第91話「地図上の死神(疫学調査)」
「……ひどい匂いだね」
リリアが顔をしかめ、マスクの上からさらに鼻を押さえた。
隔離壁を一歩越えた先、王都の下層区は、異様な静けさと腐敗臭に包まれていた。
道端には汚物が溢れ、行き場を失ったゴミが山積みになっている。
普段なら子供たちが走り回っているはずの路地裏には人影がなく、時折、どこかの家から激しく咳き込む音や、啜り泣く声だけが漏れ聞こえてきた。
「アレン。本当にここを歩くのか? 空気そのものが澱んでおるぞ」
シェリーも不快そうに眉を寄せ、ドレスの裾を持ち上げている。
俺は頷き、手元のバインダー――王都の精細な地図を挟んだもの――を握り直した。
「ああ。敵の正体がわからない以上、現場を見るしかない。……二人とも、絶対に手すりや壁に触れるなよ。水たまりも踏まないように」
俺は注意を促しながら、周囲を観察する。
この世界の医学では、病気は「悪い空気」によって伝染すると考えられている。
だから人々は窓を閉め切り、香草を焚いて「空気」を浄化しようとする。
だが、もし俺の予想通りこれがコレラ(またはそれに類する水系感染症)なら、空気は関係ない。
問題は「口に入るもの」だ。
「よし、あそこの家から聞き込みを始めよう」
俺は地図上で、特に感染報告が多い区画の一軒を選んだ。
「帰ってくれ! 医者じゃないなら用はない!」
扉を叩くと、中から怒鳴り声が返ってきた。
俺は努めて冷静な声を張り上げる。
「王立錬金術師協会のアレン・クロフォードだ。治療のために、いくつか質問をさせてほしい」
「錬金術師……? ポーションをくれるのか?」
扉が少しだけ開き、痩せこけた男性が顔を覗かせた。
奥のベッドには、ぐったりとした女性が横たわっているのが見える。
顔色は土気色で、意識が朦朧としているようだ。
「ポーションの配布は協会本部が行っている。俺が知りたいのは、『彼女が発症する前に、どこで、何をしたか』だ」
俺はペンを構え、質問を矢継ぎ早に繰り出した。
「発症したのはいつだ?」
「……おとといの夜だ」
「その日の食事は?」
「パンと、干し肉のスープだ」
「水は? どこの井戸の水を使った?」
「はあ? 水なんて、そこの共同井戸に決まってるだろう」
男は怪訝そうに答える。
俺は地図上の該当箇所――『東3番地区・共同井戸』に印をつけた。
「家族で発症したのは彼女だけか?」
「ああ。俺と息子は今のところ平気だ」
「彼女だけが口にしたものはないか? あるいは、彼女だけが行った場所は?」
「……そういえば、あいつは信心深いからな。帰りに『水汲み場』で祈ってから、水を一杯飲むのが日課だったが……」
俺の手が止まる。
「水汲み場」で、生の水を、そのまま一杯。
「……協力感謝する。この浄化ポーションを使ってくれ。ただし、家の中の食器や布はすべて煮沸――熱湯で洗うんだ。いいな?」
俺は予備のポーションを一本渡し、その場を離れた。
「アレンさん、どう? 何か分かった?」
リリアが心配そうに覗き込んでくる。
俺は地図に小さく『×』印を書き込んだ。
「まだ断定はできない。サンプル数が足りないんだ」
俺たちはその後も、何十軒もの家を回り続けた。
患者がいる家、家族全員が死に絶えた家、そして奇妙なことに「誰も発症していない家」。
そのすべてを、感情を排してデータ化していく。
「お前さんたち、何をしてるんだい?」
ある長屋の前で、老婆に声をかけられた。
周りの家が軒並み倒れている中、この老婆だけはピンピンしており、軒先で編み物をしている。
「お婆さん、体調は悪くないんですか?」
「ああ。周りはみんな腹を下して寝込んじまったけどねぇ。アタシは昔から胃腸が丈夫なのさ」
「……普段、水はどうしていますか?」
「水? そのまま飲むとお腹が冷えるからねぇ。アタシはいつだって、茶葉をたっぷり入れて、グラグラに煮出したお茶しか飲まないよ」
