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第93話「プールの匂いは安全の証」

「……うっぷ。しょっぱい……」


翌朝。


王都の中央広場には、山積みになった麻袋の山が築かれていた。


中身はすべて、市場から買い占めた「岩塩」だ。


「アレンさん、本当にこれでいいの? 『海に行く』って言ってたのに、結局、市場の塩を全部買い占めるなんて……」


リリアが麻袋の一つを担ぎ上げながら、呆れたように言った。

俺は苦笑しながら、設置したばかりの巨大な水槽に塩を投入していく。


「本当は海水を直接汲みに行きたかったが、移動時間が惜しいからな。この岩塩を溶かせば、擬似的な海水は作れる」


昨夜、俺たちが作った「巨大濾過装置」はフル稼働を続けている。


だが、俺の懸念通り、顕微鏡で見ればまだ微小な菌が残存していた。


濾過材(生物膜)が成熟していない今の状態では、物理的なゴミ取りが限界だ。


だからこそ、次の一手が必要になる。

俺は水槽の中を木の棒でかき混ぜ、高濃度の食塩水を作った。


「さて、ここからが錬金術の見せ所だ」


俺は水槽に二本の金属棒(炭素電極の代わり)を突き刺し、魔力を流し込む準備をした。


これから行うのは、前世の化学実験でお馴染みの「電気分解」だ。


食塩水(NaCl)に電気を流すと、化学反応が起きる。


陽極には塩素ガス、陰極には水素と水酸化ナトリウムが発生する。

そして、この塩素ガスと水酸化ナトリウムを反応させると――。


「生成せよ。病魔を焼き払う、白き浄化の液体」


バチバチッ!


