2. 名前の融解と、喪失する境界線
声が出ない。
名前という音を、空気の振動として解き放つことができない。
喉の深部で空しく通過していく吐息の感覚だけが、冷たく残されていた。
詩乃は、膝の上に置いた己の両手を引き寄せた。
声という物理現象が拒絶されたのであれば、手段は一つしかなかった。
視覚的な記号として、この世界に己の形象を留めること。
言葉が死滅し、意味の文脈がすべて解体されたとしても、文字という物理的な形そのものをこの空間に刻みつけることができれば、私という存在の標識は残る。
先ほどは私という概念の抽象に失敗した。
ならば、もっと具体で、もっと個別で、この肉体と精神の唯一無二の境界線である、己の名前という漢字そのものを書くのだ。
彼女は、血と砂の混じった右手の人差し指を立てた。
紙も、ペンもいらない。
自らの膝を覆うファブリックの生地、あるいは目の前のアスファルトの表面、そのどこへでもいい。
脳裏に浮かぶはずの、あの慣れ親しんだ幾何学の筆順をなぞり、空間を切り拓くように指先を走らせればいい。
指先を、持ち上げる。
(……)
静止。
空中で、詩乃の指先がピタリと動きを止めた。
脳が、右手へ命令を送ろうとしていた。
1画目を引け、と。
左上から右下へ、あるいは垂直に線を打ち下ろせ、と。
しかし、その命令の出力先となるイメージのスクリーンが、恐ろしいほどの速度で混濁し始めていた。
(私の……名前……)
脳の奥底の記憶の引き出しを、むかつくような焦燥とともに開こうとする。
かつて原稿用紙の著者欄に、書籍の奥付に、契約書の一角に、幾千、幾万回と記してきた自らの名前。
自らのアイデンティティそのものであった、あの固有の文字の輪郭。
だが、引き出しの中にあったはずの文字の形が、まるで熱を得たろうそくのように、ドロドロと輪郭を失って溶け落ちていく。
漢字の骨組みが解体されていく。
偏と作りが分離し、交差していた線がほどけ、点と払いが空中で散乱する。
かつて意味と音を固く繋ぎ止めていた文字の構造が、ただの不規則な線の集合体へと分解されていく。
(違う……こんな形じゃない……)
詩乃は震える指先を、強引に膝の上の生地へと押し当てた。
ガシ、ガシ、と布地を擦る乾いた摩擦音が響く。
1画目を引こうとする。
しかし、指が描いたのは、脈絡のないただの斜めの直線だった。
2画目を重ねようとする。
だが、脳から出力された筆順はすでに崩落しており、指先は右へ左へと無軌道に跳ね回るだけだった。
そこに現れたのは、自らの名前でも、人間が使う文字でもなかった。
ただの、傷。
衣類の繊維を引っ掻き、乱しただけの、浅く無意味な溝。
「……っ、……っ!」
詩乃の瞳から、ボロボロと体温のない涙がこぼれ落ちた。
その透明な液体が膝の上の布地を濡らし、無意味な引っかき傷の上に暗いシミを作っていく。
文字の形状そのものが、脳の受容体から完全に消滅していた。
自分の名前が、どのような形をしていたのか。
何画の線で構成され、どのような交差を持ち、世界の中でどのような意味を主張していたのか。
どれほど意識を凝らしても、脳内に立ち上がってくるのは、光の届かない真っ暗な虚無の空間だけだった。
音として呼ぶこともできず、形として書き残すこともできない。
名前という命綱の糸が、1本、また1本と、目に見えない絶対的なハサミによって切断されていく。
詩乃は自分の顔を両手で覆い隠した。
手のひらに残る血の匂いと、冷たい皮膚の感触。
しかし、その皮膚を触っている自分が誰であるのかという認識の標識が、暗闇の中に滑らかに没していった。




