二番目の継承者
北の地にも、刻一刻と春は訪れようとしている。
街を囲っていた雪は高さを下げ、日が差せば仄かな温もりを感じるようになってきた。
今も王都に積もる雪が消えるころ、レグルスの十一回目の誕生日が来る。
それを前に、レグルスは国王の呼び出しを受け、王宮を訪れた。
馬車を降りるレグルスを、シェリオンが出迎えた。レグルスは兄を見つけるなり、顔を綻ばせる。
「兄様!」
飛びつく弟に、シェリオンも表情を緩めた。頭を撫でてやる。
「俺としては嬉しい限りだけど、行儀作法の授業は何のために受けているのかな?」
「あうっ……だって、馬車にひとりぼっちはつまんなかったのです」
渋々兄から離れて、身形を整える。そして姿勢を正す。
シェリオンが一つ頷いて、レグルスを連れて歩き出した。
向かう先をレグルスは知らない。彼の記憶を辿ればある程度予測は付くだろうが、少なくとも、今のレグルスが知らない廊下を通っている。
(執務室じゃないです。謁見の間でもないですし…後宮の方?でもそれだと、兄様は入れないですし……)
ぽやっとした顔のまま考えを巡らせているが、兄はどんどん奥へと進んでいく。やがて王族の居住区域までやって来た。もう少し進めば、後宮に繋がる廊下へと出る。
さすがにそこまでは行かず、シェリオンは近衛の立つ扉の前で止まった。
シェリオンの姿を確認した近衛たちが、中へ取次の声をかける。返事があって、大きく扉が開かれた。
「どうぞ」
シェリオンがレグルスを促す。呼ばれたのはレグルスだ。
恐る恐る前に出て、中を見て、暫し固まった。
おもむろに右の扉を閉めた。それから左の扉も閉める。くるりと扉に背を向けたら、一目散に逃げだす。
「レグルス!?待ちなさい!!」
「嫌ですぅ~!嫌な予感しかしません~!!」
「誰かその子を捕まえて!!」
二人の声が遠ざかっていく。
室内では国王が爆笑していた。レグルスの父・グランフェルノ公爵も苦笑いだ。他もほぼ似たような反応だ。
その中で一人憤る男がいた。
「ふんっ、怖気づくとは情けない!」
「聡い子じゃ。何でもかんでも闇雲に突っ込もうとする、お前とは大違いじゃな」
一番高齢の老人が、背後に立つ大柄の男の言葉を一蹴する。大柄の男は流石に顔を強張らせた。
座る面々の中で一番年若い青年は、控えめに笑う。
「普通なら固まって、そのまま動けなくなってしまうと思います。ああやって逃げ出してしまえるのは、さすがグランフェルノ家の若様といったところでしょうか」
「少し甘やかし過ぎたか……」
「それくらいで丁度いいじゃろう。今はな、まだな」
グランフェルノ公爵の呟きに、老人は目を細める。
グランフェルノ公爵は老人に向かって軽く頭を下げた。
国王による【グランフェルノ公爵家末子の捕獲】命令が騎士団を含め、各所に伝えられたのは、それから三十分後の事である。
青銀色の髪が動きに沿って軽やかに舞う。
「いたぞー!」
王宮内に人々の声が響く。
「何で屋根の上!?」
「お願いだから降りてー!!」
地上から悲鳴が上がる中、長い髪を靡かせる少年は必死で屋根から屋根へと渡っていく。
あまりに慣れた様子に、隠密を得意とする第四の騎士団・黒烏騎士団の団員たちでさえ追いつけない。
レグルスは小柄な体格を生かして、大人たちの手から逃げていく。その周りには小さな光の粒がくるくると回っている。
けれどとうとう屋根の終わりが見えてきた。追い詰めたと思ったのは大人たちだけだ。
レグルスは何の躊躇いもなく、屋根から飛んだ。悲鳴と怒号が上がる。
慌てて屋根上部隊が地上を見るが、そこに青銀の煌きはない。
