2. 零れ落ちる2文字
昨日書き終えたばかりの長編小説の原稿を、詩乃は冷めきったコーヒーを一口啜りながら、最初からもう一度、時間をかけて丁寧に読み返していた。
深夜の静けさの中で魂を削るようにして書き上げたその文章は、物語全体のトーンが不気味なほど統一されており、読者の背筋を凍らせるような冷たい緊張感をしっかりと纏っている。
物語の舞台となっているのは、あらゆる生活音が剥ぎ取られたかのような、薄暗く淀んだ廃病院の廊下である。
主人公の男が、誰もいないはずの闇の奥から聞こえてくる奇妙な足音に怯えながら、壁伝いにゆっくりと歩みを進める緊迫したシーン。
詩乃は、一文字ずつの配列を自分の網膜に焼き付けるようにして、リズムと響きを確認していく。
彼女の頭の中では、登場人物たちの足音や、冷たい病院の空気感が完璧に再現されていた。
しかし、ある一節に差し掛かった瞬間、彼女の指先はカチリと乾いた音を立てて止まった。
『男は廊下の奥を見つめた。音の正体は風でもネズミでもない。世界のルールをひっくり返すものだった』
『男は狂ったように笑った。目の前の光景は、あまりにも[ ]だった』
そこには、全角2文字分の真っ白な空白がぽっかりと口を開けていた。
詩乃は思わず小さく首を傾げた。深夜の激しい睡魔と疲労に飲まれていた際、執筆の最中にうっかり文字を消してしまったのだろうか。あるいは、辞書登録のミスか、はたまたキーボードの接触不良か。
彼女は原因を探ろうとしたが、文章そのものの完成度が高いせいで、かえってその空白が悪目立ちしている。
前後の文脈を何度読み返しても、文章の流れそのものは驚くほど自然である。男の圧倒的な絶望や、常識を突き破るような恐怖を描くならば、その場所には「普通の状態ではないこと」や「現実が崩壊していること」を表す形容詞が入るはずだ。
直感的に、彼女の脳裏には、ある一つの一般的な2文字の単語が浮かんでいるはずだった。
それ以外の言葉では、このシーンの緊迫感を維持できない。
彼女はキーボードに指を伸ばし、その空白を力強く埋めようとした。
だが、その瞬間、奇妙な現象が起きた。キーを押そうとしたその指先が、まるで物理的な障壁に阻まれるかのように、ピタリと静止して動かなくなったのだ。
「あれ……?」
頭の引き出しを開け、単語を引っ張り出そうとしても、なぜか必要な文字の形がどうしても思い出せない。
意味はぼんやりと分かっているのに、肝心の文字の並びが脳の深部から完全に抜け落ちているのだ。
喉まで出かかっているのに名前が出てこない、あの奇妙な焦燥感。いや、それよりももっと深く、もっとおぞましい空虚が、彼女の思考を侵食していた。
彼女の記憶の奥底には、確かにその言葉が存在しているはずなのだ。昨日まで、そして先ほどまでも、彼女はその言葉を使って思考し、その概念を物語に落とし込んできた。
それなのに、いざ文章として定着させようとすると、まるで脳の言語領域に黒い霧がかかったかのように、何も掴めなくなる。
彼女は苛立ちを感じ、何度もマウスを握りしめ直した。
窓の外から聞こえてくる風の音や、遠くを走る車の走行音が、まるで彼女の思考を邪魔するかのように断続的に響いてくる。
部屋のなかの温度が、ほんのわずかに下がったような気がした。
「まあ、あとでまとめて推敲するときに直せばいいか」
一度は逃げようとしたが、プロとしての矜持がそれを許さなかった。こんな決定的な箇所に空白を残したまま、物語を進めるわけにはいかない。
詩乃は深く息を吐き、思考の底底まで意識を沈めた。
脳内の黒い霧を力ずくで押し広げるようにして、求める言葉を探し求める。
「……い、じ、よ、う」
喉の奥で呟いた瞬間、引きちぎれていた思考の糸がパチリと繋がった。
そうだ、異常だ。普通ではない状態。日常が壊れるときの、あの言葉。
安堵の息を漏らしながら、彼女はキーボードを叩き、全角2文字の空白を異常という確かな文字で埋め尽くした。画面上の文章は、これで完璧に完成したはずだった。
彼女は満足げに頷き、次の行へとカーソルを進めた。
だが、その瞬間に起きたほんのコンマ数秒の画面の歪みに、彼女は気づいていない。
それは、彼女の理解を超えた何かが動き出した痕跡だった。
彼女が確かに打ち込み、完璧に修復したはずの言葉が、この世界の理から静かに削ぎ落とされ始めていたのだから。
世界の土台が音もなく崩れ始めていることなど、彼女はまだ知る由もない。
自らの紡ぐ言葉が世界を侵食していることにすら気づかず、彼女は執筆を続けた。
外の世界では太陽が昇り始めているというのに、彼女の画面の中だけは、確実に夜の底へと沈み始めていた。




