第1話 【 歯車と異常値 】
「……バカな。あいつは、業界から干されて朽ち果てたはずだ」
神崎の動揺をよそに、無名のアカウントから放たれたたった1つの物語は、巨大企業が何億もかけて築き上げた鉄壁の仕組みの「たった一つの盲点」を、恐ろしいほどの精度で抉じ開けようとしていた。
スキームの生みの親が、自らの手で、世界で最も美しい破壊工作を、いま始めようとしている。
【 地下二階の蛍光灯 】
都営大江戸線の駅から歩いて十分、古びた雑居ビルの地下二階。その一室だけが、夜通し安物の蛍光灯の白みを晒していた。
窓はない。壁に貼られたホワイトボードには、複雑な数式ではなく、かつて誰かが書きなぐった「締め切り」の文字が乾いたインクでこびりついていた。
「……ふう」
白髪混じりの男――波多野は、使い古されたキーボードから手を離し、肩を大きく回した。
机の上には、コンビニで買った冷めたおにぎりの包みと、飲み干したペットボトルが無造作に転がっている。かつては港区の超高層ビルで、億単位の動向を左右するメイン・アーキテクトとして君臨していた男のなれの果てだった。
だが、その目の奥にある濁りのない冷徹な光だけは、数年前の全盛期と何一つ変わっていなかった。
彼の目の前には、十年前から使い続けている使い古されたノートパソコンが置かれている。
画面に表示されているのは、とある国内最大手のWEB小説プラットフォームの投稿画面だった。
ジャンルは「ヒューマンドラマ」。
タイトル欄には、ただ一言。
――『ただの記録、あるいは数式の墓場について』。
「さてと」
波多野は呟くと、マウスに手をかけた。
画面の下部にある「投稿する」という小さなボタン。それをクリックすれば、彼が数日かけて組み上げた第1話のテキストが、ネットの海へと放り出される。
大手企業が何億もの予算を投じ、AIによるトレンド分析と専属ライターの分業制で固めた鉄壁のランキング。その巨大なピラミッドの、最も底辺、誰の目にも留まらない「その他」のカテゴリに、それは投げ込まれることになっていた。
一般の読者から見れば、それはただの無名作家の趣味の連載にすぎない。
だが、波多野にとっては違った。
この小説の行間、改行のテンポ、登場人物のセリフの文字数、そしてあえてトレンドの王道を外した心理誘導のトリック――そのすべてが、彼自身がかつて『アルカディア・メディアワークス』のために作り上げた「王座量産の方程式」の、唯一にして最大の死角を正確に撃ち抜くように設計されていた。
「君たちが作り上げた完璧なスキームのせいで、どれだけの才能が日の目を見ずに潰されてきたか。……見せてやろうか。俺が作った歯車が、どうやってお前たちの城を内側から噛み砕くのかを」
カチッ、と乾いた音が静まり返った地下室に響いた。
波多野の指が離れた瞬間、数万字のデータが静かに世界へと流れ出した。
【 特設フロアの狂い始めた歯車 】
同じ頃、港区の超高層ビル最上階。
『アルカディア・メディアワークス』の特設フロアは、いつもと変わらない優雅な静寂に包まれていたはずだった。
壁一面を覆う巨大な湾曲モニターには、自社が送り出した「王座候補」の作品群が、綺麗に右肩上がりのグラフを描いて並んでいる。
主席プロデューサーの神崎は、特製のグラスに注がれたミネラルウォーターを傾けながら、満足げに目を細めていた。
「順調だな。今日のトレンド予測のアルゴリズムも完璧に機能している。ランキングの上位十作品のうち、実に八つが我が社のプロデュース作品だ。これなら来期の株主総会でも文句なしの数字が出せる」
「さすが神崎さんです。競合の『ネクスト・プロデュース』も、今回はうちの初動ブーストの速さに追いつけていませんね」
部下のデータアナリストが、へつらうような笑みを浮かべて頷いた。
だが、その笑みは長く続かなかった。
コンソールルームの隅に置かれた、最も監視密度の低い「その他・ヒューマンドラマ」のモニタリング端末。その画面の端で、それまで完全に静止していた一本の細い線が、不気味な跳ね方をした。
「……ん?」
アナリストの指がぴたりと止まる。彼は自分の目を疑い、ディスプレイに顔を近づけた。
エラーか? ボットによる不正アクセスか?
