二人の逃避行
海の底をずっと漂っているような気分だった。心地がいいけれど、でも寂しくて、ふとした瞬間に苦しくなって。ここが死んだあとの世界なのだろうかと思っていたとき、私を呼ぶ声が聞こえた。
『リディア』
とてもよく知っている声。何度も返事をしようとするのに、声が出ない。どこを見ても、私を呼ぶその人の姿は見えなくて、焦りばかりが募っていく。私はずっとこのままなのだろうか。誰かも思い出せないまま、永遠にこの場所を漂っているだけなの?
──殺したい。
頭の中に響いてくるその声は、私を呼ぶ声とはまた違っていた。幼い子どものような声。殺したい、殺したいと訴えてくる切なさは悲痛で心が痛くなる。
「どうして、そんなに殺したいの?」
──わからない。でも殺したい。
「それじゃあ誰も幸せになれない」
──誰が幸せになるの。
誰が。そう聞かれて答えられなかった。私は生きてるのか死んでるのかもわからない。けれどもただひとつ言えるのは、この子はきっと幸せになるべき人なのだ。
「もう殺さなくていいの」
私は転生してきたことを、思い出話のように聞かせた。長い夢を見ているようで、けれども本当にあったのだと、そう実感できるような時間。
──それじゃあ、まずはあなたが幸せになって。
「私が? あなたは?」
──いつか、いつか、許された日がきたら。
その声はだんだん遠ざかっていくように感じた。次第に、あれは呪いの剣だったのではないかと気付く。殺すことに執着し、ただ人の命を奪うことだけを生き甲斐にしていた。
「許される、その日まで、また」
最後にそう告げたとき、もう一度「リディア」と呼ぶ優しい声が聞こえた。ああ、もう大丈夫。なんだかそんな気がして、返事をしようとすれば、勢い良く体が浮上するような感覚を覚えた。
──幸せに。
「……ええ、幸せに」
大丈夫、あなたも、私も。そしてきっと、これから会う人も。
私たちはきっと幸せになれる。そう信じて生きていこう。それが許されるのであれば。
「……アーサー」
目を覚ましたとき、思わず口をついて出ていた言葉を、張本人に聞かれていたことに気付く。
私の目の前にはアーサーがいて、その顔は驚きに満ちていて、やがて悲しんでいるのか、笑っているのか、複雑な顔へと変わっていく。
「リディア……俺がわかる?」
「もちろん、アーサーでしょう」
そう微笑んだら、思いっきりアーサーに抱きしめられた。
「もう起きないかと思ったんだ……ここにいても、ずっと」
「……アーサーが私のことを呼び続けてくれたから」
あの声はアーサーだった。今ならハッキリとわかるのに、どうしてあのときはわからなかったのだろう。
アーサーから、私は一年眠り続けていたことを聞かされ、そして私が転生してきたことをゆっくりと話していった。
「そんな話が本当にあるのか信じられないけど、でも、そうなんだろう?」
「私の話を信じてくれるのなら」
「……眠っている君にずっと聞きたかったんだ。本当は、リディアと呼ばないほうがいいんじゃないかって」
そう聞かれ、思わずくすりと笑ってしまった。
「この世界の私はリディアで、アーサーにそう呼んでもらえることが嬉しいの。だからそのままで」
ずっとリディアに憧れていた。そんな彼女になれたことが今では夢のようで、そして今、アーサーと殺し合わなくてもいい世界にいられていることが幸せだった。
「俺の計画は、全部知っていたんだよね?」
「本に書かれていた内容なら。一応聞くけど、その計画は今も……?」
「続いていない、本当だよ。あとでわかることだと思うけど、リディアの国と俺の国は同盟を組むことになったんだ。戦争も今は落ち着いた」
「……そっか」
私が望んでいた結末だ。みんなが幸せになり、ハッピーエンドを迎える世界。
「ねえ、リディア」
アーサーの手が、私の両頬をそっと包んだ。
「キスをしてもいい?」
「……それは、剣と関係があるもの?」
からかうように訊ねると、アーサーは口角を上げて首を左右に振った。
「ただ俺がリディアとキスをしたいだけ。ダメ?」
「ダメな理由なんてない」
意思表示をするように、アーサーの首に手を回す。彼との距離が縮まると、サラサラとした前髪が額に触れて、それから唇が重なる。
「……ずっと、こうしたかった」
その声に頷きかけたとき、遠くから「リディアお嬢様はまだ目覚められていないんです!」というばあやの声が聞こえてくる。
「大丈夫だ! 僕の声を聞けばきっとリディアは目覚めてくれる!」
あれはオスカーだ。きっととても厄介なことになる。
「リディア、逃げよう」
「えっ、ちょっとアーサー!?」
突然抱きかかえられ、窓へと向かう。その間にもノック音が響き渡るけど。
「いくよ」
アーサーは躊躇うことなく私を抱えて外へと飛び降りる。とはいえ一階なのだけど。
「お、おいッ!? なんだお前は! どうして僕よりもお前が入室を許可されているんだ! しかもリディアを攫って……ッ!」
「面倒なことになったみたいだ」
肩を竦めるアーサーに、今度は私からキスをする。驚く彼に、伝えていなかった言葉を口にする。
「好き、アーサー」
「……ああ、俺もだよ」
優しくて、眩しい笑みとともに、今度は二人の逃避行が始まるのだった。




