふうん。でもさ、日体大の生徒つったら未来の五輪選手もしんねえぜ。そうでなくても自衛官、警官、体育教師あたりにはなるだろ。そんな立派な奴と……」
「いつもの5千円じゃ足りひん言うことか?せやったら、追加で晩飯代くらいは出したるで」
「よしきた」
俺は玄関脇にかけてある前のバイト先のために買ったドカジャンを掴み取ると、ヨレたトレーナーの上から羽織った。濃紺に黒襟のドカジャンに、シャカシャカテロテロのジャージズボンに、顔を顰めたくなるほどくたびれた泥まみれのミズノのスニーカーという出立で金田兄弟についていく。
道中、弟は一言も喋らなかった。
※※※
男は雀荘にいた。仲間と卓について「鳴き麻雀ばっかしやがって、殺すぞ」などと言い合ってるところに金田兄弟と俺で押し入り、今は近場の河原まで連れ出したところだ。なるほど、確かに体格がいい。
背は俺より少し低いくらいで、厚みは俺よりもある。投擲選手の逞しさを感じさせる体つきだ。
「お前、誰の女にツッコミ入れたか分かっとるんけ?なかなかええ度胸してるやないか」
金田兄が言うと、男は荒く鼻息を鳴らした。
「お前みたいな関西モン知らねえよ。第一、何の話してんだよ」
「お前が居酒屋のトイレで無理矢理犯した稲川浩子のことやろうが」
「ああ、お前が浩子のカレシか。教えといてやるよ。俺とあいつはこの1ヶ月で8回はセックスしてるぜ。居酒屋の一件より前からな。呼んだらすぐ飛んでくるから使ってやってたら、彼女にしてくれって言うから突っぱねたんだよ。そしたらピーピー泣きながら、レイプされたって彼氏に言いつけてやるって……」
金田兄の顔がみるみる青ざめていくのを見て、俺は二人の間に立った。
「もうやめよう。男には知らなくていい事情もある。この喧嘩、武道家・壬生諒斗が買った」
「武道家?どこの武道だよ」
「古武術と、柔道と、ボクシングと、実戦空手と、ムエタイと、忍術と、プロレスだ」
「色々つまみ食いしたけど結局絞り切れなかったってわけか?まあいい、お前からぶっ殺してやるよ」
男はそう言ってこちらを睨みながら、動きを止めた。一秒、二秒、三秒、四秒。そして、男は倒れ込むようなノーモーションで走り出す。上手い。喧嘩慣れしている。格闘技では身につけられない喧嘩の戦術だ。
感心している間もなく、男は拳を弓のように引き絞る。分かりやすい。喧嘩の戦術は知っていても、所詮素人、喧嘩の戦法までは知らないようだ。
俺は前方に上体を沈め、パンチの軌道の下に潜り込む。頭上で恐ろしい風切り音が唸りを上げ、投擲選手の分厚い体が肩口に飛び込んできた。吹き飛ばされそうになるのをこらえ、俺は前方にある太い脚を掬いとると、そのまま股下でクラッチを組んだ。
男は俺の頭を両手で押しのけて離れようとするが、甘い考えだ。そのままクラッチを肩の上まで一気に引き上げる。男の体は持ち上げられて空中で半回転し、肩から地べたに叩きつけられた。四つん這いになって立ちあがろうとする男に、俺はがぶりつく。
右肩と左脇から両手を通して顎の下でしっかり組み、離れられなくすると、まずぴんとケツを突き出す。それから浮いた腰の落下に伴わせるように、膝を頭頂部に叩き落とした。
がつん、とした衝撃が膝の皿を突き抜け、骨まで響いてくる。俺は男がもがくのを両手の固定で制し、何度もケツを突き出しては膝を落とし、ケツを突き出しては膝を落としを繰り返した。
やがて、男の頭頂部はアワビのようにぐっぱり割れて血まみれになり、俺のドカジャンとジャージズボンも、男の顔面もどろどろに汚れた。
「も、もういい、もう勘弁してくれ」
男の声に応じ、俺は解放してやった。男は立ち上がるとすぐに膝が抜けてその場に四つん這いになり、うっ、うっ、と喉元を抑えたかと思うと、たちまち滝のような吐瀉物を草むらへ解き放つ。
