第五章2
石原にとっても誤算はあった。
我が国の航空戦力、特に操縦者の技量はあのソ連を相手にして並び立つどころか、はっきりと凌駕している。
機体性能差というのがどれほどあるのか、石原はよくわからない。
だがひらりひらりと舞うように敵機を翻弄して撃ち落としていく動きは、恐らく機体自体ではなく操縦技量によるところが大きいように見える。
何故か硬直的で直線的な相手のぎこちなさとはまるで対照的なもの。
もうはっきりと制空権を奪取しつつあるのは明らかだった。
(とても欧州列国に敵う水準には追い付いていないと思っていたが。これは……我が国の航空部隊を酷く侮っていたようだ)
そして誤算はそれだけではない。
この戦場自体、大前提となる状況こそが全くの想定外で非常識なものなのだから。
およそ二年。
それだけの期間、相手の戦法と布陣、戦力がわかった状態で準備をすることができる。
馬鹿馬鹿しいくらいにありえない戦場であった。
だがそれくらいでなければ、まず間違いなく一方的に蹂躙されて大きな損失を受けて敗北していただろうこともまた事実である。
もちろん延々と諜報部隊に特務機関、斥候、あらゆる手段での情報分析は行った。
僅かでも前提となるものが違っていないか、都度調整や修正、あるいは抜本的な放棄再構築も含めて検討するために。
だが結果としては、齎されたものがほぼ正しいことが逐次証明されていくだけであった。
つまりは、未来予知としか解釈できない状況がそのまま現実化したのである。
「これぞ妙法とでも? ……はっ」
自嘲するような乾いた笑いが漏れ出た。
そしてその荒唐無稽さというのがどれほどのものか、戦場に於いてどれほどの意味をもつものか、あの男はこれっぽっちも理解していなかったに違いない。
永田鉄山。
かつて満州事変を画策した際に、己を表に立たせて一切の功績を持たせた男。
当時からそうして自分を利用する心づもりなのは心得てはいた。
華を持たせるとは言いよう、ようは不都合があったときに一切合切の責任を負わせる、人身御供のつもりだったのは明らかだった。
永田という人間は徹頭徹尾、目的のためなら手段を択ばない政治的な人間だというのは、石原なりの人間観で完璧に把握されてはいたのだ。
しかしどうせ失敗するつもりもなかったから、こちらはこちらの思惑で利用してやろうと組んだだけである。
あの男も本音では同意見であっただろうに、あたかも不承不承、こちらが無理矢理勝手にやったかのようにしらばっくれて、惚けた態度に終始していた狡猾で巧妙な様に、呆れるよりもむしろ感心させられたくらいなのだ。
すべては満州という国家戦略でのまさに橋頭保にして生命線となる地を奪取するため。
その目的を共有できたからこそ、互いに利用しあえる関係になることができた。
石原と永田はそれ以上でも以下でもなかった。
互いに方向性は違うと云えども、利益のために現実的妥協をするリアリズムを持つことでは全く同じという。
ただそれだけの共通性でつながった仲であった。
そしてそのつかず離れずの同盟関係というのは上手く機能していたはずだったのだが。
(……やはりあの時からか)
皇道派将校に白昼切りつけられる事件があった直後。
久方ぶりに相対したあの男は明らかにそれまでと違っていた。
あれほどあった、狡猾なまでの目的達成への意欲、使えるものなら敵でさえ利用せんとする徹底した合理性に基づく鬼気迫る迫力めいたものが消え失せていたのだ。
腑抜けたかと。
最初はそう思った。
直接的な殺意と暴力を己に向けられる、初めて経験する命の危機に。
恐らくあの碌に戦場も知らぬであろう、軍政畑の男は弱弱しく日和って駄目になったに違いないと。
一目見てそう思ったのだが。
それから始まった、明らかに必死で虚勢を張る余裕もない風情で展開する己との交渉。
決して弁舌鋭く、圧倒するようなものではない。
かつての怖さ、強さはまるで感じない。
だがそれらとは異なる別のものが溢れていた。
あの身を乗り出すような悲壮感。
まるで自分が提唱した最終戦争の結末を見てきたかのような。
直截で切実な怯えと迫真。
不器用なほどの真っすぐな言葉。
国家を想う赤心。
何より、その道理は明らかで非の付け所のない内容。
それまでの主張を鑑みれば変節としか言いようがないにもかかわらず、自分もまた飲み込まざるをえなかった回天の一策。
資源問題と国土防衛を同時に解決しうる、最適解としか言いようがないもの。
石原はそれから、この新たな永田鉄山とずるずると関わり合いになることになってしまったのだ。
何故かはわからない。
だが以前よりも、そう、『信じてもいい』ものがあったのかもしれない。
だから。
このあり得ぬ前提、あたかも遥か未来から見通していたようなあの男の言葉とその内容をすべて受け入れて乗ってやろうと思ったのだ。
「ど素人が……」
もはや負けることはないと確信していた。
あの男は結局最後まで何とか大敗しなければいい、あわよくば対等に持ち込んでくれれば御の字だと言わんばかりの態度であったのだが。
すでに負けることはおろか、それ以上の可能性まではっきりと己の中の冷徹な理性が現実的な判断として見通しつつある。
「さて……と」
コフコフと喉がなるのに合わせて片手を口元に宛がった。
はっきりと赤く染まっているのを、気にした風もなくグイっと軍服の端でふき取る。
まず使う可能性は低いだろうと待機させていた、あの男肝いりの空挺部隊とやらを想う。
こんなもの一体何に使えるのかと思ったが、『好きに運用してみてくれ』と無責任に言い放つあの面構えには恐れ入ったものだった。
そして今、自分の脳裏にははっきりとその使い方が明確なイメージとして浮かび上がっている。
ああ、そういうことかと、納得するような心持でさえあった。
石原は如何に圧倒し殲滅しうるかと、効率的に勝つための思考へと己の頭脳を切り替えつつあった。




