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第17話「新人のミスとマニュアルの限界」

「……おかしいな」


工房の検品スペースで、ルーカスが渋い顔をして首を傾げていた。 彼の手元には、今日製造されたばかりの下級回復ポーションが並んでいる。だが、そのうちの数本が、明らかに正規の色よりも濁っていた。


「どうした、ルーカス」


俺が声をかけると、彼はバツが悪そうにトレーを差し出した。


「師匠。……廃棄処分ロスが出ました。それも、かなりの数です」


「ロス?」


俺はトレーの一本を手に取り、光にかざしてみた。 本来なら透き通るような翠緑色エメラルドグリーンであるはずの液体が、少し白く濁っている。これではポーションとしての効果が半減してしまう。


「誰が作ったんだ?」


「今日入ったばかりの新人、トーマスです」


先日の弟子募集で採用した5人の新人のうちの一人だ。元パン職人だという彼は、真面目で手先も器用そうだったのだが。


「彼を呼んでくれ」


「はい。……トーマス! ちょっと来てくれ!」


呼ばれてやってきたトーマスは、真っ青な顔をしていた。自分の作ったポーションが弾かれたのを見て、クビになると思ったのかもしれない。


「も、申し訳ありません! でも、俺は……!」


「落ち着いてくれ、トーマス。君を責めようとしているわけじゃないんだ」


俺は努めて穏やかな口調で言った。 品質管理において、個人のミスを責めるのは悪手だ。責められた人間は萎縮し、次からミスを隠そうとするようになる。重要なのは「誰が」ではなく「なぜ」起きたかを探ることだ。


「手順の確認をしたいんだ。君は、マニュアル通りに作ったか?」


「は、はい! 誓ってマニュアル通りにやりました! 一行も読み飛ばしていません!」


トーマスは必死に訴えた。嘘をついている目ではない。 となると、考えられる原因は二つ。マニュアル自体が間違っているか、マニュアルの「解釈」がズレているかだ。


「実際にやってみてくれないか。俺が見ている前で」


「わ、分かりました」


トーマスは震える手で器具を準備し、製造を始めた。 お湯を沸かし、温度計を確認する。71度。完璧だ。 薬草を計量する。10グラム。これも正確だ。 そして、抽出した液体とマナグラス液を合わせる工程に入った。


「ここで、混ぜ合わせます」


トーマスはビーカーに撹拌棒かくはんぼうを入れ、カチャカチャと混ぜ始めた。 俺とルーカスは、その手元をじっと見つめる。


10秒、20秒……。


「……はい、終わりです」


トーマスが手を止めた。 出来上がった液体を見る。……やはり、わずかに白濁している。混合不足だ。


「おいトーマス、それじゃ足りないだろう」


ルーカスが溜息交じりに言った。


「もっとしっかり混ぜないと。色が完全に変わるまでやるんだよ」


「えっ? でも、マニュアルには……」


トーマスは作業台に広げてあった『製造マニュアル Ver.2.0』を指差した。 そこには、こう書かれていた。


『工程4:二つの液体を合わせ、よく混ぜる』


その文字を見た瞬間、俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。


「……あ」


思わず声が出た。 そうか。そういうことか。


「師匠?」


「俺のミスだ。……マニュアルが、不親切だった」


俺は額に手を当てた。 「よく混ぜる」。 料理のレシピ本などでもよく見る表現だが、これこそが落とし穴だった。


ベテランのルーカスにとっての「よく混ぜる」は、経験に裏打ちされた「色が変わり、粘度が均一になるまで」という感覚だ。 しかし、新人のトーマスにとっての「よく混ぜる」は、「とりあえず10秒くらい回す」ことだったのかもしれない。


言葉の定義が、人によって違う。 いわゆる『暗黙知』だ。俺は無意識のうちに、読み手のセンスに依存した書き方をしていたのだ。


「ルーカス、君はいつもどうやって混ぜている?」


「え? どうって……こう、手首のスナップを効かせて、全体が渦を巻くように……」


「回数は? 速さは?」


「い、いや、数えたことはありません。感覚で、色が綺麗になったら止めます」


「そうだよな。それが『職人の勘』だ」


俺はトーマスに向き直った。


「トーマス、君は悪くない。指示が曖昧だった俺の責任だ」


「え、あ、はい……」


「今すぐマニュアルを改訂しよう」


俺は羽ペンを取り出し、マニュアルの『よく混ぜる』という部分を二重線で消した。 そして、前世の知識を総動員して、誰がやっても同じ結果になる「数値」を書き込んだ。


『変更後:撹拌棒を垂直に立て、1分間に約60回のペースで、時計回りに3分間混ぜ続ける』


「これならどうだ?」


「1分間に60回……つまり、1秒に1回ですね」


トーマスが呟く。


「そうだ。工房にある砂時計を使ってくれ。3分の砂時計が落ち切るまで、1秒に1回のリズムで回し続けるんだ」


「それなら、俺にも分かります!」


トーマスの表情が明るくなった。 曖昧な「努力目標」ではなく、明確な「作業指示」になったからだ。


「よし、もう一度やってみてくれ」


「はい!」


トーマスは砂時計をひっくり返し、再び混ぜ始めた。 カチ、カチ、カチ……心の中でリズムを刻みながら、一定の速度で撹拌棒を動かす。 さっきのような迷いはない。ただ、決められた動作を繰り返すだけだ。


3分後。


「……綺麗だ」


ルーカスが感嘆の声を上げた。 ビーカーの中には、俺やルーカスが作ったものと遜色ない、透き通った翠緑色のポーションが出来上がっていた。


「やった……できました、師匠!」


「ああ、完璧だ。これなら合格だよ」


俺が頷くと、トーマスは安堵でへなへなと座り込んだ。 それを見ていた他の新人たちも、ほっと胸を撫で下ろしている。彼らもきっと、「よく混ぜる」の意味が分からずに不安だったのだろう。


「勉強になります、師匠」


ルーカスが真剣な顔で言った。


「『よく混ぜる』の一言が、こんなに危険だとは思いませんでした。自分たちが当たり前にやっていることほど、新人には伝わらないんですね」


「ああ。それが『マニュアルの限界』であり、同時に改善のチャンスでもある」


俺は工房全体を見渡した。 人が増えれば増えるほど、こういう「感覚のズレ」は必ず起きる。 「適量」「いい感じに」「手早く」。 そんな曖昧な言葉を一つひとつ見つけ出し、数値に変えていく。それが、組織として品質を維持するための唯一の方法だ。


「よし、全員作業を中断! マニュアルの読み合わせを行う。曖昧な表現があったら、全部指摘してくれ!」


「「「はいっ!!」」」


その日の夜、俺たちはマニュアルの大改訂作業に追われることになった。 大変な作業だったが、これでまた一つ、工房の地盤が固まった気がした。


だが、組織が大きくなる痛みは、これだけでは終わらなかった。 新人を束ねる立場になったルーカスの表情に、少しずつ陰りが見え始めていたことに、この時の俺はまだ気づいてやれなかったのだ。


【第17話 完】

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