第五章1
藤林が知る史実では、張鼓峰事件の後も小規模の武力衝突が頻発することが続き、ずるずるとなし崩し的に相互が戦力の逐次投入をする形であの一大戦闘へと至ったという認識であった。
しかし、日々現地から挙げられてくる報告を確認するかぎり、満州軍とモンゴル軍の小競り合いはあれども関東軍とソ連の直接的戦闘は、想定していたより数も規模も小さく、目論見通りの展開になるのか不安に駆られるものがあった。
ことさら、石原には徒な挑発と偶発的な戦線拡大は厳に禁じてはいる。
ただそれだけでも影響があったのは間違いない。
だがそれ以上にソ連側も、あまりにも抑制の効いた規律的な軍行動を見せられているのが不気味であった。
(守勢体制に徹したあまり、ソ連側の警戒を必要以上に高めたのか……?)
十分考えられる可能性であった。
史実と異なる日本側の戦力の充実、防衛に専念する姿勢を見てソ連が対応を変えるのはあり得ることである。
だが、日ソの緊張関係がもしノモンハン事変という形に至らなかった場合、よしんばそのまま互いにけん制し合う膠着状態になればいいが、最悪、史実以上の全面的戦争状態に突入することだけはさけたかった。
藤林の懊悩はここにきて頂点に達したといっていい。
限定的な挑発、史実にあったような関東軍からの示威的攻撃を部分的に許可することも考えはした。
だが、相互にノモンハンの平野に粛々と展開し対峙する、莫大なエネルギーの拮抗が決壊する恐怖に、下手な手出しをする勇気などなかった。
指示を出そうと決めた次の瞬間にはもう撤回し、またしばらくするとやはり何かをさせようと腰を浮かせることが続く。
精神的に追い詰められているのが傍目にも明らかであったのだろう、見かねた秘書官に休息をとるよう進言されたことすら。
……そんな藤林の命を削るような祈りが天に届いたのか。
1939年春、雪解けとともに完成したソ連軍の戦列と対峙する日本の防衛線は、多少の違いはあれどもほぼ史実と同じ状態となったのであった。
歴史的に「第二次ノモンハン事件」として知られる、ソ連軍の機械化部隊による日本軍への突破包囲攻撃が行われた、日ソ最大の軍事衝突事件。
『あのノモンハン』が経緯は違えども、結果的にはほぼ再現されたのである。
「始まったようですっ!」
秘書官が電報を手に走り込みながら叫んだ言葉に、ぎゅっと心臓が締め付けられた。
藤林はもう何もかもが己の手を離れて、事態が進み始めたことを知った。
(なんとか。何とか被害を抑えてくれ……っ)
指を組んで合わせた手に、額を押し付ける。
固く目をつぶったまま、祈るように。
できることはすべてやった。
完璧とは言わないが、ソ連のT26とBT戦車の装甲に負けぬだけの歩兵用対戦車砲と新世代戦車も可能な限り配備した。
航空機も対シナ向けとして配備されていたものをほぼすべて満州に置き、突貫で開発させた新鋭機も僅かの数だが間に合った。
現地の石原から要求された通りに対ソ兵器向けに強化したピアノ線や地雷も開発完了と共に作れるだけ作って送った。
さらには参謀本部の小畑が主体となってまとめた人員配備計画に従って、特に経験と実績に基づく精鋭を用意した。
……日中戦争を避けることができた、今の日本にできるすべてをやったつもりではある。
だがそれでもソ連は脅威であろう。
勝つことがムリなのは当然として、一方的に蹂躙されることすらありうるはず。
せめて史実よりも被害を抑えて日本軍の損耗を避けることが第一であった。
さらには中国の代わりにソ連とずるずると泥沼の消耗戦になることだけは避けたい。
徹底的な守勢防御対応で敵戦意をくじき、早期の停戦に持ち込む。
あの男は負けぬようにはできるかもしれぬといったのだから。
今はその言葉を信じるしかあるまいと、祈ることしかできなかった。
だが藤林は完全に見誤っていたのである。
己がすべてを託した相手、石原莞爾の天性を。