しかし、アクセス解析のログを辿っても、機械的なトラフィックの痕跡はない。そこにあるのは、完全に「生身の人間」による異常なまでの反応だった。
「どうした?」神崎がグラスを下ろした。
「……、いえ。ランキングの底、圏外のさらに下です。誰のスキームにも属していない、完全な無名アカウントの新作が投稿されたんですが、……。その初動の『滞在時間』と『スクロールの深度』が、異常なんです」
「異常、だと? 新興の工作か?」
「違います。PV自体はまだ数えるほどしかないのに。……、読んだ人間の全員が、ページの最後まで離脱せず、そのまま『次のページ』を探す挙動を示しています。まるで、麻薬でも盛られたかのように」
神崎の眉間にかすかなシワが寄った。
彼らは知っている。ネットの読者というものは気まぐれで、つまらないと思えば一瞬でブラウザを閉じる。特に無名のアカウントの文章など、最初の三行で大半が脱落するのが「絶対の法則」だった。
その法則を無視して、読者の心を強制的に釘付けにするようなデータなど、自社のトップ作を除けば、本来ありえるはずがなかった。
「タイトルは何だ?」
「ええと、……。『ただの記録、あるいは数式の墓場について』です」
その瞬間、神崎の背筋に、冷たいものが走った。
聞き覚えのないタイトル。しかし、その「文字の配置の美しさ」と「読者の心理を誘導するプロットの匂い」に、彼は言い知れぬ既視感を覚えた。
――まさか。あいつの仕業か?
数年前に業界から追放したはずの「あの男」の影が、巨大なモニターの光の中にちらついた。
【 水面下の波紋 】
「おい、解析を続けろ。どこのスタジオの噛みつきだ?」
「マジですか? 数値が少し異常っていうだけで、たかが最底辺アカですよ」
「いいから、やれ!」
神崎の声に、わずかな焦りが混じっていた。
「それが……特定の制作チームの形跡はありません。個人の、それも完全に孤立したIPからの投稿です。しかし、……。奇妙なのは、そのデータが広がる『速度』です。SNSでの拡散工作が一切行われていないにもかかわらず、特定のコミュニティ――かつてインディーの硬派な読者が集まる古い掲示板の層だけが、ドミノ倒しのようにその作品を拾い始めています」
アナリストが叩くキーボードの音が、静かなフロアに慌ただしく響く。
モニターの上では、青い小さな点がひとつ、ゆっくりと、しかし確実に「下位の枠」を突き破ろうとしていた。
それは、金で買えるPVでもなければ、アルゴリズムを強制的にハックするボットの群れでもない。
ただ、長年ネットの澱に浸かり、マーケティングの甘い言葉に飽き飽きしていた「本物の読者たち」が、本能的に嗅ぎつけた一筋の血の匂いだった。
「……ふざけた真似を」
神崎はグラスを強く握りしめ、冷徹な瞳でディスプレイを睨みつけた。
「たかが個人の気まぐれな落書きが、我が社の築き上げた数十億円のスキームに届くとでも思っているのか。プロモチームに連絡しろ。あの作品の周辺に、うちの強力な新作をいくつか投入して、ランキングの重圧で押し潰せ。海の藻屑にしてやれ」
「は、はいっ!」
指示を受けたアナリストが端末を操作する。
アルカディア・メディアワークスの巨大な資本力が動き出し、ランキングのアルゴリズムが、たった一つの「異物」を排除するために牙を剥こうとしていた。
しかし、その指示を出した神崎自身も気づいていなかった。
その無名のアカウントが放った第1話は、単なる「面白い小説」などではなく、アルカディアが誇るすべての自動化システム――その「源流」を作った男が仕掛けた、精巧すぎる時限爆弾の「起爆スイッチ」だということに。
地下二階の蛍光灯の下で、波多野は冷めたおにぎりを一口かじり、静かにほくそ笑んだ。
モニターの向こうで、巨象が動き出す気配が伝わってくる。
ゲームは、すでに始まっていた。
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港区の超高層ビル最上階、アルカディア・メディアワークスのコンソールルーム。
主席プロデューサーの神崎は、冷え切ったワイングラスをデスクに置き、目の前の巨大モニターを睨みつけていた。
「どういうことだ。あの無名の底辺作の順位が、……。
明日、07:30 に、第2話を投稿します。
よろしくお願いいたします。




