3. 消失する記憶と、透明な存在
思考の底で、残響のように鳴っていた微かなノイズすらも絶えようとしていた。
声という物理振動を奪われ、文字という幾何学の形象を奪われた脳は、いよいよその内側に蓄積されていた記憶の領域へと自食の歯車を向け始めていた。
最後の防波堤。
自らの名前という音の響き、その記憶そのもの。
声にならなくてもいい。紙や地面に書き残せなくてもいい。
ただ、この頭の奥底で、自分が誰であったのかという過去の軌跡と、その名前の持つ余韻さえ保持できていれば、自分はまだ消えていないはずだった。
(……私は……)
記憶の海へと、詩乃は最後の意識の糸を垂らした。
幼い頃、両親から柔らかい声で呼ばれたあの音の響き。
学校の教室で、出席番号順に名前を呼ばれ、返事をした時のあの空気の揺らぎ。
原稿の扉ページに刻まれ、見知らぬ読者たちがその名をなぞり、物語の紡ぎ手として認識してくれた、あの固有のラベル。
それらの記憶の断片を繰り寄せ、繋ぎ合わせようとする。
しかし。
たぐり寄せた記憶の糸は、手元に届く先からサラサラと白い砂となって崩れ落ちていった。
記憶が、漂白されていく。
幼少期の風景から、音覚と色彩が抜け落ちていく。
誰かが自分を呼んでいる映像は残っている。しかし、その開かれた口から発せられているのは、意味を持たない無機質な風の音に過ぎない。
表彰状や書籍の表紙に書かれた自らの名前の文字は、刷り直されたように滑らかな空白の矩形へと塗りつぶされていく。
過去の歴史から、自分という存在を特定するためのラベルが一根残らず削ぎ落とされていく。
(私の……名前……は……)
思い出せない。
それは、忘れ物をして思い出せないという類の焦燥ではなかった。
脳の中に名前というデータが存在するための器そのものが、不可逆的に融解し、平坦な虚無へと還元されている感覚だった。
最初に文字の意味が消えた。
次に名前を呼ぶ言葉が途絶えた。
そして今、自分がその名前で呼ばれていたという歴史の記憶そのものが、完膚なきまでに消失した。
「……、……」
詩乃の唇が、無意味に歪んだ。
自分が誰であるかを問いかけるための言葉すら、すでに脳内には存在しない。
問いを立てる思考回路そのものが解体されたため、焦燥や恐怖という感情すらも、行き場を失って急速に冷え固まっていく。
胸の奥で、カチリと音がした。
それは、人間としての自我を繋ぎ止めていた、最後の留め具が外れた音だった。
かつてここには、悲しみがあり、喜びがあり、怒りがあり、物語を紡ぐ情熱があった。
他者との境界線を引き、私という固有の個体を世界の中に確立させるための、無数の複雑な意味の構造体が存在していた。
だが今、それらは全て綺麗に拭い去られていた。
残されたのは、ただ光と音の物理的刺激を受信し、生化学的な反応として心臓を動かし、呼吸を繰り返すだけの、整えられた肉体という名の現象。
公園のベンチの脇にうずくまるその身体から、私という主語が静かに脱落した。
彼女はもう、自分を悲しむことも、自分を探すこともできない。
自分という概念そのものが、この世界から跡形もなく消去されたからだ。