「「「また転移しやがったー!!」」」
遠くの地上をすらこらとレグルスは逃げていく。
その声を遠くに聞きながら、グランフェルノ公爵は眉間の皺を深くした。
かっかっと老人が笑う。
「ああ、愉快愉快。大の大人が、あんな幼子に振り回されて…ああ、涙が出てきおったわ」
「父上、笑い事ではありません」
大柄な男が険しい顔で言う。しかし老人はどこ吹く風だ。
「そうさな。少々鍛え方が足りぬのではないか?近衛師団をはじめとして」
「父上……」
男の声が弱くなる。部屋の隅に控えていたココノエ侯爵も耳が痛いようで、そっと視線を逸らす。
かつて軍務卿として軍部を纏め上げた老人は、笑い過ぎて目に浮かんだ涙を拭う。
「しかし、このままでは話が進まんの。どうするね?」
「家人を呼んであります。そろそろ来る頃だと思うのですが……」
「それであの猿…んっ失礼!ご子息が捕まりますかな?」
大男が不審そうに公爵に訊ねる。
グランフェルノ公爵は肘掛けに頬杖を突く。
「…問題ない…………多分」
「多分」
随分弱気な筆頭貴族に、室内が再び沈黙した。
シェリオンは再び入った弟の消息消失の報に、指先で額を押さえた。
宮廷魔導士たちが行く先を探索の魔法で調べ出す。
「今度は外務省の庭園ですね~」
「外務省の庭園を封鎖!」
「騎士、間に合いませんっ」
「職員と衛士師団を動員しろ!相手は子供だ。攻撃はない!!」
「…転移されると面倒なんで、魔力阻害の結界も作動させますよっと」
事態がだんだん大事になっていく…シェリオンは溜息を吐いた。
若い魔導士が宙に浮かぶ王宮の見取り図を眺めながら、今までの逃走経路をなぞっていく。
「いやぁ、弟様は実に要領よく、逃げておられますねぇ」
「褒めるところじゃないっ……」
「だってホラ、もうすぐ王宮の外壁ですよ?逃げたのは陽宮からでしょう?あっちこっちへ無差別に飛んでいるようで、最後の逃げ道をうまく作られてます」
シェリオンが見取り図に目を向ければ、確かに、捕獲の主力となる騎士たちを遠くへ誘いつつ、退路を確保してある。
それというのも、転移魔法を封じた魔具があってこその事だが。
「家に帰ったら、あの魔具は取り上げる……!」
「…取り上げるだけでは駄目だと思いますけどね」
シェリオンは眉を寄せ、魔導士を見た。
魔導士は「ホラ」と、ある場所を指してみせる。
「ここ。暫く見つからなかった地点なんですけど、転移を使った形跡はないんですよ」
けれど消失地点から出現地点まで、随分離れている。間には建物はあるが通路はない。
シェリオンは顎に手を当て、それからはっとした。
「隠し通路!?何で知ってるんだ、あの子が!!」
「ですよねぇ…」
魔導士も乾いた笑いを零す。そして愕然としたままのシェリオンに訊ねる。
「外務省には外に通じる隠し通路とか…ありませんよねぇ……?」
我に返ったシェリオンはさっと通信用の魔具を取る。通信先は勿論父公爵たちのいるあの部屋だ。
「父上!すぐに確認して頂きたいことが!!」
シェリオンの問いに返ってきた言葉は、最悪の事態を予想させるものだった。
レグルスは茂みの中に身を潜めていた。
「うぅ…お城の皆が大人げないのです……」
涙さえもう出ない。
宮廷魔導士に探索され、先程から魔具も反応しなくなった。魔法を完全に封じる結界が発動されたのだろう。王宮内に幾つかある非常用結界装置だ。
完全に極悪人扱いである。
けれどレグルスはめげない。ズルズルと茂みを這って進み、辺りに人気が無い事を確認してひょこりと顔を出した。
遠くから人の声は聞こえるが、ここまではやってきていないようだ。ほっと息を吐いて、茂みから出る。