煮出したお茶。
俺の脳内で、パズルのピースがカチリと嵌った音がした。
「ありがとう、お婆さん。その習慣が、あなたの命を救ったんですよ」
「はあ? 変な子だねぇ」
俺は老婆に頭を下げ、地図に大きく『○』印をつけた。
煮沸消毒。
この世界に細菌の知識はないが、経験則として「火を通した水は安全」だと知っている者は助かっている。
これは、空気感染(ミアズマ説)では説明がつかない。
やはり、経口感染だ。
夕暮れが近づく頃、俺の手元の地図は、無数の『×』印で埋め尽くされていた。
「……見えてきたぞ」
俺は路地裏の木箱に地図を広げ、二人を呼んだ。
「リリア、シェリー。これを見てくれ」
二人が地図を覗き込む。
そこには、ある恐ろしい「法則」が描かれていた。
黒いインクで記された『×』印(患者の発生場所)は、王都の下町全体に散らばっているように見える。
だが、よく見ると――
「あれ? ここ……すごく密集してない?」
リリアが地図の中央付近を指差した。
「そうじゃな。このあたりだけ、黒い点が重なって真っ黒になっておる」
シェリーも同意する。
その場所は、下層区の広場周辺。
「これが『疫学調査』だ」
俺は静かに告げた。
前世のロンドンで、医師ジョン・スノウがコレラの感染源を突き止めた伝説の手法。
病原体が見えなくても、被害者の分布を見れば、発生源は特定できる。
「被害は、この広場を中心に同心円状に広がっている。そして、ここから離れれば離れるほど、被害は減っていく。……ただし、例外がある」
俺は地図の端にある、一つの『×』印の塊を指した。
そこは広場からかなり離れた場所にある孤児院だった。
「ここは広場から遠い。なのに、なぜ集団感染したと思う?」
「……なぜだ? 近くに別の井戸もあるはずじゃが」
「聞き込みで分かったんだ。この孤児院の院長は、広場の近くにある『美味しい水』をわざわざ汲んで、子供たちに飲ませていたんだよ」
沈黙が落ちた。
「美味しい水」。
冷たくて、澄んでいて、喉越しが良い水。
それが、死を運んでいたのだ。
俺は地図の中心にある一点を、ペン先で強く叩いた。
「犯人は、こいつだ」
そこには、『中央広場・共同ポンプ井戸』と記されていた。
俺たちは直ちに中央広場へと向かった。
そこは下町の生活の中心地であり、多くの人々が集まっていた。
「水だ! 水をくれ!」
「喉が渇いて死にそうだ……!」
皮肉なことに、脱水症状に苦しむ人々が、命を繋ぐためにその井戸に群がっていた。
彼らは知らないのだ。
その水こそが、自分たちを殺している元凶だということを。
「ああっ! 待て、飲むな!!」
俺は思わず叫び、井戸へ駆け寄ろうとした。
だが、その前に立ちはだかる集団がいた。
黒いローブを纏い、奇妙な杖を持った男たち。
先ほど検問所で見かけた「救済の教団」だ。
「何奴だ! 神聖なる水場を騒がすとは!」
司祭らしき男が、俺たちを睨みつける。
井戸の横には祭壇が組まれ、教団員たちが井戸から汲み上げた水を、小さな小瓶に詰め替えていた。
「……まさか、その井戸水を『聖水』として売っているのか?」
俺の声が低くなるのを自分でも感じた。
「いかにも。この井戸は、我らが教祖様が清めた奇跡の泉。この水を飲み、祈りを捧げれば、病魔など恐れるに足りん!」
司祭が得意げに叫ぶと、周りの信者たちが「おお、ありがたや……」と涙を流して水を求めた。
最悪だ。
汚染源の水を、さらに「聖水」というブランドをつけて拡散させている。
これでは、感染爆発が止まるはずがない。
「その水は毒だ! 今すぐ汲み上げを中止しろ!」
俺は警告したが、司祭は鼻で笑った。
「毒だと? バカなことを。見ろ、こんなに透き通っているではないか」
彼はコップに水を汲み、掲げてみせた。
