↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
消えた言葉を探す旅、世界は静かに壊れていく  作者: 都桜ゆう
第5章 正義の消失と方向性の喪失

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/28

3. 無方向の空間と、選択の死

 詩乃は、自分がどちらの足を踏み出したのかすら意識できずに歩いていた。


 右足が地面を蹴り、左足が前方へ送り出される。

 その運動には、意志も、目的も、明確な目的地すら伴っていなかった。ただ、慣性のように交互に交差する肉体の機械的な動きだけが、そこにあった。


 目指すべき場所が存在しない。


 東へ向かうことも、西へ向かうことも、同じように無意味だった。

 自宅へ引き返すことも、このまま世界の果てまで歩き続けることも、完全に等価な選択肢として並んでいた。

 どちらの選択が優れているわけでもなく、どちらの選択が間違っているわけでもない。


 選択肢の価値が完璧なゼロで揃ったとき、人間は選ぶという決断のエネルギーを全喪失する。

 気づけば、詩乃は広大な駅前のロータリーに立ち尽くしていた。


 かつて無数のバスやタクシーが入り乱れ、人々が家路や職場へと急ぎ足で行き交っていたその場所は、今や巨大な無風のプールへと変貌していた。


 車道と歩道を分けていた段差すら、路面の凹凸が平滑化されるとともに曖昧になり、ひと繋がりの平坦なコンクリートの広場と化している。

 信号機は点灯していたが、そこに赤は止まれ、青は進めという強制力は存在しなかった。


 人々は、ただ歩いていた。


 ある者は円を描くようにくるくると回り続け、ある者はビルの壁に向かって歩き続け、壁にぶつかると抵抗なく向きを変えて別の方向へ漂い出した。

 誰も走らない。誰も立ち止まって途方に暮れない。


 目的がないから、焦りも生まれない。

 行き先がないから、迷いすら生じない。


 彼らの足音は、コンクリートの表面に「カツ、カツ」と乾いた音を立てていたが、その響きは空虚そのものだった。

 どこかへ到達するための足音ではなく、ただ足が地上に接触したという物理的な振動の報告。


「……あ……」


 詩乃の唇から、かすかな音が漏れた。


 目の前を、1人の男が通り過ぎていこうとしていた。

 男の胸には、かつて警備員か警察官であったことを示すような、刺繍の削ぎ落とされた無地の制服が残っていた。


 詩乃は、最後の残音のような力を振り絞り、男の前に滑り込んだ。

 進路を塞がれた男は、滑らかに足取りを緩め、詩乃の目の前でぴたりと止まった。


「どちらへ……向かっているんですか……?」


 詩乃は、男の顔を覗き込んだ。


 男の瞳は、一点の濁りもなく澄み渡っていた。

 そこには、詩乃に対する怒りも、邪魔をされた不快感も、問いかけに対する戸惑いすら見当たらなかった。

 ただ、レンズのように透明な瞳が、そこに立ち塞がる詩乃という物体を映しているだけだった。


「どちら、とは……どの方向のことでしょうか?」


 男の声は、風にそよぐ葉の音のように軽く、摩擦がなかった。


「どの方向って……あなたが向かうべき場所です! 会社ですか? 自宅ですか? それとも……何か正しい目的があって歩いているんですか!?」


 男は、ゆっくりと首を傾けた。

 その角度すらも、最も負荷の少ない自然な物理的運動に見えた。


「正しい目的……。目的地と、現在地を比較して、移動の効率を算出することでしょうか? 私の身体は現在、脚部の筋肉を適度に稼働させ、血流を維持するために最適な動作を行っています。北へ向かう理由も、南へ向かう理由も存在しませんよ」


「そんな……! 理由がなかったら、どうして歩くの!? どうしてそっちへ進むの!?」


「進んではいませんよ」


 男は、ごくごく当然のことのように微笑んだ。


「ただ、動いているだけです。右へ動くことと、左へ動くことに差はありません。私はどこへも進んでいませんし、どこからか離れているわけでもありません。ここが、すべての場所です」


 男はそう言い終えると、詩乃の身体を滑らかに回避し、再び何もない空虚な空間へと足を踏み出した。

 その足取りは、まるで水面に浮く葉が、微小な水流に乗ってゆらゆらと漂っていく様子そのものだった。


「どこへも……進んでいない……」


 詩乃は、自分の足元を見つめた。


 自分が立っているこの場所。

 1歩踏み出せば、そこは新しい場所になるはずだった。

 だが、進むべき方向を失った世界では、どんなに足を動かしても、位置が変わるだけで進展は存在しない。


 過去へ戻ることもできない。未来へ進むこともできない。

 空間の広がりそのものが意味を失い、世界全体がどこでもない場所へと還元されていた。


 詩乃は、自分が空中を漂っているかのような錯覚に囚われた。


 地面に足はついている。しかし、床を押して前に進むための意図が、脳から身体へと伝達されない。

 1歩を踏み出すたびに、世界の中心が自分の足元に追従して移動してくるだけで、自分はどこへも到達できない。


(……矢印が……ない……)


 思考の深い闇の中で、詩乃は叫んだ。


(どちらが前なの……? どちらが後ろなの……? 私たちは……どこへ向かって、物語を書けばいいの……!?)


 答えは返ってこない。


 風すら吹かない平坦な街頭で、無数の影たちが、目的地のない流動を描きながら、ただ静かに漂い続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。