俺が流した魔力が、塩水の中でイオンを激しく揺さぶる。

水槽からブクブクと泡が立ち上り、鼻を突く独特の刺激臭が漂い始めた。


次亜塩素酸ナトリウム(NaClO)。

いわゆる「塩素系漂白剤」、あるいはプールの消毒液だ。


「うわっ、くさっ!? 何この匂い!?」


近くにいたシェリーが、ハンカチで鼻を押さえて後ずさる。


「鼻が曲がるわ! まるで腐った卵と薬草を混ぜて煮込んだような……アレン、お主、また変な毒を作ったのではないだろうな?」


「失敬な。これは毒じゃない、薬だ」


俺は生成された淡黄色の液体を、ガラス瓶に慎重に移し替えた。


原液は強アルカリ性で危険だが、これを適切な濃度(ppm単位)に希釈すれば、最強の殺菌水になる。


「これを、あの濾過水のタンクに混ぜる」


俺は小瓶を持って、昨夜作った濾過塔の下にある貯水タンクへと向かった。




広場には、今日も早朝から水を求める長い行列ができていた。

昨夜の騒動を聞きつけた人々が、下町中から押し寄せているのだ。


「錬金術師様! 水を、水をくれ!」


「こっちが先だ!」


住民たちは殺気立っている。


俺は彼らを落ち着かせながら、貯水タンクの蓋を開け、先ほどの液体をポタポタと滴下した。


濃度は0.1ppmから0.5ppmの間。


人体には無害だが、細菌の細胞膜を破壊するには十分な量だ。


「よし、これで撹拌かくはんする」


俺がタンクを揺らし、水を混ぜ合わせると、辺り一面にあの匂いが広がった。


学校のプールサイドの匂い。


水道水のカルキ臭。


前世の日本人にとっては「清潔」を連想させる匂いだが、この世界の人々にとっては未知の悪臭だ。


「……ん?」


列の先頭にいた男が、配られた水をコップに受けて、顔をしかめた。


「なんだこれ……変な匂いがするぞ」


男の声に、周りの人々もざわめき始める。


「本当だ。なんか、ツンとする……」


「昨日はこんな匂いしなかったぞ?」


「おい、まさか……毒を入れたんじゃないだろうな!?」


誰かが叫んだ瞬間、群衆の空気が一変した。


昨日の今日だ。

まだ彼らの疑心暗鬼は消えていない。


そこへ、あの「救済の教団」の残党が、待っていましたとばかりに声を上げた。


「見ろ! やはりあいつは悪魔だ!」


人混みの中から、昨日とは違う司祭服の男が現れた。

昨日の司祭が逃げ帰った後、別の幹部が出てきたらしい。


「あの匂いは『死の臭い』だ! 錬金術師は、お前たちを実験台にして殺そうとしているのだ!」


「なっ……ふざけるな!」


リリアが怒って剣に手をかけるが、住民たちの動揺は止まらない。


「くさい! 飲めるかこんなもの!」


「水を返せ! 昨日の透明な水をよこせ!」


「毒殺する気か!」


石が一つ、俺の足元に飛んできた。

カツン、と乾いた音が響く。


「アレン! 説明せぬか! このままでは暴動になるぞ!」


シェリーが扇を開いて威嚇するが、多勢に無勢だ。

俺は深呼吸をし、タンクの前に仁王立ちになった。


やはり、こうなるか。


「無味無臭」こそが良い水だという常識がある世界で、あえて「臭い水」を飲ませる難しさ。


だが、ここで引くわけにはいかない。


「聞けえぇぇッ!!」


俺は魔力で声を増幅し、広場全体を震わせた。


怒号が一瞬止む。


「この匂いは毒じゃない! 『戦っているあかし』だ!」


「戦っている……だと?」


「そうだ! お前たちの傷口に、強い酒をかけるとどうなる? 沁みて痛いだろう! だが、それは酒が傷を治そうとして、うみと戦っているからだ!」


俺は分かりやすい比喩を使った。

この世界でも、傷口の消毒に度数の高い酒を使う知識はある。


「この水に入れたのは、目に見えない『病魔』を殺すための薬だ! このツンとする匂いは、薬が病魔と戦い、殺している時に出る煙のようなものだと思え!」


「嘘だ! 誤魔化すな!」


司祭が叫ぶ。


「証拠を見せろ! 目に見えないものをどうやって信用しろと言うんだ!」


「証拠なら、見せてやる」


俺は昨日と同じように、携帯型顕微鏡を取り出した。

そして、用意しておいた二つのサンプルを掲げる。


「リリア、投影準備!」


「了解!」


リリアが光源魔法を放つ。

俺はまず、「濾過する前の井戸水」を投影した。


空中に浮かび上がった光の円の中に、無数のコンマ状の菌がうごめく様子が映し出される。

昨日の悪夢の再来に、住民たちが悲鳴を上げた。


「ひぃっ……!」


「やっぱり、まだいるのか……」


「そうだ。濾過しただけの水にも、こいつらは潜んでいる。見た目が綺麗でも、こいつらは死んでいない!」


次に、俺はスライドガラス上の水に、先ほどの「塩素水」を一滴垂らした。


そして、その瞬間を投影する。


「見ろ! これが『薬』の力だ!」


画面の中、元気に動き回っていた菌たちに、塩素の波が襲いかかる。


接触した瞬間。


菌たちの動きがピタリと止まり、細胞膜が破れて溶けていく。


全滅だ。


ほんの数秒で、画面の中は静寂に包まれた。


「……死んだ」


誰かがポツリと呟いた。


「全滅したぞ……」


「あの虫たちが、動かなくなった……」


圧倒的な視覚的効果。

「匂いのする薬」が、恐ろしい病原体を瞬殺する様を、彼らは目の当たりにしたのだ。


俺は静かに告げた。


「この匂いがしている限り、この水の中に病魔はいない。俺が保証する。……逆に言えば、この匂いがしない水は飲むな」


俺はタンクの水を自らのコップに汲み、高く掲げた。

プールの匂いが漂うコップ。

それを、俺は一気に飲み干した。


ゴクリ。


口の中に広がる、微かなカルキ臭。


ああ、懐かしい。これは前世の日本の水道水の味だ。


世界で一番安全な水の味だ。