此処まで来れば、彼の記憶にあった王宮の外に続く隠し通路までもうすぐだ。百年以上前の記憶だが、隠し通路の歴史は千年以上だ。多分あるだろう。
建物から離れた場所にある、古井戸。木立に隠されて忘れられたような井戸の脇に隠し階段がある。
レグルスは井戸の周りをぐるりと回った。井戸を作る石組に一つだけ、王家の紋が彫られている。風雨にさらされても尚残るそれは、たとえ魔法が使えない状態になっても発動する特殊な魔法の仕掛けだ。
その石に触れようとした時だった。
ヒヤリとした冷気にも似た何かを、レグルスは機敏に感じ取った。慌てて振り返るが、誰もいないし、何もない。けれど本能に似た何かが警鐘を鳴らしている。
レグルスはゆっくりと立ち上がる。服の下に隠した短剣に触れるが、とても敵う気がしない。パッと茂みに向かって走り出す。
「姿の見えない敵の存在を察知する。お見事です。相手との力の差を瞬間的に判断する能力も。ですが……」
聞き慣れた声に、レグルスは身を竦めた。足を踏ん張ってその場に踏みとどまると、急な方向転換をする。
「まだまだ甘いネ~」
「ふぉ!?」
足元を白い何かが掠めた。バランスを崩して転びそうになる。だが、レグルスもこの数カ月何もしてこなかったわけではない。特に『逃げる』ことに関しては、グランフェルノ家の騎士たちに鬼のように仕込まれた。
無様に転ぶのではない。転がって再び体勢を整える。
相手もそれを予想していたのだろう。ヒュッと音を立てて、レグルスの足元に刺さったのは細い針のようなもの。
レグルスの全身が粟立つ。同時にプツンと、レグルスの中で何かが音を立てて切れた。
「ふぇ…ひっ……」
大きな目から零れるのは大量の涙。レグルスはそれを拭う事もせず、その場に立ち尽くす。
「ひっく…もおやだぁ!おうちにかえるのですー!!」
「ああぁぁあ!やり過ぎました。申し訳ございません!!」
木陰から出てきたのはレグルスの側付であるマリスだ。レグルスの前に膝をつく。
シュルリと黒い筋の入った白蛇も現れる。レグルスの体を伝って肩に乗る。
「おチビちゃん泣かないで。ゴメンネ~。主が何としてでも捕まえて来いっていうから……」
「やだぁ!かえるー!!」
「おチビちゃ~ん……」
わあわあと大声で泣くレグルスに、人が集まってくる。
仕方なくマリスはレグルスを横抱きに抱き上げた。
「レグルス様。あんまり泣くと、目玉が溶けて流れてしまいますよ」
「だってっ…だってぇ!」
「はいはい。今回はこのマリスが全て悪うございます。ですがまずは、何故お逃げになられたのです?」
ピタッとレグルスの声が止んだ。まだぐずってはいるが、耳を劈く声が消える。
よいしょと、マリスはレグルスを抱えなおす。
「今日の晩餐は、レグルス様が以前美味しいと仰っておられたローストビーフです」
突然全く関係のない事を言い出したマリスに、レグルスは顔を上げる。
「ろーすとびーふ…おいももいっしょ……」
「勿論。マッシュポテトもお付けしますし、レグルス様のお好きな温野菜のサラダに、料理長特製のディップソースも付けていただきましょう」
「もぉ、おうちかえる…かえってたべる……」
「まだ晩餐には早い時間ですよ。その前に嫌なことは全て済ませてしまいましょうね」
レグルスの顔が再び歪む。その頬に白蛇がすり寄る
「仕方ないネェ。おチビちゃん、主がおチビちゃんに望まない事をするというなら、今回だけ助けてあげるヨ」
「ふぉん…」
「お家に連れて帰ってあげるからネ~」
白蛇は目を細め、頭をレグルスの頬に擦り付ける。長い体をくるりとレグルスの首に回す。
「捕まりましたか!?」
