第9話 【 ただの、一文字から 】
波多野は復讐のために囚われていた過去の因縁をすべて断ち切り、
またどこかの底辺で、誰の目にも留まらない一文字を紡ぎ始めている。
鬼頭はその画面を見つめながら苦笑し、静かにスマホの画面を消した。
第1節 【 かつての設計者が遺したもの 】
アルカディアの崩壊から数週間が過ぎ、
WEB小説界はかつての狂騒が嘘のように静まり返っていた。
資金力とアルゴリズムによるマネーゲームが消滅したプラットフォームには、
効率やトレンドに縛られない、泥臭くも純粋な物語の数々が戻りつつあった。
新興スタジオを率いる鬼頭は、あの地下室に残された一通のメールを頼りに、
波多野が最後に遺したというその「新しい新作」のページへとアクセスしていた。
そこに並んでいたのは、巨大なスキームでも、復讐のための仕掛けでもなく、
ただ静かに人間の営みを描き出す、無名のアカウントによる第一行の文章だった。
第2節【 新しい名もなき戦場 】
場所は変わって、都心から遠く離れた海沿いの小さな街。
古びたアパートの窓から差し込む朝の光の中で、白髪混じりの男――波多野は、
使い古されたキーボードの上に指を置いていた。
港区の超高層ビルの最上階からも、雑居ビルの地下二階からも離れたその場所には、
かつての因縁も、大企業を揺るがした復讐者の影もない。
画面に表示されている投稿画面には、まだ誰も読者のいない、
ゼロの数字が並んでいる。
彼は誰のためでもなく、ただ目の前にある物語を紡ぎ出すために、
再び静かに最初のキーを叩き始めた。
第3節 【 始まりの光景 】
画面の隅に、ぽつんと小さな光が灯る。
それは大企業の自動化されたシステムが作り出す人工的なトレンドではなく、
ただ世界の一番底から、誰かの心にそっと触れるための小さな一歩だった。
波多野はキーボードから手を離し、淹れたてのコーヒーの湯気を眺めながら、
穏やかに目を細めた。
ランキングの頂点を目指す必要もなければ、誰かを打ち負かす必要もない。
物語はただそこにあって、読む者の心に届くのを待っている。
カチリと鳴る小さなタイピングの音とともに、名前のない新しい世界が、
いま静かに動き出していた。
(完)
読んで下さりました方々に篤くお礼申し上げます。
ありがとうございました。