「……ふぅ。美味くはないかもしれない。だが、これは『命の味』だ」


俺が飲み干したのを見て、最前列にいた母親が震える声で言った。


「……私の子供にも、それを飲ませれば……助かりますか?」


彼女の腕の中には、ぐったりとした幼子が抱かれている。


「助かる確率は格段に上がる。新たな感染を防げば、子供の体力は回復に向かうはずだ」


「……ください。その、臭い水を」


母親はコップを差し出した。


俺が注いだ水を、彼女は子供の口に含ませる。


子供は「んっ……」と顔をしかめたが、喉を鳴らして飲み込んだ。


「……! 吐かない……!」


母親が涙ぐむ。


コレラの激しい嘔吐感が、綺麗な水を飲むことで少し和らいだのだろうか。


それを見た住民たちが、次々とコップを差し出した。


「俺にもくれ!」


「その『薬の水』を!」


「この匂いが安全なんだな!?」


流れは決まった。


もう誰も、司祭の言葉になど耳を貸さない。

彼らは「匂い」を「安全基準(安全マーク)」として受け入れたのだ。




その日の午後。


広場での給水活動は順調に進んでいた。

タンクの水が減るたびに、俺と弟子たちが濾過と塩素消毒を行い、補充し続ける。


「アレンさん、すごいね。みんな『くさいくさい』言いながら、笑顔で飲んでるよ」


リリアが感心したように言った。

彼女の手も塩素で少し荒れているが、その表情は晴れやかだ。


「ああ。人間は慣れる生き物だ。それに、この匂いが『病気にならない』という安心感に変われば、むしろ好まれるようになるさ」


「ふん。しかし、私の手までこの匂いが染み付いてしまったぞ。これでは優雅なティータイムも台無しじゃ」


シェリーが文句を言いながらも、率先して子供たちに水を配っている。

なんだかんだ言っても、この皇女様は働き者だ。


そこへ、ダニエルさんが血相を変えて走ってきた。


「ア、アレンくん! 大変だ!」


「どうしました? 協会本部で何かトラブルでも?」


ダニエルさんは息を切らしながら、一枚の羊皮紙を俺に突きつけた。


「ち、違う! 王城からだ! ……国王陛下が、君を呼んでいる!」


「えっ、陛下が?」


「君のこの騒ぎ……『隔離された下町で、錬金術師が毒水を配って民を扇動している』という報告が、貴族院の一部から上がっているらしい! すぐに弁明に行かないと、反逆罪に問われるかもしれない!」


「……なるほど。教団と癒着している貴族の仕業か」


俺は冷めた頭で状況を分析した。


下町の支持を得た俺を、権力を使って潰しに来たわけだ。


だが、タイミングが悪すぎる。

今はまだ、給水活動を止めるわけにはいかない。


「ダニエルさん。俺はここを離れられません。今、俺がいなくなれば、塩素の濃度調整ができずに事故が起きる可能性があります」


「し、しかし! 王命に逆らう気か!?」


「逆らうつもりはありません。ただ……」


俺はニヤリと笑い、横にいるシェリーを見た。

彼女は優雅に扇を閉じ、不敵な笑みを浮かべた。


「安心せよ、ダニエル。私が参ろう」


「えっ……皇女殿下が?」


「うむ。ドラゴニア帝国の皇女として、この国の王に挨拶の一つもしておらなんだからな。ついでに、その腐った貴族どもの嘘を暴いてやろうではないか」


シェリーの目が、狩りをするドラゴンのように鋭く光る。

政治的な泥仕合なら、俺が出るよりも、他国の王族である彼女が出張った方が効果的だ。


「リリア、お前はアレンの護衛を続けよ。私はちょっくら、城で暴れてくる」


「うん! いってらっしゃい、シェリーちゃん! 偉そうなオジサンたちをギャフンと言わせてきてね!」


シェリーは颯爽と馬車に乗り込み、王城へと向かっていった。

頼もしすぎる。


「さて、俺たちは現場の仕事を続けよう。……次は、根本治療だ」


俺は広場の地面――その下にある下水道を見据えた。


安全な水は確保した。


次は、汚染源である「漏水した下水路」を塞がなければならない。


だが、古い石造りの下水路は迷路のように入り組んでおり、どこから漏れているのか特定するのは困難だ。

しかも、崩落の危険もある。


「アレンさん、どうやって直すの? 地面を全部掘り返すわけにはいかないし……」


「全部掘る必要はない。……『流せば』いいんだ」


「流す?」


「ああ。ひび割れを勝手に見つけて、勝手に塞いでくれる『賢い泥』を流し込む」


俺の頭の中にあるのは、「ローマ・コンクリート」のレシピだ。


火山灰と石灰。


これらは水の中で化学反応を起こし、年月が経つほどに硬化する性質を持つ。

現代のコンクリートよりも、ある意味で優れた「自己修復能力」を持つ古代の叡智。


「ダニエルさん、火山灰の手配を頼めますか? 近くに火山か、鉱山があれば……」


「か、火山灰? ……北の鉱山都市ヴァルカンから取り寄せた耐火煉瓦の材料なら、倉庫に山ほどあるが……」


「それでいい! それを全部持ってきてください!」


俺は拳を握りしめた。


水質汚染との戦いは、いよいよ最終局面へ。

王都の地下に眠る腐敗したインフラを、俺の錬金術で強固な岩盤へと変えてみせる。


「リリア、作業着に着替えろ。今度は地下探検だ」


「ええーっ! また臭いところに行くのー!?」


リリアの悲鳴が、夕暮れの広場にこだました。


(第93話 完)

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― 新着の感想 ―
えっとー塩水分解してもHとOHが… Nacl分解するには単体で800度まで温度を上げて単離させる必要があった気が…(科学者じゃないので高校時代の拙い知識ですが…)
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