走って来たのは、近衛師団だ。すっかり息を切らしている。
マリスは表情を消した。
「このまま陛下の下へお連れすることは出来ません。身を整え直したいのですが?」
「はっ!侍従長より王子宮へお連れするよう、仰せつかっております」
逃げ回ってすっかり泥だらけだ。髪にも埃や葉が絡まっている。
白蛇が器用に口で葉を咥えて落としている。
それを不気味そうに眺めつつも、近衛は口にせずに彼らを案内した。
王子宮前にはグランフェルノ家の二人の子供たちが待ち構えていた。
「レグルス」
ピリッとした長兄の声音に、レグルスが身を竦める。マリスにしがみ付く。
マリスはレグルスを抱えたままなので礼を取ることができず、僅かに視線を伏せて代わりとした。
「まずはお着換えをさせて頂きたいのですが?」
マリスがシェリオンを牽制する。シェリオンの目が険しくなったが、ポンッと弟に肩を叩かれて何も言わなかった。
救出直後に使っていた一室に通される。まずは湯あみをと、浴室へ連れて行かれた。
何故か王子宮の侍女たちがやる気満々だったが、マリスがやんわりと断った。レグルスの首に巻き付く蛇が威嚇したのも効いたのだろう。
マリスが髪と体を手早く洗っている間、レグルスは何故か桶に蛇を浸けて洗っていた。白蛇は気持ちよさげに目を細めて、されるがままだった。
服はあらかじめマリスが用意して、持参したものだ。
髪を整えられている間、レグルスは白蛇を拭いて、首に予備のリボンを巻いていた。
流石にマリスも呆れて、レグルスの膝で大人しくしているフォンに声をかけた。
「フォン、そろそろ…」
「おチビちゃんのやりたいように」
軽く尾を振ってマリスを止める。マリスは溜息一つで、口を閉ざした。
その後ろにはレグルスの兄二人が控えている。
「兄上。陛下と父上は何の用件だった?」
「まだこれからだ」
「話の前に逃げたの?」
ハーヴェイは目を瞠った。険しい様子を崩さない兄に、肩を竦める。
「『お家に帰る』んだってさ」
「え…?」
「レグルス。そう言って逃げてったって。赤燕の騎士が言ってた」
「…そう」
ハーヴェイは小さく笑って、席を立つ。そして鏡の前に座る弟の下へ行く。
「レグルス。俺はもう戻るよ」
「ヴィー兄様……」
「陛下に失礼のないようにな。フォンも」
軽くレグルスの頬を撫で、フォンの口を摘まむ。フォンは抗議のように尾を振ったが、ハーヴェイは笑いながら去っていった。
やがて支度が整うと、レグルスは椅子から降りた。表情は冴えない。マリスを見上げるが、彼は首を左右に振った。
「フォンは?」
「そのままお連れ下さい」
レグルスの首に巻き付いたフォンは、嬉しそうに顔を摺り寄せる。レグルスも僅かに顔を緩めた。
そんなレグルスの前にシェリオンが膝をつく。
「お前は、自分が何をしたか…本当に理解しているのか?」
レグルスが顔を強張らせる。何も言えずに顔を伏せる。
ずるりとフォンが動いた。
「若は、主たちがおチビちゃんに何をさせようとしているのか、知っているの?」
「黙っていろ」
「黙らないヨ。今回はおチビちゃんの味方をするって言っちゃったからネ~」
首にリボンを巻いたフォンは金色の眼を眇めた。
「それはおチビちゃんの望んでいること?おチビちゃんへ害のないこと?多分違うよネ。そうでなければ、おチビちゃんがここまで逃げることはないはずだもの」
「黙れ!」
「若はそんな事をさせたくて、おチビちゃんが帰ってきたことを喜んだの?」
「違う!だけど、仕方ないだろう!?」
「仕方ない、仕方ない。仕方ないって言葉一つで済まされちゃ、やられた方はたまったものじゃないんだヨ」
