表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/106

第38話「逃走と残留物」

「逃がすか!」


フードの男が背を向けた瞬間、リリアが弾かれたように地面を蹴った。彼女の愛剣が銀閃を描き、男の進路を塞ぐように振り下ろされる。


「くっ、小娘が……!」


男は舌打ちし、懐から取り出した紫色の小瓶を地面――それも群衆の足元へと叩きつけた。


ガシャアンッ! 瓶が砕けた瞬間、猛烈な紫色の煙が爆発的に広がった。


「うわっ!? なんだこの煙!?」「目が、目が痛い!」「毒ガスか!?」


広場は一瞬にしてパニックに陥った。腐った卵と焦げたゴムを混ぜたような強烈な悪臭が鼻をつき、視界が完全に奪われる。


「アレンさん、下がって! 毒かもしれない!」


リリアが俺を庇うように袖で口を覆う。俺は冷静に煙の臭いを嗅ぎ、成分を分析した。


「大丈夫だ、毒じゃない! これは『硫化水素』……いや、温泉の成分を濃縮した煙幕だ! 目と鼻には来るけど、命に別状はない!」


「えっ、温泉!?」


リリアが拍子抜けした声を出す。


錬金術の失敗作としてよく出る副産物だ。ヴィクターはこれを「武器」として隠し持っていたのか。


とことん、錬金術師の風上にも置けない男だ。


風魔法使いの騎士たちが慌てて突風を巻き起こし、煙を散らした時には――すでに彼の姿はどこにもなかった。


「ちっ、逃げられたか……!」


リリアが悔しそうに剣を収める。だが、すべての敵が逃げられたわけではない。


「ま、待て! 私を置いていくな! 戻ってこい!」


演壇の上で、バルバロス侯爵が腰を抜かして喚いていた。


煙幕に取り残された彼は、今や怒れる群衆に四方を囲まれていた。


「おい、侯爵様よ。さっき自分で試しただろ? 紙が赤くなったのを」


「俺たちに『焦げた煮汁』を売りつけて、毒だと言い張ったのか!」


「説明しろ!」


「ひぃっ! ち、違う、私は騙されていたのだ! すべてあのフードの男が……!」


見苦しい言い訳をする侯爵。


そこへ、騎士団のロベルトさんが部下を引き連れて駆け上がってきた。


「バルバロス侯爵。偽造品流通への関与、および虚偽の証言で公衆を混乱させた容疑で同行願います」


「は、放せ! 私は貴族だぞ! 誰の許可を得て……」


「ベルンハルト殿下の命令です」


その一言で、侯爵は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


広場からは、「そうだ!」「連れて行け!」という歓声と拍手が沸き起こる。


俺はその光景を見つめながら、大きく息を吐いた。


とりあえず、最大の危機は去った。俺たちの「品質」は守られ、黒いデマは払拭されたのだ。


「……アレンさん、ごめん。ヴィクターを取り逃がしちゃった」


リリアがしょんぼりと肩を落とす。


俺は首を横に振り、地面に残されたガラスの破片を指差した。


「いいや、彼は慌てて逃げすぎた。……これだけ『証拠』を残してくれれば十分だ」




一時間後。


王立錬金術師協会の実験室。

広場の騒動を騎士団に任せ、俺たちはヴィクターが落としていった「黒いポーション」の未開封瓶と、彼の靴跡から採取した泥の解析を行っていた。


「アレン君、どうだい? 何か分かったか?」


ダニエルさんが心配そうに覗き込んでくる。俺は自作の顕微鏡(レンズを組み合わせた拡大鏡)から顔を上げ、自信を持って頷いた。


「ええ。この黒い濁り……ただの焦げカスじゃありませんでした」


俺はシャーレの上にある、微細な粉末をピンセットで示した。


「これは『岩塩』の結晶と、ある特殊な『粘土』の粒子です。……おそらく、水質が極端に悪い場所で製造されたため、不純物として混入したんでしょう」


「粘土? 王都の地下水にそんなものは混ざらんぞ」


「はい。これは王都の土じゃありません。……独特の赤みを帯びた、『赤粘土テラロッサ』です」


俺は壁に貼られた王都近郊の地図へと歩み寄り、北側の一点を指差した。


「王都の北、山岳地帯の廃坑。あそこは昔、レンガの材料になる赤粘土の採掘場でした。そして、そこの湧き水は硬度が高く、ミネラル分――つまり不純物が多く含まれています」


ヴィクターが作ったポーションが異常に早く劣化した原因の一つは、この不純物の多い水を使ったことにある。


綺麗な水を大量に確保できる場所がなく、かつ人目につかずに大規模な釜を設置できる場所。


「旧北鉱山の廃坑……。条件は完璧に一致します」


俺の推理に、リリアがバチンと手を叩いた。


「そっか! ヴィクターのアジトはそこにあるんだね!」


「十中八九な。……それに、さっきの試験紙の反応から見て、彼らはまだ大量の在庫を抱えているはずだ」


もしヴィクターが、このまま逃走して別の街で偽ポーションを売りさばけば、被害は王国中に広がる。


それだけは絶対に阻止しなければならない。


「ロベルトさん、すぐに動けますか?」


控えていたロベルトさんが、騎士の敬礼で応えた。


「無論だ。殿下からも『根源を断て』との勅命が出ている。……アレン殿、案内を頼めるか?」


「もちろんです。……決着をつけに行きましょう」


俺は白衣を脱ぎ、再び冒険者コートのベルトを締めた。


逃げたヴィクターは、追い詰められた鼠だ。何をしてくるか分からない。だが、今度こそ逃がしはしない。


「リリア、準備は?」


「バッチリだよ! さっきの借りは、倍にして返してやるんだから!」


リリアが愛剣の鯉口を切り、不敵に笑う。


科学捜査フォレンジックは終わった。ここからは、物理的な「掃除」の時間だ。


窓の外では、夕闇が王都を包み始めていた。


俺たちは準備を整え、北の山岳地帯へと向かう馬車に乗り込んだ。


(第38話 完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