伝染病
城の書斎の窓から、灰色の雲が低く垂れ込めていた。
街や村は、いつもとは違う騒がしい空気に覆われていた。
急ぐ人々の足、話し合う声、行き交う馬車の響き
新聞には、大きくこう書かれていた。
――伝染病、拡大猛威。
伯爵は毎日忙しかった。
城の会議室では、町や村の首長や役人たちと、対策を練り続けている。
手には書類、頭には数字と計画。
エルザは窓辺に立ち、外の騒ぎを見つめながら、決心して口を開いた。
「伯爵さま……どうして魔術を使わないのですか?」
伯爵は顔を上げ、眼鏡越しに彼女を見た。
その目は深く澄み、答える重みを湛えていた。
「エルザ……」
「わたしはできます。疫病の悪霊を退散させる呪術も、儀式も……。精霊の力を借りれば、誰かを救えるはずです」
静かに、しかし確信を持った声だった。
伯爵は息をつき、机の書類を手で押さえながら語り始めた。
「魔術で何人救える?……」
「え……?」
「一人救えば、次々と救わなければならない。数百、数千、数万人……いや、全人類を救うつもりか?」
エルザは目を見開いた。
「……そんな……」
伯爵は少し声を低くした。
「国や社会は無能ではない。医療、知識、衛生……伝染病に対抗する術は、全人類で共有され、次の時代へ、またその次の世代へと繋がっていく。そして進化していく…
それを、個人の魔術でどうこうしていい問題ではないのだ」
「……でも、バルトを……」
伯爵はそっと首を振った。
「バルトを救うのとは違う。これは君と私でどうにかする問題ではない…」
静かに窓の外を見つめる伯爵の背中に、エルザは息を呑んだ。
——これは、わたしの戦う相手だけの話じゃない。
世界全体を見なければ、意味がないのだ。
胸の奥で、なにかが静かに開くのを感じた。
エルザは震える手を握りしめ、深呼吸をした。
「エルザ…でも、君にもできることはある…やってほしいんだ…亡くなった人の魂が安らかになるように…君にはそれができる…」
「……わかりました……それと、働いている皆さんの体と心が穏やかになることも祈ります。」
「ありがとう、エルザ」
(そうだ…私はそうしたい…村で亡くなった人の魂もそうした…)
それからエルザは毎日祈った。
多くの魂が、安らかになるように。
それは各地で行われたことの一つでもあった。
そしてそれは一人一人の願いでも会った。
エルザもその一人として祈った。
伯爵の言葉は、痛みとともに、彼女に新しい視点を与えていた。
目の前の小さな世界ではなく、未来まで続く大きな流れを、考えられるようになったのだ。
——魔術で一人を救うこと、世界を変えることは同じではない。
わたしは、世界の歩みをみながら、それに逆らわずに自分の力で進んでいこう。そして、その歩みを進める、力を自分で持ちたい。
静かな書斎で、窓の向こうに広がる街を見つめながら、エルザは未来を思った。
「わたしは、もっと強くならなきゃ……」
小さな決意が、確かな光となり、胸の奥で輝いた。




