第22話「盗めない技術」
深夜の工房は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓から差し込む月明かりが、整然と並べられたガラス瓶を照らしている。
俺は作業台の隅で、あえて魔石ランプの光を落とし、気配を消して座っていた。
手元には、飲みかけの冷めたコーヒー。
「……そろそろか」
時計の針が深夜2時を回った頃。
裏口の扉が、音もなく開いた。
鍵はかけていたはずだ。だが、相手はプロだ。錬金術師といえど、王都ギルドが送り込んできた「調査員」ともなれば、鍵開け(ピッキング)程度の心得はあるだろう。
侵入者は、足音を忍ばせて工房の中へと入ってきた。
月明かりに浮かび上がったシルエットは、昨日「見学」に来た男――ゲイルだ。
彼は焦っていた。
息が荒い。そして、その動きには余裕がない。
彼は真っ直ぐに、俺が普段「製造記録」を保管している棚へと向かった。
ガサゴソとファイルを漁る音。
そして、苛立ち紛れにページをめくる音。
「……ない。どこだ、どこにある……!」
小声で呟く声が震えている。
彼は昨日の見学で、マニュアルの数値を盗み見たはずだ。「71度」「撹拌60回」という黄金比率を。
それなのに、なぜまた戻ってきたのか。
理由は明白だ。
盗んだ情報通りに作っても、うまくいかなかったからだ。
「……クソッ! なぜだ! 温度も時間も完璧に守ったはずなのに……!」
ゲイルが頭を抱え、作業台に拳を叩きつけた。
その瞬間。
「それは、今日の湿度が昨日とは違うからですよ」
俺は静かに声をかけ、魔石ランプの光量を上げた。
パッと工房が明るくなる。
「ひっ!?」
ゲイルが弾かれたように振り返った。
その顔は恐怖と、それ以上の混乱で歪んでいた。
「ア、アレン殿……!? な、なぜここに……!」
「こんばんは、ゲイルさん。忘れ物ですか?」
俺は努めて穏やかな口調で言った。
だが、その背後から、剣を構えたリリアと、腕を組んだルーカスが姿を現すと、ゲイルの顔色は土気色に変わった。
「わ、私は……その……」
「言い訳はいい。どうせ、盗んだレシピ通りに作っても失敗したんでしょう?」
俺が図星を指すと、ゲイルは呆然と口を開けた。
そして、開き直ったように叫んだ。
「そ、そうだ! 貴様、私に偽の情報を教えたな!?」
「偽の情報?」
「昨日盗み見……いや、教えてもらった通りにやったんだ! 温度は71度! 撹拌は1分間に60回! なのに、出来上がったのは白く濁った泥水のような失敗作だった! 重要な工程を隠しているんだろう!?」
ゲイルは血走った目で俺を睨みつけた。
やはり、彼は何も分かっていない。
俺は溜息をつき、作業台の上の温度計を指差した。
「ゲイルさん。昨日のリバーサイドは晴れでした。薬草は乾燥していて、水分量が少なかった。だから、抽出効率を上げるために少し高めの『71度』が最適だったんです」
「な……?」
「でも、今日は朝から小雨が降っていました。湿気が多く、薬草が水分を含んでいる。この状態で昨日と同じ71度で加熱したら、どうなると思います?」
「……水分過多で、温度が上がりすぎる……?」
「その通り。成分が熱変性を起こして壊れます。今日の条件なら、最適温度は『69.5度』。撹拌も少し優しくしなければならない」
ゲイルは絶句した。
口をパクパクと動かし、理解が追いつかないという顔をしている。
「そ、そんな……。毎日、条件を変えているというのか……?」
「当たり前です」
俺はきっぱりと言った。
「マニュアルに書いてある数字は、あくまで『基準値』です。重要なのは、その日の気温、湿度、薬草の状態に合わせて、基準値を微調整する『判断力』なんです」
前世の工場でもそうだった。
マニュアルは大切だ。だが、それを盲目的に守るだけでは、最高の製品は作れない。
現場の作業員が、日々の変化を感じ取り、機械のパラメータを微調整する。その「職人技」と「データ」の融合こそが、日本の製造業の強みだった。
「あなたが盗んだのは、昨日の『結果』だけだ。どうやってその数字を導き出したかという『過程』と『理論』を持っていない限り、同じ品質のものは作れません」
これが、俺の言う「技術」だ。
紙に書いてある数字そのものに価値はない。その数字を叩き出すための、日々の泥臭いデータ収集と分析。それこそが、誰にも盗めない財産なのだ。
「理論なき模倣は、劣化コピーに過ぎない」
俺の言葉に、ゲイルはガクリと膝をついた。
もはや、反論する気力も残っていないようだ。
「連れて行け」
リリアが合図をすると、控えていた衛兵たちがゲイルを拘束した。
ギルバートさんには事前に連絡してあった。産業スパイとして、然るべき処罰を受けることになるだろう。
連行されていくゲイルの背中を見送りながら、ルーカスがポツリと言った。
「……師匠。やっぱり、すごいです」
「何がだ?」
「僕は怒ってました。師匠がマニュアルを簡単に見せるから。でも、師匠は分かってたんですね。見せたところで、真似なんてできないって」
「まあな。というか、真似できるならしてみろって思うよ」
俺は苦笑した。
毎日、泥だらけになって薬草を育てているエミリア。
0.1秒単位で時間を管理しているルーカス。
そして、膨大な記録を取り続けている俺。
このチームの努力の結晶を、紙切れ一枚盗んだ程度で再現されてたまるか。
「さて、夜更かしさせちゃって悪かったな。明日に備えて寝よう」
「はい!」
「おやすみ、アレンさん!」
ルーカスとリリアが帰っていく。
俺はもう一度、静かになった工房を見渡した。
机の上には、明日の製造計画書がある。
明日の天気予報は晴れ。気温は今日より上がる。
なら、抽出温度は70.5度あたりからテストしてみるか。
「……データは嘘をつかない。でも、それを扱うのは人間だ」
改めて、その事実を噛み締める。
王都のギルドは、この「人間」の部分を軽視した。だから、俺たちの脅威にはなり得ない。
だが、油断はできない。
彼らがこの失敗に気づき、本気で潰しにかかってくる可能性もある。
それに、リスクは外部だけじゃない。内部にも、成長に伴う歪みが生まれつつあるかもしれない。
「気を引き締めないとな」
俺は魔石ランプを消し、工房を後にした。
闇の中に溶けていく「盗めない技術」を守りながら、アレン工房の夜は更けていった。
(第22話 完)
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