表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
102/106

第91話「地図上の死神(疫学調査)」

「……ひどい匂いだね」


リリアが顔をしかめ、マスクの上からさらに鼻を押さえた。

隔離壁を一歩越えた先、王都の下層区ダウンタウンは、異様な静けさと腐敗臭に包まれていた。


道端には汚物が溢れ、行き場を失ったゴミが山積みになっている。


普段なら子供たちが走り回っているはずの路地裏には人影がなく、時折、どこかの家から激しく咳き込む音や、啜り泣く声だけが漏れ聞こえてきた。


「アレン。本当にここを歩くのか? 空気そのものが澱んでおるぞ」


シェリーも不快そうに眉を寄せ、ドレスの裾を持ち上げている。

俺は頷き、手元のバインダー――王都の精細な地図を挟んだもの――を握り直した。


「ああ。敵の正体がわからない以上、現場を見るしかない。……二人とも、絶対に手すりや壁に触れるなよ。水たまりも踏まないように」


俺は注意を促しながら、周囲を観察する。


この世界の医学では、病気は「悪い空気ミアズマ」によって伝染すると考えられている。

だから人々は窓を閉め切り、香草を焚いて「空気」を浄化しようとする。


だが、もし俺の予想通りこれがコレラ(またはそれに類する水系感染症)なら、空気は関係ない。

問題は「口に入るもの」だ。


「よし、あそこの家から聞き込みを始めよう」


俺は地図上で、特に感染報告が多い区画の一軒を選んだ。




「帰ってくれ! 医者じゃないなら用はない!」


扉を叩くと、中から怒鳴り声が返ってきた。

俺は努めて冷静な声を張り上げる。


「王立錬金術師協会のアレン・クロフォードだ。治療のために、いくつか質問をさせてほしい」


「錬金術師……? ポーションをくれるのか?」


扉が少しだけ開き、痩せこけた男性が顔を覗かせた。


奥のベッドには、ぐったりとした女性が横たわっているのが見える。

顔色は土気色で、意識が朦朧としているようだ。


「ポーションの配布は協会本部が行っている。俺が知りたいのは、『彼女が発症する前に、どこで、何をしたか』だ」


俺はペンを構え、質問を矢継ぎ早に繰り出した。


「発症したのはいつだ?」


「……おとといの夜だ」


「その日の食事は?」


「パンと、干し肉のスープだ」


「水は? どこの井戸の水を使った?」


「はあ? 水なんて、そこの共同井戸に決まってるだろう」


男は怪訝そうに答える。

俺は地図上の該当箇所――『東3番地区・共同井戸』に印をつけた。


「家族で発症したのは彼女だけか?」


「ああ。俺と息子は今のところ平気だ」


「彼女だけが口にしたものはないか? あるいは、彼女だけが行った場所は?」


「……そういえば、あいつは信心深いからな。帰りに『水汲み場』で祈ってから、水を一杯飲むのが日課だったが……」


俺の手が止まる。


「水汲み場」で、生の水を、そのまま一杯。


「……協力感謝する。この浄化ポーションを使ってくれ。ただし、家の中の食器や布はすべて煮沸――熱湯で洗うんだ。いいな?」


俺は予備のポーションを一本渡し、その場を離れた。


「アレンさん、どう? 何か分かった?」


リリアが心配そうに覗き込んでくる。

俺は地図に小さく『×』印を書き込んだ。


「まだ断定はできない。サンプル数が足りないんだ」


俺たちはその後も、何十軒もの家を回り続けた。

患者がいる家、家族全員が死に絶えた家、そして奇妙なことに「誰も発症していない家」。


そのすべてを、感情を排してデータ化していく。


「お前さんたち、何をしてるんだい?」


ある長屋の前で、老婆に声をかけられた。

周りの家が軒並み倒れている中、この老婆だけはピンピンしており、軒先で編み物をしている。


「お婆さん、体調は悪くないんですか?」


「ああ。周りはみんな腹を下して寝込んじまったけどねぇ。アタシは昔から胃腸が丈夫なのさ」


「……普段、水はどうしていますか?」


「水? そのまま飲むとお腹が冷えるからねぇ。アタシはいつだって、茶葉をたっぷり入れて、グラグラに煮出したお茶しか飲まないよ」