「うわっ、汚いのお」
俺は金田兄を制しつつ、男に声をかける。
「わりい、頭打ちすぎた。今日明日は安静にしろよ」
その後、俺は金田兄から喧嘩代5千円をもらい、おまけで晩飯のラーメン代300円をもらった。帰りの道すがら、金田兄はずっと青ざめた顔をしていた。
俺は「あいつがテキトー言ってるのかもしんないぜ」と繰り返したのだが、不安は晴れないようで、何か彼の中で合点がいってしまうところがあるらしかった。
その晩、俺はテレビ番組を見ていると、女湯が出てくるシーンのせいで悶々としてきたので、押し入れの奥からエロ本を引っ張り出した。ナチスドイツの兵隊がフランスの金髪女スパイに性的な拷問をするという内容だ。それを読みながら、金田兄の彼女が本当に寝取られていたらいいな、そうだったらエロいな、と俺は思った。
※※※
翌週も、金田兄弟はやってきた。兄貴の方がまだ落ち込んでいたら面倒だと思ったが、いつもの調子に戻っていていくらか安心した。
「ニイさん、賭場荒らしや、賭場荒らし」
「どういうことだ?」
「ワシのやってる丁半の賭場に素手で殴り込みかけたアホがおったんや。5人おった客が全員ぼって打ちにされて現ナマと腕時計ぶんどられ、被害総額は1000万以上や」
「そんな大事、俺じゃなくてヤクザ屋に頼めよ」
「ワシ、極道のパトロンおらんねん」
金田兄弟は俺をとある資材置き場まで案内した。鋼板やH形鋼が山積されている無人の土地で、ここに賭場荒らしを呼びつけているとのことだ。到着してもしばらく賭場荒らしは来ないので、俺は落ちている鉄パイプをバットに見立てて振ったりしながら暇を潰した。
十数分が経過したところで、資材置き場の入り口から足音がした。──と、俺が振り返りきる前にその足音は猛然と加速し、砂利を八方に吹き飛ばしながら突進する音に変わる。
そして俺が振り返ると、瞬間的に飛び込んできたのは、足音の主の飛び足刀が鋼板の山に座っていた金田弟の顎をとらえ、横っ飛びに吹き飛ばす光景だった。
「ワ、ワ、ワレ──」
手近な角材を拾ってへっぴり腰で立ち向かう金田兄だったが、次の瞬間には巻き付くようなハイキックをまともに側頭部へもらい、石化したように一瞬固まりそのまま崩れ落ちた。
ここまでものの数秒だ。金田兄弟を瞬く間に片付けた襲撃者は、ギロリと俺を睨みつけた。
「アンタが金田兄弟の用心棒?」
ガキじゃないか。それが第一印象だった。まず着ている服が学ランだ。それの前を全開にしてシャツも第二ボタンまで開けており、髪は地毛っぽい茶髪。トップがパーマがかっていて、不良生徒という感じの出立ちだ。
「強えんだな。何の格闘技やってんだ?」
「極竜空手。それより質問に答えろよ。アンタが壬生諒斗なんだろ。5千円で喧嘩代行するっていうフリーターだろ」
「嫌な知られ方してんな。そうだよ、俺が壬生だ。そういうお前は賭場荒らしクンだろ?」
「ああ。妹尾数希だ」
妹尾は背が高いというほどではない。体の厚みもさほど無い。体格だけなら、街中にいくらでもいる男と変わらない。が、袖を押し上げる腕の輪郭や、腰から脚にかけての引き締まった線には、妙に目を引くものがあった。
重心が低いわけでも、ことさらに胸を張っているわけでもない。ただ、身体のどこにも余計な力が入っておらず、いつでも動き出せそうな身軽さを感じる。
「お前は高校生だろ?高校生で1000万なんか持っても使い道が無いし、本格的に怖い人たちが出てくる前に早く返しな」
「嫌だね。俺、あの金でバイク屋開くから」
「バイク屋?経営の知識なんかあんのか?」
「金があればできるだろ」
「店借りて、バイク仕入れて、工具揃えて、人手雇って、それでも客が来ないなんて普通だぜ。メーカーとの関係調整とか、古物商の許可とか、お前にできんのか?」
