3. 無方向の空間と、選択の死
詩乃は、自分がどちらの足を踏み出したのかすら意識できずに歩いていた。
右足が地面を蹴り、左足が前方へ送り出される。
その運動には、意志も、目的も、明確な目的地すら伴っていなかった。ただ、慣性のように交互に交差する肉体の機械的な動きだけが、そこにあった。
目指すべき場所が存在しない。
東へ向かうことも、西へ向かうことも、同じように無意味だった。
自宅へ引き返すことも、このまま世界の果てまで歩き続けることも、完全に等価な選択肢として並んでいた。
どちらの選択が優れているわけでもなく、どちらの選択が間違っているわけでもない。
選択肢の価値が完璧なゼロで揃ったとき、人間は選ぶという決断のエネルギーを全喪失する。
気づけば、詩乃は広大な駅前のロータリーに立ち尽くしていた。
かつて無数のバスやタクシーが入り乱れ、人々が家路や職場へと急ぎ足で行き交っていたその場所は、今や巨大な無風のプールへと変貌していた。
車道と歩道を分けていた段差すら、路面の凹凸が平滑化されるとともに曖昧になり、ひと繋がりの平坦なコンクリートの広場と化している。
信号機は点灯していたが、そこに赤は止まれ、青は進めという強制力は存在しなかった。
人々は、ただ歩いていた。
ある者は円を描くようにくるくると回り続け、ある者はビルの壁に向かって歩き続け、壁にぶつかると抵抗なく向きを変えて別の方向へ漂い出した。
誰も走らない。誰も立ち止まって途方に暮れない。
目的がないから、焦りも生まれない。
行き先がないから、迷いすら生じない。
彼らの足音は、コンクリートの表面に「カツ、カツ」と乾いた音を立てていたが、その響きは空虚そのものだった。
どこかへ到達するための足音ではなく、ただ足が地上に接触したという物理的な振動の報告。
「……あ……」
詩乃の唇から、かすかな音が漏れた。
目の前を、1人の男が通り過ぎていこうとしていた。
男の胸には、かつて警備員か警察官であったことを示すような、刺繍の削ぎ落とされた無地の制服が残っていた。
詩乃は、最後の残音のような力を振り絞り、男の前に滑り込んだ。
進路を塞がれた男は、滑らかに足取りを緩め、詩乃の目の前でぴたりと止まった。
「どちらへ……向かっているんですか……?」
詩乃は、男の顔を覗き込んだ。
男の瞳は、一点の濁りもなく澄み渡っていた。
そこには、詩乃に対する怒りも、邪魔をされた不快感も、問いかけに対する戸惑いすら見当たらなかった。
ただ、レンズのように透明な瞳が、そこに立ち塞がる詩乃という物体を映しているだけだった。
「どちら、とは……どの方向のことでしょうか?」
男の声は、風にそよぐ葉の音のように軽く、摩擦がなかった。
「どの方向って……あなたが向かうべき場所です! 会社ですか? 自宅ですか? それとも……何か正しい目的があって歩いているんですか!?」
男は、ゆっくりと首を傾けた。
その角度すらも、最も負荷の少ない自然な物理的運動に見えた。
「正しい目的……。目的地と、現在地を比較して、移動の効率を算出することでしょうか? 私の身体は現在、脚部の筋肉を適度に稼働させ、血流を維持するために最適な動作を行っています。北へ向かう理由も、南へ向かう理由も存在しませんよ」
「そんな……! 理由がなかったら、どうして歩くの!? どうしてそっちへ進むの!?」
「進んではいませんよ」
男は、ごくごく当然のことのように微笑んだ。
「ただ、動いているだけです。右へ動くことと、左へ動くことに差はありません。私はどこへも進んでいませんし、どこからか離れているわけでもありません。ここが、すべての場所です」
男はそう言い終えると、詩乃の身体を滑らかに回避し、再び何もない空虚な空間へと足を踏み出した。
その足取りは、まるで水面に浮く葉が、微小な水流に乗ってゆらゆらと漂っていく様子そのものだった。
「どこへも……進んでいない……」
詩乃は、自分の足元を見つめた。
自分が立っているこの場所。
1歩踏み出せば、そこは新しい場所になるはずだった。
だが、進むべき方向を失った世界では、どんなに足を動かしても、位置が変わるだけで進展は存在しない。
過去へ戻ることもできない。未来へ進むこともできない。
空間の広がりそのものが意味を失い、世界全体がどこでもない場所へと還元されていた。
詩乃は、自分が空中を漂っているかのような錯覚に囚われた。
地面に足はついている。しかし、床を押して前に進むための意図が、脳から身体へと伝達されない。
1歩を踏み出すたびに、世界の中心が自分の足元に追従して移動してくるだけで、自分はどこへも到達できない。
(……矢印が……ない……)
思考の深い闇の中で、詩乃は叫んだ。
(どちらが前なの……? どちらが後ろなの……? 私たちは……どこへ向かって、物語を書けばいいの……!?)
答えは返ってこない。
風すら吹かない平坦な街頭で、無数の影たちが、目的地のない流動を描きながら、ただ静かに漂い続けていた。