蛇の喉から空気の漏れる音がする。蛇の口角が吊り上げられた。
「若は何も知らないし、解ってない。おチビちゃんが家出するまで追い詰められた理由を、何も」
シェリオンが言葉に詰まる。
レグルスがのろりと顔を上げた。おもむろにフォンを掴む。
「ぐえ」
力加減を間違えたようで、蛇が大口を開けた。掴む手を緩め、フォンと視線を合わせる。
「陛下に会いに行きます……」
逃げて泣き喚いて疲れ切ったというより、全てを諦めたように力なく。呟いた声は今にも消えそうだ。
襟巻のようにフォンを巻いて、シェリオンを見上げる。
シェリオンが手を差し出すと、レグルスは迷わず握ってきた。ほっと安堵した兄の顔など知らないまま。
王子宮を出ると、既に日は傾きかけていた。
王宮に来たのは昼過ぎだった。レグルスは二時間近く逃げ回っていた。
―― このまま今日は終わりになってしまえばいいのに。
そんなレグルスの願いも空しく、先程の部屋まで続く廊下まで来てしまった。車止めからはかなりの距離があったが、王子宮からはそんなに離れていない場所だった。
また逃げ出したくなる衝動を抑え、レグルスは重い足を進めようとする。
その足が宙を掻いた。
「くくっ…よく逃げたなぁ」
「陛下!?」
いきなり抱え上げられ、レグルスは声もなく目を真ん丸にした。けれどいつものような無邪気な元気さはない。驚きが去ると、国王と目を合わせることもなく、俯いてしまう。
国王は困ったように微笑む。
「そんなに嫌か?」
レグルスは答えない。
国王はポンポンとレグルスの背を叩く。そして小さな笑い声をあげた。
「あぁ、懐かしいな。この感覚。ヴェルが小さい頃、やってやった以来か」
そう言ってレグルスをあやしながら、レグルスを抱えたまま歩きだす。
シェリオンは無言で後に続く。その肩を叩いたのはココノエ侯爵だ。少しばかり乱暴に頭を撫でられ、シェリオンはわざと怒った顔を作る。ココノエ侯爵は苦笑いを零した。
あの部屋まではあっという間だった。立っていた近衛兵がすかさず扉を開く。
「おお。稀代の脱走者のお出ましか」
老人が言った。長く待たされたというのに、全く気を害した様子はない。それどころか、降ろされたレグルスにおいでおいでと手招きする。
促され、レグルスは老人の前に立つ。老人が両手を伸ばしてきたので、その手の届くところまで来ると、わしゃわしゃと頭を掻きまわされた。せっかく整えた髪がぐしゃぐしゃにされる。
「よう逃げなさったな。実に痛快であったよ」
「…ごめんなさい……」
ポツリと呟くように言ったレグルスに、老人は首を傾げる。
「何故謝る?坊が逃げたのは当然。捕まえられなかったのは、騎士どもの不甲斐なさよ。坊との知恵比べに負けた、この国の守りの情けないことよな」
先ほどよりは幾分優しく、レグルスの頭を撫でる。
レグルスは無表情に老人を見つめていた。
老人は首を傾ける。
「坊は賢いのぅ。この場で何が告げられるか、もう知っておるのだろう?」
老人の言葉に、レグルスは小さく頷いた。逃げながら、何となく行きついていた。だから本格的に逃げた。
老人は微笑む。
「何の話をされるはずだったのか、言うてごらん?」
「…僕の、王位継承権のお話です……」
老人は満足げに頷いた。
けれどレグルスの目からポロリと涙が零れる。
「で、でもっ…僕は、それはっ、うけたくない……!」
「何故じゃ?」
ぽろぽろと零れる涙を、レグルスは袖で拭う。しゃくり上げながら、レグルスは答えた。
「だってっ!ぼく、にせものって…レグルスじゃないってっ、いわっ、いわれてる、のに…!!」
