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第95話「スラムの子供たちと『石鹸』の授業」

「あー! サッパリしたぁ! やっぱりお風呂は命の洗濯だね!」


翌朝。

宿の食堂で、リリアがツヤツヤになった髪を揺らして伸びをした。

昨夜の下水道での泥だらけの戦いが嘘のように、彼女からは甘い石鹸の香りが漂っている。


「うむ。ようやく人心地ついたわ。……しかし、アレンよ。お主、朝から難しい顔をして何を読んでおる?」


向かいの席で優雅に紅茶を啜るシェリーが、呆れたように俺を見た。

俺の手元にあるのは、例の疫学調査で使った王都の地図だ。


「昨日の事後処理について考えていたんだ。水源は確保したし、下水も塞いだ。でも、それだけじゃ足りない」


俺は地図の端にある、一つの『×』印の集まりを指差した。

そこは、井戸から離れているにも関わらず、集団感染が起きていた場所。

そして、俺たちがまだ足を運んでいないエリア。


「孤児院だ」


俺の言葉に、二人の表情が引き締まる。


「下町にある『聖マリベル孤児院』。ここでも多くの子供たちが発症している。……水が綺麗になっても、生活環境そのものが不衛生なままなら、いずれ『第二の病気(二次感染)』が起きる」


赤痢、チフス、シラミ、皮膚病。

スラム街の子供たちにとって、病気はコレラだけではない。

根本的な「衛生観念」を変えなければ、イタチごっこだ。


「行こう。今度は『掃除』の時間だ」




聖マリベル孤児院は、下町の最奥、日当たりの悪い路地裏にあった。

古びた木造の建物は傾き、壁には隙間風を防ぐための板が打ち付けられている。


「よく来てくれました、錬金術師様……!」


出迎えてくれたのは、年配のシスターだった。

彼女のエプロンは煤と汚れで黒ずんでおり、その疲労の色は濃い。


「お水のおかげで、子供たちの腹痛は治まりました。ですが……」


シスターの案内で中に入ると、そこには二十人ほどの子供たちが身を寄せ合っていた。

彼らの服はボロボロで、肌には垢がこびりつき、髪は脂で固まっている。

そして、部屋全体に漂うえた臭い。


「かゆいよぉ……」

「おなかすいた……」


子供たちが体をボリボリと掻きむしっている。

不潔な環境による皮膚炎と、シラミだ。


「体を洗わせてやりたいのですが、水は貴重ですし、洗っても洗っても汚れが落ちなくて……」


シスターが悲痛な声を上げる。

水で流すだけでは、皮脂や油汚れは落ちない。

そこに菌が繁殖し、感染症の温床となる。


「……なるほど。状況は理解しました」


俺は子供たちの前にしゃがみ込み、一番近くにいた少年の手を取った。

真っ黒な爪、ガサガサの手のひら。


「痛くないか?」


「……痛くないもん。俺、強いもん」


少年は強がったが、その手はひび割れて血が滲んでいた。

俺は立ち上がり、リリアとシェリーに振り返った。


「リリア、シェリー。昨日の夜、肉屋から『あれ』を回収してきたか?」


「もちろん! ちゃんと持ってるよ!」


リリアがアイテムボックスから取り出したのは、大きな壺に入った白い塊。

肉屋で廃棄される予定だった、牛や羊の「脂身ラード」だ。


「私も、パン屋から『灰』を貰ってきたぞ。……まったく、皇女たる私が灰まみれになるとはな」


シェリーも麻袋をドサリと置く。

中身は、カマドに残った木灰だ。


「十分だ。これがあれば、病気を防ぐ『最強の盾』が作れる」


俺は子供たちに向き直り、ニッコリと笑った。


「みんな、ちょっとした魔法を見せてあげるよ。……痛いのも、痒いのも、全部泡にして吹き飛ばす魔法だ」




俺は中庭に大鍋を設置し、早速作業に取り掛かった。

これから作るのは、文明の象徴であり、公衆衛生の基礎。

石鹸ソープ」だ。


作り方はシンプルだ。

油脂とアルカリを混ぜて反応させるだけ。

本来なら数週間かけて熟成させる「コールドプロセス製法」が一般的だが、今は時間がない。

錬金術による「強制鹸化けんか」を行う。


「まず、鍋に脂を入れる!」


白いラードが熱で溶け、透明な液体油に変わっていく。

そこに、木灰から抽出したアルカリ水(灰汁)を投入する。


「混ぜろ、リリア! 勢い良くだ!」


「任せて! おりゃあぁぁ!」


リリアが木の棒で力任せに撹拌する。