「うるせえ!」
妹尾は構えた。胸をかなり見せ、腕を中段で折り畳んだ極竜空手らしい構えだ。
「よせよ。子供を殴りたくない」
「子供じゃねえ。16歳だ」
「めちゃめちゃ子供だよ。16歳は」
「俺はタバコも酒もやれるしドラムも叩けるんだぞ!それのどこが子供だ!」
「そういうところが子供なんだよ!」
妹尾は地面を蹴り、弾丸のように飛び込んでくる。足がはち切れたゴムのように跳ね上がり、俺の顎まで光速で吹き飛ぶ。差し合いも読み合いも糞もない、強気の上段前蹴りだ。恐るべきしなやかさである。
俺が上体を逸らしてそれをかわすと、二撃目、中段のパンチが飛んできた。肋骨と胸の間に飛び込み、ダメージはさほど無い。これを入れるために前蹴りを振ってきた、と見るべきではないだろう。
極竜空手の本命はあくまで蹴り。拳は蹴りを放つための間合いを確保する手段で、極竜空手家達は蹴ったあとすぐ手を出して相手を間合いに入れないという戦い方を徹底する生き物だ。
俺は妹尾を突き飛ばした。格闘技的なプッシングではない。両手に体重を乗せて弾き飛ばしたのだ。体格差があるとこんな単純な技がよく使える。後ろ体重につんのめった妹尾の腿に目掛け、俺は飛び込みながら打ち下ろしの脛を叩きつける。
パンッ、とラシャの繊維が潰れるような音がした。妹尾が顔を顰めながら拳を振ってくるので、バックステップで離脱する。極竜空手家に代名詞のローキックをぶつけるというのはなかなか気分のいいものだった。
膝を抜いてローキックのフェイントを放ってみると、妹尾は防御のため足を上げた。それが狙いだった。俺は妹尾の浮いた踵の裏にぬるりと足を忍び込ませ、土踏まずをぴったりつけると、彼の肩に掌を押し込んだ。この緩慢な動作で、柳が枝垂れるように彼は静かに仰向けになる。足すくいである。
倒れた彼の腹に馬乗りになるや、彼は俺の顔面めがけて下からめちゃくちゃにパンチを突き上げてくる。何発か貰うが、当然決定打にはならない。寧ろ俺は暴れ回る腕を捕まえると、体重移動しつつ、滑り込むように腕十字をセットした。以上で決着だ。
「ほうら、折っちゃうぞ、折っちゃうぞ。嫌なら1千万円返してもらおうかな」
「返さねえ!」
「じゃあ折るしかねえな」
「くっ……折れ!」
俺は面食らった。近頃の若者は威勢が良すぎる。
「いや、俺も高校生の腕は折りたくねえよ。だから参ったしろ。な?」
「俺は死んでも白旗は上げねえ!だから折れ!折らないならずっとこのままだ!」
「ええ……」
そして、予想外の痛みが襲う。シャカシャカのジャージズボン越しに、妹尾が俺のふくらはぎに噛みついてきたのだ。
「痛い、痛い!おいやめろ!見苦しいぞ!」
「うるせえ!このまま折らねえってことは喧嘩は続いてるってことだ!だったら遠慮なくいかせてもらうぜ!」
「だからってガキの喧嘩みたいに……あだだだだっ!」
そして、その瞬間は来た。俺が痛みに耐えかねて足を振り上げると、同時に何か白い石ころのようなものが飛び上がる。ぽとりと落ちたそれを見る。
歯だ。妹尾を見ると、口元を抑えて何も言わなくなってしまった。あまりのばつの悪さに、俺は拘束を解き、立ち上がって歯を拾い上げる。少しの沈黙を経て、口を開いた。
「ごめん……」
その後、妹尾は意識を取り戻した金田兄弟に1千万円を隠したプレハブ小屋の所在を教え、帰っていった。その間中ずっと涙目で、最後に俺をキツく睨んだ。
※※※
喧嘩のプロフェッショナル、というものがあれば、俺の暮らし向きも少しは華やかになるだろう。
今の俺も金をもらって喧嘩をしてるのでプロと言えないこともないが、ギャランティが1回5千円ではセミプロもいいところだ。