確かに、見た目は無色透明だ。
下水の混入といっても、泥水がそのまま入っているわけではない。
土壌で濾過され、一見きれいに見える水の中にこそ、億単位の菌が潜んでいる。
「無知とは罪だな……」
俺はバインダーをリリアに預け、前に出た。
「貴様こそ何者だ! 科学者風情が、神の奇跡にケチをつける気か!」
「アレン・クロフォード。錬金術師だ」
俺は懐から、「携帯型顕微鏡」を取り出した。
真鍮製の筒に、高精度のレンズを何枚も組み合わせた、俺の特製品だ。
「その水が綺麗かどうか、神様の代わりに俺が判定してやる」
「な、何を……」
俺は司祭の手からコップをひったくると、スポイトで一滴吸い上げ、スライドガラスに垂らした。
そして、顕微鏡のステージにセットする。
「リリア、光源魔法を頼む。最大光量で」
「任せて!」
リリアが指先に強烈な光を灯し、顕微鏡の下から照らす。
俺はレンズを覗き込み、ピントを合わせた。
そこに映っていたのは、予想通りの地獄絵図だった。
コンマ数ミリの世界で、無数の「コンマ状の菌」が、おびただしい数で蠢いている。
「……ビンゴだ。コレラ菌もどきが、パーティを開いてやがる」
俺は顔を上げ、司祭、そして周りを取り囲む住民たちを見回した。
言葉だけでは伝わらない。
この世界の人々に「菌」を理解させるには、視覚的なインパクトが必要だ。
「見ろ。これが『聖水』の正体だ」
俺は錬金術を発動し、顕微鏡の映像を空中に投影した。
光の魔法とレンズの屈折を利用した、簡易的な映写機だ。
夕闇の広場に、巨大な光の円が浮かび上がる。
その中には、細長い虫のようなものが、うじゃうじゃと高速で動き回る様子が映し出された。
「ひっ……!?」
「な、なんだあれは!?」
「水の中に、蟲がいるぞ!?」
悲鳴が上がる。
コップの水を飲もうとしていた男が、青ざめてコップを取り落とした。
「これが、お前たちが飲んでいる水の中身だ。透明に見えても、中には何億という『死に神』がいる」
俺は司祭に向き直り、冷たく言い放った。
「これをまだ『清めた』と言い張るつもりか?」
「そ、そんな……まさか……これは幻術だ! 悪魔の幻覚だ!」
司祭は後ずさりながら喚くが、その表情には明らかな動揺が見えた。
住民たちの視線が、恐怖と疑念に変わっていく。
だが、これだけでは終わらない。
原因を特定しても、水を止めなければ意味がないのだ。
俺は井戸のポンプに手をかけた。
「リリア、シェリー。暴動が起きるかもしれない。背中は任せた」
「了解! 誰一人指一本触れさせないよ!」
「ふん、民を惑わす輩になど容赦はせぬ」
二人が武器を構え、俺の左右を固める。
俺は深呼吸をし、錬金術の構成式を練り上げた。
まずは、この蛇口を止める。
物理的に、二度と水が出ないように。
「構造分解」
俺の手のひらが青白く光った。
次の瞬間、鋳鉄製の頑丈なポンプの取っ手が、飴細工のように捻じ切れ、ボロリと地面に落ちた。
ガシャン!
乾いた金属音が広場に響き渡る。
水を求める人々、そして教団員たちが、一斉に息を呑んだ。
「あ……ああ……!」
「何をするんだ!!」
「俺たちの水を!!」
予想通りの怒号が飛ぶ。
だが、俺は退かない。
「この井戸は封鎖する。ここにあるのは水じゃない。毒だ」
俺は壊れたポンプの上に立ち、殺気立つ群衆を見下ろした。
ここからが正念場だ。
水を奪った悪魔として石を投げられるか、それとも救世主として認められるか。
代わりの水を用意するまでの数時間、この場を制圧し続けなければならない。
「代わりの水は、俺が作る! それまで一滴たりとも、ここから飲むことは許さん!」
俺の宣言が、夜の王都に響き渡った。
(第91話 完)
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