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第81話「拒絶の結界」

「……うへぇ。なにこのどんよりした空気」


馬車の窓から顔を出したリリアが、露骨に顔をしかめた。

彼女の視線の先には、鬱蒼とした深い森が広がっている。

 

王国北部に位置する、人呼んで『帰らずの森』。

太古よりエルフ族が支配し、人間を拒絶し続けてきた聖域だ。


「瘴気……いや、これはただの湿気とカビの臭いだな」


俺――アレン・クロフォードは、馬車を止めて御者台から降り立った。

鼻をつくのは、腐葉土の香りというよりは、もっと生々しい腐敗臭だ。


本来なら、世界樹の加護によって清浄な空気に満ちているはずの場所が、まるで病人の寝室のような重苦しい空気に包まれている。


「アレン。お腹すいたわ。早くそのエルフの里とやらに入りましょ」


馬車の後部座席から、不機嫌そうな声が飛んできた。


銀色の髪に、小さな角、そしてトカゲのような太い尻尾。

ドラゴニア帝国の第三皇女、シェリーだ。


学園での騒動の後、「美味しい野菜が食べたい」という理由だけで、なかば強引に俺たちの旅についてきたのだ。


「シェリー、少し我慢してくれ。……歓迎ムードじゃなさそうだからな」


俺は苦笑しながら、森の入り口へと視線を戻した。


そこには、目に見えない透明な壁――『結界』が張り巡らされている。

だが、その表面には微細な亀裂が走り、時折ノイズのように揺らいでいた。


(結界が弱まっている……。ダニエルさんからのSOS通り、世界樹の状態は深刻らしいな)


俺は懐から、王立錬金術師協会会長ダニエル・グレイの署名が入った『紹介状』を取り出し、森に向かって声を張り上げた。


「王立錬金術師協会、アレン・クロフォードです! 要請を受け、世界樹の治療に参りました!」


声は森に吸い込まれ、一瞬の静寂が訪れる。


次の瞬間だった。


ヒュンッ!


風を切り裂く音と共に、俺の足元数センチの地面に、白い矢が突き刺さった。


「うわっ!?」


「アレンさん!」


リリアが瞬時に剣の柄に手をかけ、俺の前に飛び出す。

森の奥から、数人の人影が音もなく現れた。


長い耳に、緑色の狩猟服。手には精巧な弓を持っている。


エルフの警備隊だ。

だが、その表情に友好的な色は一切ない。あるのは、汚らわしいものを見るような侮蔑の眼差しだけだ。


「立ち去れ、人間」


リーダー格と思われる男性エルフが、氷のような声で告げた。


「我々は人間の助けなど求めていない。穢らわしい短命種が、神聖な森に足を踏み入れることなど許さん」


「ですが、正式な依頼書があります! 長老会からの要請だと聞いていますが」


俺は紹介状を掲げて見せるが、男は鼻で笑った。


「ふん。一部の臆病者が勝手に出した手紙など知らん。……我らの森は、我らだけで守る。土足で自然を蹂躙する人間ごときに、世界樹様が治せるものか」


取り付く島もないとはこのことか。


どうやら、里の意見は一枚岩ではないらしい。

「外部の助けを借りたい改革派」と、「伝統を固辞する保守派」で割れているのだろう。そして、現場を仕切っているのは保守派だ。


「帰れ。さもなくば、次は眉間を射抜く」


男が再び弓を引き絞る。


殺気は本物だ。

リリアが剣を抜きかけ、俺がそれを手で制する。


ここで戦ってしまえば、治療どころではなくなる。

だが、引き下がるわけにもいかない。


(さて、どう説得したものか……)


俺が次の言葉を探していた、その時だ。


「――無礼よ、下等生物」


凛とした、しかし絶対的な威圧感を伴う声が響いた。

馬車の扉が開き、シェリーがゆっくりと降りてくる。


彼女は腕を組み、不遜な態度でエルフたちを見下ろした。その背後には、蜃気楼のようにドラゴンの幻影が揺らめいている。


竜人族ドラゴニュート……!?」


エルフたちが動揺し、後ずさる。

長命種である彼らは知っているのだ。かつて大陸を支配していた最強の種族の恐ろしさを。


「私はドラゴニア帝国第三皇女、シェリー・ドラゴニアよ。……たかが森の番人風情が、私に向かって弓を引く気?」


シェリーがギロリと睨むと、エルフたちの顔から血の気が引いた。


人間相手なら強気に出られる彼らも、格上の幻想種相手となれば話は別だ。これが「種族ヒエラルキー」というやつか。


「こ、これは皇女殿下とは露知らず……。しかし、人間を森に入れるわけには……」


「その人間は私の専属シェフよ。彼を追い返すなら私も帰るわ。……そして父様に言いつけてあげる。『エルフは帝国に喧嘩を売った』ってね」


「なっ……!?」


リーダーの男が絶句する。

ドラゴニア帝国を敵に回せば、弱った今のエルフになす術はない。


男はギリギリと歯噛みし、悔しそうに弓を下ろした。


「……分かった。通るがいい」


彼は憎々しげに俺を睨みつけた。


「ただし、客人としてではない。『監視対象』としてだ。……少しでも妙な真似をすれば、その首を刎ねると思え」


「……肝に銘じます」


俺は努めて冷静に頷いた。


なんとか入国審査はパスしたようだ。

シェリー様々だな。

後で特盛のステーキでも焼いてあげよう。


俺たちは再び馬車に乗り込み、開かれた結界の門をくぐる。

森の中へ入った瞬間、肌にまとわりつく湿気がさらに強くなった。

 

「……ひどいな」


車窓から見える景色に、俺は言葉を失った。


木々は黒ずみ、葉は黄色く変色して落ちている。

下草は枯れ、地面には見たことのない白いキノコが群生していた。


これは「神秘の森」なんかじゃない。

死にかけた「病床」だ。


「アレンさん、あれ……」


リリアが指差した先。森の中心に、天を突くような巨木がそびえ立っていた。


世界樹だ。

だが、その姿はあまりにも痛々しかった。


幹の半分はどす黒く変色し、枝からは葉が落ちて、まるで枯れ木のようになっている。


そして何より、俺の目にははっきりと見えていた。

世界樹の根元に広がる、異常な色の土壌と、そこに蠢く微細な影が。


「……長老たちは『呪い』だと言っていたが」


俺は眼鏡の位置を直し、冷静に分析モードへと頭を切り替えた。


「これは呪いじゃない。……もっとタチの悪い『病気』だ」


俺たちの戦う相手は、魔王軍でもドラゴンでもない。


この森を蝕む、目に見えない「微生物」と「化学反応」だ。

俺はカバンの中にある顕微鏡の感触を確かめ、静かに闘志を燃やした。


(第81話 完)

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