そんなチャチなスケールではなく、ボクシングのように大量の観客を入れた上で、ゴングに合わせてプロレスのセメントマッチのように何でもありの戦いを繰り広げたら面白いだろう。殴って良し、投げて良し、極めて良し。
プロレスのアントニウス猪俣がやっていた異種格闘技戦を恒常的に開催し続けるような趣きだ。そんな興行があれば最高だし、俺だってこんな生活をしなくて済むだろう。日本広しと言えど、俺は喧嘩なら日本人で十本の指に入るという自負がある。
実際、そんなような実戦空手の内弟子をやってた時期もある。極竜からの分派で、試合で掴んだり投げたり極めたりしてもいいという空手だ。勿論、顔面パンチまでフルコンタクトという代物である。
もはや空手ではないという見方も界隈ではされていたが、そもそも極竜だって伝統派だって琉球空手から見れば邪道もいいところだろうと当時は思っていた。今となってはあれが空手だと思えない世間の気持ちも分からなくはないが、あれがプロ化されれば、あるいは──
ゴン、ゴン、ゴン。
ドアが乱暴に打ち鳴らされた。ノックではなく、恐らく蹴りの音だ。なぜ俺の部屋に来る人間というものはドアの扱いが雑なのだろうか。壊されてはたまらないので、俺は溜息をつきながら立ち上がった。
「おい、夜の12時だぜ」
開けると、そこに立っていたのは歯っ欠けの不良少年・妹尾数希だった。無愛想なむっつりした顔で、彼は秋の夜の寒さの中で俺を睨みつけている。
「俺を弟子に取れ!」
開口一番それだった。
「なんで俺の家知ってるんだよ……」
「金田兄弟をあらためてシメて吐かせた!それより、俺を弟子に取れ!あんな技見たことねえから、俺に教えろ!」
「技って、歯を抜くやつか?あれは技じゃなくて……」
「ちげえ!妙な足払いだ!あんなもん見たことねえ!」
「ああ、足すくいね。じゃあ、俺があの技を教わった忍術道場を教えてやるから……」
「忍術!?オッサン、忍者なのか!」
「おい、俺は28だ!オッサンじゃねえ!忍者でもねえ!」
「じゃあオッサン、何者なんだ?」
「俺は……武道家だよ」
「やってる武道は?」
「色々半端につまみ食いしただけだ」
「質問に答えろよ!」
俺は弟子なんか全然取りたくない。だから本当なら妹尾には幻滅するようなことを言った方がいいのだが、12歳も年下の青年にキラキラした憧れの眼差しを向けられて調子に乗ってしまったのだろうか、正直に、胸を張ってベラベラと俺の経歴を語ってしまった。
「15歳で壬生自在流體術免許皆伝、ボクシングで17歳のときプロデビューして20歳のとき8回戦で引退、無道塾空手に転向し23歳で全国ベスト4、2段まで取得した。25歳のときタイでムエタイ修行を経て帰国し、縁あって中泉流忍法を習い27歳で免許皆伝。28歳で新東洋プロレスに入門するが、俺の道ではないと感じ引退……そんなとこだ。あと柔道2級」
「すげえ!めちゃくちゃ武道の心得を積んでフリーターになったんだな!」
「……うん。そうだよ」
「ミブジザイリュータイジュツってのはなんだ?」
「俺の実家で継承してる拳法のこと」
「一子相伝ってやつか!オッサン、ケンシロウみてえじゃねえか!」
「ああ……ごめん、ちょっとオッサンはやめようか、オッサンは」
「じゃあ師匠!」
「うーん、師匠ってのもちょっと……」
「お月謝はいくら払えばいいんだ?」
話が変わってきた。ほう、よくよく見ればいい青年ではないか。確かに不良風の見た目だし言葉遣いもなってないが、なんとなく目が綺麗である。そんな気がする。今時こんな濁りのない眼をしている青年もそんなにいないであろう。
「そうだな、1万……」
「あ、俺、小遣い3千円だから!その中で頼む!」
「……千円でいいよ」
