3. 均一に回る舞台の上で
画面の上に完璧に収まった異常の2文字を見つめながら、詩乃は小さく息を吐き出した。
思考の不発弾のような一瞬の焦燥感は残っていたが、いつまでも捕らわれているわけにはいかない。
プロとして何年も原稿に向き合っていれば、脳がオーバーヒートを起こし、当たり前の単語が一瞬だけ出てこなくなることなど珍しくもない。ただの寝不足による錯覚だと自分に言い聞かせ、彼女は意識を切り替えた。
今日の執筆予定を滞りなく進めるため、キーボードから右手を離し、冷たい手触りのマウスを包み込むように握り直す。
長年身体に染みついた習性に従い、画面右上へとカーソルを滑らせた。そこにあるのは、見慣れたフロッピーディスク型の保存アイコンだ。
クリックひとつで、紡いだ言葉をデータという現実へと確定させる。それは彼女にとって、不可欠な儀式だった。
矢印をアイコンへ重ね、人差し指に軽く力を込める。
カチリ。
部屋の静けさに溶け込む、小さく乾いたクリック音。その直後だった。
画面の右下、現在の総文字数をリアルタイムでカウントし続けている数字列のすぐ隣で、モニターの端が予期せぬ微細な振幅を見せた。
ほんのコンマ数秒の出来事だった。
画面のピクセルが縦方向に細かく震え、一瞬だけ表示が歪む。整然と並んでいた黒い文字群がパッと薄くぼやけ、フォントの輪郭線が背景の白いキャンバスへと溶け出した。
「……え?」
詩乃は思わず息を呑み、デスクに身を乗り出して画面を凝視した。
しかし、その揺らぎは人間の瞬きよりも早く収束していた。次の瞬間には、何事もなかったかのような静寂が画面を支配している。
文字数を示す数字も、縦横に揃った黒いフォントも、何ひとつ狂うことなく元の位置に収まっていた。エラー音もなければ、警告ダイアログも出ない。
「……気のせい、ね。さすがに目が疲れているのかな」
詩乃は両目を手のひらで軽く押しつけ、小さく息を吐き出した。一時的な眼精疲労として処理するのが、最も合理的で納得のいく解釈だった。何食わぬ顔でマウスから手を離し、肩の力を抜く。
だが、画面の前に座る詩乃が知る由もない真実が、まさにその液晶パネルの向こう側で進行していた。
あの微かな揺らぎは、眼精疲労でも不具合でもない。
この世界を支える世界の辞書という巨大なデータベースから、ひとつの決定的な言葉が消去され、再構築された瞬間に発生した時空の歪みだったのだ。
世界を形作っている意味のネットワークが書き換わり、データベース全体の整合性を維持するための自動同期処理が行われた。その摩擦が、彼女のモニターにおいて一瞬のピクセルの揺らぎとして可視化されたのである。
詩乃の視界では、文章は完璧なままそこに存在している。
だが、モニターの静寂の裏側で、世界の辞書はそのページを1枚破り捨て、不可逆な書き換えを完了させていた。
作業の一区切りがついた達成感が、疲弊していた詩乃の脳内にじんわりと広がっていく。
彼女は背もたれに身体を預け、すっかり温くなってしまったマグカップのコーヒーを一口含んだ。
窓の外からは、本格的な朝の訪れを告げる力強い光が差し込んできている。街の日常の音が心地よく部屋の中に滑り込んできた。
透き通るような朝の光。
静まり返った自分だけの部屋。
手元にある一杯のコーヒー。
先ほど原稿に打ち込んだ異常という言葉のことも、一瞬の不気味な違和感のことも、もはや彼女の関心の外へと押しやられていた。
すべては完璧に修正され、保存されたのだから。
何の問題もない。自分のプロとしての仕事は、順調に進んでいる。
彼女は、自分が保存したこのデータが、後にどのような形で届くことになるのかも知らず、完璧な日常の穏やかな流れの中に、ただ身を委ねていた。