煮出したお茶。

俺の脳内で、パズルのピースがカチリと嵌った音がした。


「ありがとう、お婆さん。その習慣が、あなたの命を救ったんですよ」


「はあ? 変な子だねぇ」


俺は老婆に頭を下げ、地図に大きく『○』印をつけた。


煮沸消毒。

この世界に細菌の知識はないが、経験則として「火を通した水は安全」だと知っている者は助かっている。


これは、空気感染(ミアズマ説)では説明がつかない。

やはり、経口感染だ。




夕暮れが近づく頃、俺の手元の地図は、無数の『×』印で埋め尽くされていた。


「……見えてきたぞ」


俺は路地裏の木箱に地図を広げ、二人を呼んだ。


「リリア、シェリー。これを見てくれ」


二人が地図を覗き込む。

そこには、ある恐ろしい「法則」が描かれていた。


黒いインクで記された『×』印(患者の発生場所)は、王都の下町全体に散らばっているように見える。

だが、よく見ると――


「あれ? ここ……すごく密集してない?」


リリアが地図の中央付近を指差した。


「そうじゃな。このあたりだけ、黒い点が重なって真っ黒になっておる」


シェリーも同意する。

その場所は、下層区の広場周辺。


「これが『疫学調査エピデミオロジー』だ」


俺は静かに告げた。


前世のロンドンで、医師ジョン・スノウがコレラの感染源を突き止めた伝説の手法。

病原体が見えなくても、被害者の分布データを見れば、発生源は特定できる。


「被害は、この広場を中心に同心円状に広がっている。そして、ここから離れれば離れるほど、被害は減っていく。……ただし、例外がある」


俺は地図の端にある、一つの『×』印の塊を指した。

そこは広場からかなり離れた場所にある孤児院だった。


「ここは広場から遠い。なのに、なぜ集団感染したと思う?」


「……なぜだ? 近くに別の井戸もあるはずじゃが」


「聞き込みで分かったんだ。この孤児院の院長は、広場の近くにある『美味しい水』をわざわざ汲んで、子供たちに飲ませていたんだよ」


沈黙が落ちた。


「美味しい水」。


冷たくて、澄んでいて、喉越しが良い水。

それが、死を運んでいたのだ。


俺は地図の中心にある一点を、ペン先で強く叩いた。


「犯人は、こいつだ」


そこには、『中央広場・共同ポンプ井戸』と記されていた。




俺たちは直ちに中央広場へと向かった。

そこは下町の生活の中心地であり、多くの人々が集まっていた。


「水だ! 水をくれ!」


「喉が渇いて死にそうだ……!」


皮肉なことに、脱水症状に苦しむ人々が、命を繋ぐためにその井戸に群がっていた。


彼らは知らないのだ。

その水こそが、自分たちを殺している元凶だということを。


「ああっ! 待て、飲むな!!」


俺は思わず叫び、井戸へ駆け寄ろうとした。

だが、その前に立ちはだかる集団がいた。


黒いローブを纏い、奇妙な杖を持った男たち。

先ほど検問所で見かけた「救済の教団」だ。


「何奴だ! 神聖なる水場を騒がすとは!」


司祭らしき男が、俺たちを睨みつける。

井戸の横には祭壇が組まれ、教団員たちが井戸から汲み上げた水を、小さな小瓶に詰め替えていた。


「……まさか、その井戸水を『聖水』として売っているのか?」


俺の声が低くなるのを自分でも感じた。


「いかにも。この井戸は、我らが教祖様が清めた奇跡の泉。この水を飲み、祈りを捧げれば、病魔など恐れるに足りん!」


司祭が得意げに叫ぶと、周りの信者たちが「おお、ありがたや……」と涙を流して水を求めた。


最悪だ。


汚染源の水を、さらに「聖水」というブランドをつけて拡散させている。

これでは、感染爆発パンデミックが止まるはずがない。


「その水は毒だ! 今すぐ汲み上げを中止しろ!」


俺は警告したが、司祭は鼻で笑った。


「毒だと? バカなことを。見ろ、こんなに透き通っているではないか」


彼はコップに水を汲み、掲げてみせた。


確かに、見た目は無色透明だ。


下水の混入といっても、泥水がそのまま入っているわけではない。

