噂
村を襲った集団を退けたあと、エルザの名は草原を風のように広がっていった。
しかし、その噂は一つではなかった。
ある者は言った。
「あの女は悪霊だ。魔女だ。精霊を使って人を殺す」
別の者は言った。
「いや、違う。あれは精霊の声を聞く者だ。神の怒りを呼ぶ者だ」
夜の焚き火のそばで、酒場で人々たちは語り合った。
雷のような光。
目に見えない力で弾があたらない。
話は尾ひれをつけながら広がり、やがてその噂は二人の男の耳にも届いた。
一人は――BLACKWOLF。
もう一人は――パトリックだった。
BLACKWOLFはその噂を軽く流す男ではなかった。
草原の奥、森に囲まれた場所に一人の老いた呪術師が住んでいた。
BLACKWOLFはそこを訪れた。
焚き火の煙が静かに上がる小さな円形の広場。
呪術師は静かに座っていた。
「聞きたいことがある」
BLACKWOLFは言った。
「不思議な力を使う女の噂だ」
呪術師はゆっくりと目を上げる。
「知っている」
BLACKWOLFは続けた。
「敵か。味方か」
「何者だ」
「そしてその力は、何だ」
呪術師はすぐには答えなかった。
代わりに、小さくうなずき、儀式の準備を始めた。
鹿の骨。
乾いた草。
黒い石。
火が焚かれ、煙が立ち上る。
呪術師は低い声で祈りを唱えた。
風が揺れる。
木々がざわめく。
BLACKWOLFはただ黙って立っていた。
長い時間が過ぎた。
やがて呪術師は目を開いた。
「答えは来た」
BLACKWOLFが言う。
「何だ」
呪術師は静かに告げた。
「その女は、お前の敵ではない」
BLACKWOLFの眉がわずかに動く。
「味方でもない」
呪術師は続けた。
「我々の知らない力を持つ者」
火の煙が揺れる。
「だが一つ確かなことがある」
「彼女もまた――呪術師だ」
BLACKWOLFは黙って聞いていた。
呪術師は最後に言った。
「そして彼女は」
少し間を置いて、
「黒い月だ」
その瞬間だった。
一羽の鳥が近くの木に止まった。
羽を小さく震わせ、じっとこちらを見ている。
呪術師はその鳥を見て言った。
「見ている」
BLACKWOLFはゆっくりと顔を上げた。
鋭い目が鳥を射抜く。
沈黙。
そして彼は低い声で言った。
「聞こえるか」
鳥は動かない。
BLACKWOLFは続ける。
「黒い月なら」
「我々に力を示せ」
その言葉。
その瞬間――
鳥の目を通して見ていたエルザの視界が揺れた。
遠く離れた丘の上。
地面に座り、儀式の石の前に座っていたエルザは息をのんだ。
(この男が……)
初めて。
はっきりと。
BLACKWOLFの顔を見た。
鋭い目。
長い髪。
静かな威圧感。
だが――
次の瞬間。
その顔が変わった。
人間の顔が、黒い狼の顔に重なった。
牙。
金色の目。
闇のような毛。
エルザは息を詰めた。
(黒い……狼)
視界が切れた。
鳥が飛び立つ。
エルザの儀式の石が小さく崩れた。
彼女は地面に手をついたまま、しばらく動けなかった。
「今のは……」
夢で何度も見た狼。
あの狼だった。
一方その頃。
駐屯地。
パトリックは報告書を机に叩きつけた。
「くだらない」
将校の一人が言う。
「何がだ?」
「この噂ですよ」
パトリックは鼻で笑った。
「精霊の力?」
「神の怒り?」
彼は首を振る。
「ただの妄想だ」
「辺境ではよくある」
別の将校が言う。
「しかし村が襲撃者を撃退したのは事実だ」
パトリックは肩をすくめた。
「偶然だろう」
「人は理解できないものを魔法にする」
彼は窓の外を見た。
遠くの草原。
「BLACKWOLFと同じだ」
「ただの人間だ」
そう言いながらも――
パトリックは少しだけ考えていた。
もし噂が本当なら。
BLACKWOLF。
そして――その女。
草原は、まだ何かを隠している。