油と水が混ざり合い、白濁していく。

さらに、香り付けとして、エルフの森で採れたミントと柑橘系の果皮シトラスのエキスを加える。


反応促進アクセラレート!」


俺が鍋に手をかざし、魔力を流し込む。

通常なら何時間も煮込む工程を、数分に圧縮する。

ドロドロだった液体が、次第に粘り気を帯び、滑らかなクリーム状へと変化していく。


「よし、型に流し込むぞ!」


木枠に流し込み、冷却魔法で一気に固める。

そして、ナイフで長方形に切り分ければ――。


「できた……」


純白の、四角い塊。

まだ湯気が立っている「出来たて石鹸」の完成だ。

辺りには獣脂の臭みはなく、爽やかなミントの香りが漂っている。


「これが……魔法の盾?」


少年がおずおずと尋ねる。

俺は石鹸を一つ手に取り、彼に渡した。


「ああ。食べてはダメだぞ。これは『汚れを食べる』石鹸だ」


俺は井戸端に子供たちを集めた。

ここからは、座学じゃない。実技授業だ。


「いいか、みんな。手には見えない『バイキン』がついている。水で洗っただけじゃ、そいつらは油の下に隠れて落ちないんだ」


俺は自分の手に泥と油を塗りつけ、真っ黒にしてみせた。

そして水だけで洗う。

当然、ベタベタして汚れは残ったままだ。


「でも、この石鹸を使うと……」


俺は石鹸を水で濡らし、手のひらでこすり合わせた。

途端に、モコモコと白い泡が立ち上がる。


「わあぁ……!」

「泡だ! 雪みたい!」


子供たちの目が輝く。

この世界にも高級な石鹸はあるが、貴族の贅沢品であり、スラムの子供たちが目にすることはない。


「この泡が、油と汚れを包み込んで、手から引き剥がしてくれる。これが**『界面活性作用』**だ」


俺は難しい言葉をあえて使いつつ、手の中で泡を増やした。

そして、水で一気に洗い流す。


キュッ、キュッ。


洗い上がった俺の手は、元の肌色を取り戻し、さっきまでの油汚れが嘘のように消え去っていた。


「すげえ……!」

「俺も! 俺もやりたい!」


「よし、順番だ! 全員、袖をまくれ!」


俺は石鹸を切り分け、子供たち一人一人に配った。

リリアとシェリーも手伝いに入る。


「ほら、指の間もしっかりね! 爪の中もだよ!」

「うむ、こっちの手首も忘れるでないぞ。……ふふ、くすぐったいか?」


リリアが少年の手を泡だらけにし、シェリーが少女の髪を洗ってやる。

最初は恐る恐るだった子供たちも、泡の感触と香りに、次第に笑顔になっていった。


「いい匂いする!」

「見て見て、手がキュッキュッて鳴るよ!」

「お姉ちゃん、背中も洗って!」


中庭は一転して、賑やかな水遊び場になった。

灰色だった子供たちの肌が、本来の健康的な色を取り戻していく。

垢が落ち、髪がサラサラになり、何より――彼らの表情から「惨めさ」が消えていく。


「……信じられません」


シスターが涙ぐみながらその光景を見つめていた。


「ただ手を洗っているだけなのに……あの子たちが、こんなに笑うなんて」


「清潔であることは、自信に繋がります」


俺はタオルで手を拭きながら言った。


「自分が『汚い』と思っていると、心まで塞ぎ込んでしまう。綺麗になれば、前を向ける。石鹸は、体の汚れだけじゃなく、心のすすも落とすんです」


シスターは深く頷き、俺の手を握りしめた。


「ありがとうございます……。本当に、なんとお礼を言えば……」


「お礼なら、仕事で返してもらいます」


「え? 仕事、ですか?」


俺は懐から羊皮紙を取り出した。

石鹸の製造レシピだ。


「この石鹸の作り方を教えます。材料は肉屋の廃棄脂と、カマドの灰。つまりタダ同然です。これを院の子供たちと一緒に作って、王都で売ってください」


「売る……私たちが、ですか?」


「ええ。今、王都の人々は衛生に敏感になっています。『アレン工房監修・殺菌ソープ』として売り出せば、飛ぶように売れるはずです」


俺は計算していた。

ただ寄付をするだけでは、いつか尽きる。

だが、商売のタネを渡せば、孤児院は自立できる。

そして、安価な石鹸が市場に出回れば、王都全体の衛生レベルも向上する。


「売り上げは全て孤児院の運営費に充ててください。子供たちに、美味い飯を食わせてやってほしい」


「アレン様……!」