土壌で濾過され、一見きれいに見える水の中にこそ、億単位の菌が潜んでいる。


「無知とは罪だな……」


俺はバインダーをリリアに預け、前に出た。


「貴様こそ何者だ! 科学者風情が、神の奇跡にケチをつける気か!」


「アレン・クロフォード。錬金術師だ」


俺は懐から、「携帯型顕微鏡」を取り出した。

真鍮製の筒に、高精度のレンズを何枚も組み合わせた、俺の特製品だ。


「その水が綺麗かどうか、神様の代わりに俺が判定してやる」


「な、何を……」


俺は司祭の手からコップをひったくると、スポイトで一滴吸い上げ、スライドガラスに垂らした。

そして、顕微鏡のステージにセットする。


「リリア、光源魔法ライトを頼む。最大光量で」


「任せて!」


リリアが指先に強烈な光を灯し、顕微鏡の下から照らす。

俺はレンズを覗き込み、ピントを合わせた。


そこに映っていたのは、予想通りの地獄絵図だった。

コンマ数ミリの世界で、無数の「コンマ状の菌」が、おびただしい数で蠢いている。


「……ビンゴだ。コレラ菌もどきが、パーティを開いてやがる」


俺は顔を上げ、司祭、そして周りを取り囲む住民たちを見回した。


言葉だけでは伝わらない。

この世界の人々に「菌」を理解させるには、視覚的なインパクトが必要だ。


「見ろ。これが『聖水』の正体だ」


俺は錬金術を発動し、顕微鏡の映像を空中に投影プロジェクションした。

光の魔法とレンズの屈折を利用した、簡易的な映写機だ。


夕闇の広場に、巨大な光の円が浮かび上がる。

その中には、細長い虫のようなものが、うじゃうじゃと高速で動き回る様子が映し出された。


「ひっ……!?」


「な、なんだあれは!?」


「水の中に、蟲がいるぞ!?」


悲鳴が上がる。


コップの水を飲もうとしていた男が、青ざめてコップを取り落とした。


「これが、お前たちが飲んでいる水の中身だ。透明に見えても、中には何億という『死に神』がいる」


俺は司祭に向き直り、冷たく言い放った。


「これをまだ『清めた』と言い張るつもりか?」


「そ、そんな……まさか……これは幻術だ! 悪魔の幻覚だ!」


司祭は後ずさりながら喚くが、その表情には明らかな動揺が見えた。

住民たちの視線が、恐怖と疑念に変わっていく。


だが、これだけでは終わらない。

原因を特定しても、水を止めなければ意味がないのだ。


俺は井戸のポンプに手をかけた。


「リリア、シェリー。暴動が起きるかもしれない。背中は任せた」


「了解! 誰一人指一本触れさせないよ!」


「ふん、民を惑わす輩になど容赦はせぬ」


二人が武器を構え、俺の左右を固める。

俺は深呼吸をし、錬金術の構成式を練り上げた。


まずは、この蛇口を止める。

物理的に、二度と水が出ないように。


構造分解デコンストラクション


俺の手のひらが青白く光った。

次の瞬間、鋳鉄製の頑丈なポンプの取っ手が、飴細工のように捻じ切れ、ボロリと地面に落ちた。


ガシャン!


乾いた金属音が広場に響き渡る。

水を求める人々、そして教団員たちが、一斉に息を呑んだ。


「あ……ああ……!」


「何をするんだ!!」


「俺たちの水を!!」


予想通りの怒号が飛ぶ。

だが、俺は退かない。


「この井戸は封鎖する。ここにあるのは水じゃない。毒だ」


俺は壊れたポンプの上に立ち、殺気立つ群衆を見下ろした。


ここからが正念場だ。

水を奪った悪魔として石を投げられるか、それとも救世主として認められるか。


代わりの水を用意するまでの数時間、この場を制圧し続けなければならない。


「代わりの水は、俺が作る! それまで一滴たりとも、ここから飲むことは許さん!」


俺の宣言が、夜の王都に響き渡った。


(第91話 完)

【お願い】楽しんでいただけましたら、 ブックマーク登録や、ページ下部からの評価(★)をポチッとしていただけると、執筆のモチベーションが爆上がりします!

引き続き、応援よろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