「うんうん。そうじゃのう。そんな根も葉もない噂があるの」
「万が一っていうけどっ。万が一が起こってしまったらっ、ぼく…偽者の僕がっ、王様になんてなれないしっ。おうちにもいられない……!!」
切れ切れの言葉だが、老人は頷きながら聞いてくれる。レグルスは老人を見上げた。
「僕、また父様や兄様に、いらないってされたらっ…父様にまた、偽物って言われたらっ!」
レグルスは膝から崩れ落ちた。そして老人の膝に縋りついて泣き始める。
老人の目が細められる。そして何度も頷いた。
「死ぬのが怖い、ではないのじゃな」
「僕、お家に帰りたかったのです。それだけで生きてきたのです…お家にいられないのなら、僕が生き延びた意味は、何だったのですか……?」
老人のしわがれた手がレグルスの頭を撫でる。
「坊は賢い子じゃな。うちの愚息にも見習わせたいほどじゃ…しかしな」
老人はレグルスの頬を撫で、顔を上げるように促した。すっかり光を失った虚ろな目が、老人を見る。
「なあ、坊や。そなたの父君が、そんな事を許すじゃろうか?王は?そんな事にも気付かないほど愚かか?」
レグルスは暫く老人と見つめた後、ゆっくりと首を左右に振る。
老人は笑みを深める。
「坊をそんな風に泣かせたくなくて、王や父君は動いておった。そしてようやく整った」
老人がレグルスの後ろへと視線を移す。つられてレグルスもそちらを見た。
そこにいたのは一人の騎士。金色の髪に青い瞳の、国王にとてもよく似た若い騎士だった。
騎士は膝をつく。
「お初お目にかかります、グランフェルノ家の若君。私はエウィルド街道騎士団のエイル・マランと申します」
「…騎士様……?」
少しぼんやりした様子で、レグルスは繰り返した。泣き過ぎて頭が回らないのか、じっと騎士を見つめる。
老人が笑う。
「騎士エイルはな、陛下の庶子じゃ」
「しょし……?」
「分かりやすく言うと、隠し子じゃな」
分かり易過ぎて、レグルスがきょとんとしてしまう。
老人は自分の縋るレグルスの手を取った。レグルスはよろけつつ立ち上がる。
「さ、後は何とかせい」
それはレグルスではなく、国王とグランフェルノ公爵に向けられたものだ。
振り返った我が子を、グランフェルノ公爵は隣に座るように促す。
レグルスは誘われるがまま父の座る長椅子に腰かけた。力なく父に寄りかかると、肩を支えられた。
国王も己の位置に戻っている。その後ろに控えるのは王太子だ。グランフェルノ公爵とレグルスの後ろにもシェリオンが立っている。
「レグルス。ここにいるのは王族の他は、四公爵とその跡継ぎだ」
「はい、父様」
老人がメイフェア公爵。メイフェア公爵の後ろに控えている大男は、継嗣で近衛師団長のカスパール。
父公爵と同じくらいの年頃なのがビクスビー公爵。けれど跡継ぎである筈のカーライルはいない。
一番年若いのがレオンハーティス公爵。二年前に結婚し、最近子供が生まれたばかりだから、彼も一人だけだ。
あとは国王の近衛騎士であるココノエ侯爵と、先程紹介された騎士エイル。
国王は一つ頷き、口を開いた。
「レグルス。王位継承権第二位は、このエイルに任せようと思っている」
「え…?」
「だが、エイルには後ろ盾がない。母は元男爵令嬢だが、疫病により断絶していてな」
男爵だった父をはじめとする家族、頼れる親戚も全て亡くなってしまい、女一人では継続が難しくなって爵位を王家に還したのだそうだ。
後ろ盾だけだったら、公爵家のどこかがなればいい。けれど、その為には公にしなければならない。
「それでは、王家を疎ましく思う者たちの恰好の的だ。恐らく、すぐに暗殺されて終わりだろう。そこまでは良いか?」