シスターはレシピを抱きしめ、何度も頭を下げた。




夕方。

ピカピカになった子供たちに見送られ、俺たちは孤児院を後にした。


「またねー! お兄ちゃん、お姉ちゃん!」

「石鹸作り、がんばるよー!」


子供たちの明るい声が、夕焼けの路地に響く。

リリアが満足げに振り返った。


「よかったね、アレンさん。あの子たち、もう大丈夫そうだね」


「ああ。これからは自分たちの手で、未来を切り開いていけるだろう」


俺も肩の荷が下りた気分だった。

これで、今回のパンデミック騒動の「火種」は完全に消えたと言っていい。


「……さて。光あれば影あり、とはよく言ったものじゃな」


不意に、シェリーが低い声で呟いた。

彼女の視線は、路地の出口に向けられている。

そこには、見覚えのある騎士服を着た男たちが待機していた。


王宮近衛兵だ。

そして、その中央には、俺たちの「顔なじみ」が立っていた。


「……ロベルト団長?」


王国騎士団長、ロベルト・フィッシャー。

アレン工房の最初の理解者であり、堅物の騎士だ。

彼が直々にこんな路地裏まで来るとは。


「アレン殿。それに殿下。……ご無事で何よりです」


ロベルトは俺たちに敬礼すると、厳しい表情のまま続けた。


「例の件、片付きました」


「例の件とは?」


「下水道の破壊工作を指示した黒幕……バロン・モルガン子爵とその一派の拘束です。先ほど、王宮からの勅命により、屋敷へ踏み込みました」


モルガン子爵。

古い錬金術師ギルドと癒着し、粗悪なポーションや「聖水」の利権で私腹を肥やしていた貴族だ。

今回の騒動も、彼らが新協会ダニエルたちを失脚させるために仕組んだマッチポンプだったことが、シェリーの情報網と、昨日捕まえた実行犯の証言で確定したらしい。


「抵抗は?」


「ありましたが、アレン殿が供与してくださった『麻痺ガス玉』のおかげで、無血開城です。……教団関係者も芋づる式に検挙しました」


「そうですか。……ご苦労様でした」


俺は淡々と答えた。

ざまぁみろ、という感情よりも、徒労感の方が大きかった。

彼らのくだらない権力争いのために、下町の人々がどれだけ苦しんだか。


「それと、アレン殿。陛下より伝言です」


ロベルトが姿勢を正す。


「『今回の功績、誠に大義であった。王都の水を守り、病魔を退けたその手腕、まさに国宝級である。……つきましては、近いうちに褒美を取らすゆえ、登城せよ』とのことです」


「登城……ですか」


俺はため息をつきたくなった。

目立つのは嫌だと言っているのに、どんどん外堀が埋まっていく。

だが、今回は断れないだろう。王都全体を巻き込んだ騒動の当事者になってしまったのだから。


「分かった。……まあ、リリアとシェリーにも新しいドレスが必要だしな」


「わっ! 本当!? やったぁ!」


リリアが飛び上がって喜ぶ。

シェリーも扇で口元を隠しながら、「ふん、当然の嗜みじゃな」とまんざらでもなさそうだ。


「では、私はこれで。……ああ、そうだ」


ロベルトは去り際に、思い出したように言った。


「屋敷から押収した証拠品の中に、奇妙な『手記』がありました。ヴィクター……かつてのギルド長が、追放後にモルガン子爵と接触していた記録です」


「ヴィクターが?」


俺の心臓がドクンと跳ねた。

俺が追放し、怪物化して自滅したはずの男。

だが、彼はまだ生きていて、王都の闇に潜んでいるという情報があった。


「今回の件に直接関与した証拠はありませんでしたが……奴は何か、もっと大きな『毒』を練り上げている可能性があります。ご注意を」


ロベルトはそう言い残し、部下を連れて去っていった。


夕闇が迫るスラム街。

石鹸の香りが残る路地に、冷たい風が吹き抜けた。


「……アレンさん」


リリアが不安そうに俺の袖を引く。


「大丈夫だ」


俺は彼女の手を握り返し、自分自身に言い聞かせるように言った。


「どんな毒が来ようと、俺たちが全部『中和』してやる。……科学チートでな」


俺たちは歩き出した。

王都の空には、一番星が光っていた。


公衆衛生編、完結。

そして物語は、次なるステージ――「経済と物流」、そして「国家間の陰謀」へと加速していく。


(第95話 完了)

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