粗品だ!そう言って妹尾は既にフタの開いた潰れかけのチョコあ〜んぱんの箱を押し付けてくると、来週の土曜の朝6時に橋の下で待っていると言い残して去っていった。後になってチョコあ〜んぱんを開けてみると、中には2粒しか入っていなかった。こうして、弟子ができた。
※※※
新東洋プロレス時代の青いジャンパーを羽織り、スポーツビーニーを被って、道具の詰まったリュックを背負う。そうして橋の下へ向かうと、そこでは高校のものらしきジャージを着た弟子がシュッ、シュッと口に出しながら虚空に鋭い蹴りを放っていた。いい蹴りだ。
フォームを確認するというよりは実在しない敵に攻撃を放っている、というような趣のシャドーだった。蹴り足が相手の顎まで太く強靭なゴムに引っ張られるような爆発力としなやかさがある。
前蹴り、足刀蹴り、回し蹴り、後ろ蹴りに至るまで、ウンベルト・ボッチョーニの彫刻のような、運動そのものが人間の形を借りているかの如き美しい暴力性に満ちている。
やがて妹尾はこちらに気づくと、手を振ってきた。
「師匠!体あっためといたから、早く稽古つけてくれ!」
「おう、体育館借りてあるからいこうぜ」
師匠が荷物を持つのも変なので、リュックを妹尾に背負わせて近くの市民体育館に向かった。道中、俺たちは相当に目立った。茶髪の不良と、182cmある男の組み合わせなので、当然と言えば当然だ。
「お前、極竜空手の方はどんな腕前なんだ?」
「都大会なら優勝したことあるけど、そこ止まりだよ」
意外だったが、馬鹿だしスタミナ管理は苦手そうだということで納得した。
やがて体育館に着く。アリーナの3分の2くらいは先客の社会人卓球サークルが占有していて、俺は彼らにどうも、どうもと言いながら空いている奥のスペースへ向かった。
妹尾はぶっきらぼうに胸をそびやかして通過しようとするので、背中を叩いて頭を下げさせた。こういう作法を教えるのも師匠の務めというやつだろう。
俺がジャンパーを脱いでミットを取り出していると、妹尾が声をかけた。
「よう師匠、今日は突きや蹴りはいいんだよ。あのコカシを習いたいんだって」
「足すくいか?まあまあ、師匠の言うことは聞いとけ。お前の打撃の具合も見たいしな」
もう体は仕上がっているようなので、両手にミットをはめて早速打ち込ませてみることにした。さあ打ってこい、ミドルキック、そう言ってミットを立たせ、半身になる。
妹尾は不承不承といった表情で、重ためのステップを刻む。まず彼の右肘が空気を抉るような予備動作を見せる。と──
卓球クラブの社会人達が残らずこちらを見ている。逸れたピンポンが点々と転がっている。
それは、隕石の空中爆発のような炸裂音だった。
「やるな」
「へへっ」
※※※
外に出ると、空はもうすっかりオレンジ色だった。俺はあの後、妹尾の打撃をしばらく受け、シャドーをチェックしてやり、休憩をはさんで緩めの組手をした。
卓球サークルはぎょっとしたような顔でこちらを見ていたが、恥ずかしさを我慢してやった。組手が終わった時点で昼だったので定食屋で馬刺し定食を奢って解散しようとしたのだが、午後もやりたいと妹尾が言うので付き合った。気づけば17時だ。
「じゃ、さっき渡したメモ帳に練習メニュー書いておいたから。それやれば、勝てるから」
そう言って帰ろうとすると、ちょっと、と妹尾に呼び止められた。
「俺さ、師匠に謝んなきゃならねえ。今月は喧嘩のし過ぎで小遣いカットされたから、月謝が払えねえ」
「ああ、そんなら別に……」
「だから、師匠に仕事引っ張るぜ」
「仕事?」
「うん。なんていうか……」
妹尾の次の一言は、停滞していた俺の人生を大きく駆動させることになる。拳を振るう場所もなく、定職も持たず、結婚もせず、終わりへとひた走っていた俺の人生を──。
「格闘裏ビデオ、ってやつかな」