「はい」
「だからレグルス、そなたに目晦ましになって欲しい」
レグルスは小首を傾げる。
すっと父親の手が伸び、目元に残っていた涙を拭う。
「表向き、お前が第二継承権を持つ。三男とはいえ、グランフェルノ家の直系。おいそれと手を出すことは出来ない」
「…僕は、殺されない?」
「手を出そうとした時点で、返り討ちにしてくれる」
そう言って、父の手がレグルスの首に巻き付いていたものに触れた。白蛇がもぞりと動き、鎌首をもたげた。
「大丈夫ヨ~。おチビちゃんには、グランフェルノ家最強の護衛たちが付いてるからネ~」
「喋っ…!?」
近衛師団長が大きな声を出してしまい、慌てて口を両手で塞いでいた。座るメイフェア公爵に睨まれ、体を強張らせる。
グランフェルノ公爵は溜息を一つ吐き、フォンの口を指で摘まんで塞いだ。
「そういう事だ。けれどエイル殿は違う。発表された時点で狙われるだろう。それは後味が悪い」
レグルスがエイルを見た。エイルは目を伏せる。
そもそも、第二位が必要なのは、王太子が死ななければならない大前提だ。それまではグランフェルノ家と敵対するのは、愚策である。
レグルスの鈍っていた思考が戻ってくる。
「…王太子殿下は、死ぬのですか?」
「その予定はないが」
「なら、何故…スペアがいるのですか?」
「私を目障りと思う輩がいるからだな」
「クラルバーニュ大公?」
「と、その仲間たち」
王太子が冗談めかして言う。
けれどレグルスは悲しそうに顔を歪める。
ふっと王太子が笑う。
「死んでやるつもりはないし、この兄に次の王位を譲ってやる気もない」
「譲られても困ります」
エイルが素っ気なく言った。王太子が肩を竦める。
「これから国を治める術を教えるとなると、教育係はさぞ苦労するだろうな」
「覚える気もありませんし、教えていただくこともありません」
王太子に対して、エイルは酷く不敬な態度だ。兄とはいえ、認められていない妾腹であるのに。ただの騎士と思っている態度ではない。
レグルスがエイルを見、そして首を傾ける。
二人がこちらを見た。
「……エイル様は、僕をお家に帰してくれますか?」
エイルは目を見開いた。まじまじとレグルスを見つめる。
王太子がエイルの脇腹を小突く。エイルは僅かに顔を顰めた。
「私が貴方の陰に隠れることを許して下さるのなら」
「……僕の陰?」
「貴方の陰に隠れて危険をやり過ごそうとする私を、卑怯だと罵られますか?」
レグルスはきょとんとする。ぶんぶんと頭を左右に振る。
「逃げるのだって、戦略です。無暗に正面から挑む事が勇気ではありません」
あと一歩で逃げ切れなかったレグルスの言う事だ。重みが違う。
今のレグルスは色々と足りない。体力も、頭脳も、経験も。だから逃げる。かつて父が許してくれた通りに。
頭に重みが増した。隣りを見上げれば、父公爵が頭を撫でている。その間に白蛇がぬっと割り込んでくる。
「さて、おチビちゃん。どうするの?」
「え…?」
「あのお兄サンを守ってあげる?それとも断って、無理矢理帰る?」
フォンはずいっと顔を近づける。
「今日のワタシはおチビちゃんの味方。何なら、この部屋に生きてるもの、ぜーんぶ動かなくして連れ出してあげるヨ?」
「…ダメです」
レグルスはフォンに結んだリボンを摘まんだ。襟巻の如く、フォンを首に巻きなおす。そして軽く頭の部分を自分に押し付ければ、フォンは目を細めて大人しくそこに収まった。隣りの主人が、溜息交じりに首を左右に振った事には気付かないフリだ。
「エイル様のお姿が、僕で隠しきれるのなら」
「十分です」
エイルが初めて笑顔を見せた。