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鼠の抜け道

第3話「鼠の抜け道」です。

王国の参謀マイケルとの面会を終え、いよいよ脱獄を決行するデイビットとアスカ。

果たして二人は、無事に城を抜け出せるのでしょうか。

「それで、作戦変更ってのは? 今すぐ実行するつもりかい?」

「作戦変更は、ずばり脱獄だ! 決行は今夜にでも……いや、ずばり今すぐに!」


「……脱獄することくらい、とっくに分かってるよ。相変わらず威勢だけはいいね。あたしが聞きたいのはその先さ。どうやって抜け出すつもりなんだい?」


「ん……そこについては……その……」


 デイビットは言葉を濁した。


「何だい。歯切れが悪いね」

「いや、まあ……ここは一つ、美少女巨人女戦士アスカ様の馬鹿力をご披露いただこうかと……考えてました!」


 壁の向こうから、大きなため息が聞こえた。


「……力任せに押し通すつもりかとは思ってたけど、まさか本当にそれだけだったのかい」

「おいおい、美少女ってところは否定しないんだな」


「仮に牢をぶっ壊したとして、その後どうするんだい? 城中の兵士に脱獄を知らせて回るつもりか? あたしのか(・)弱(・)い(・)美(・)少(・)女(・)も、二度は通用しないよ」


「……ああ、改めてそう言われると、ちょっと無理があるか」


 ……か弱い。たしかに、見張り兵の前ではそんな設定もあったな。


「やれやれ。まあ、こんなこともあろうかと思ってね」

「おっ!?」

「あんた、あたしが食い意地張って寝てるだけだと思ってただろう? 実はこの牢を少し調べておいたのさ」


「調べた!?」


 デイビットは隣の牢へ顔を向けた。


 ……いや、実際ずっと寝転がってただろ、あんた。


「ネズミさ」


 ……ネズミ?


「ここの壁の下に小さな穴があってね」


 アスカは余計にもらったパンに、隠し持っていた傷薬用の豚の脂を塗り、ネズミをおびき寄せていたらしい。毎日寝転がっていたのも、奴らがどこから現れ、どこへ戻っていくのかを観察するためだったのだ。


「どうやら、壁の向こうに古い空洞があるらしい。石積みも一部が緩んでる。あたしなら、そこだけ外せると思うよ」

「なるほど……パンはそのために使ってたのか」


「まあ、見てな」


 壁の向こうで、何かが擦れるような音がした。続いて、小石が床に落ちるような、かすかな音が聞こえてきた。


 それきり、しばらく静かになった。


「……おい、今何かしたのか?」

「ああ。あんたが通れるくらいの穴は開いたよ。どうやら外にも通じてるみたいだね」

「……もう開いたのか?」

「脆くなってたところを少し押しただけさ」


 デイビットは思わず感心した。


 ……ん?


「……あれ? ちょっと待て。穴が開いたのはそっちの牢だろ? 俺はどうすりゃいいんだ?」

「……壁から離れな」

「え?」

「いいから、下がってな」


 デイビットは言われたとおりに後ずさり、背中を鉄格子に預けた。冷たい鉄が薄い衣服越しに伝わり、思わず肩をすくめる。


 格子の隙間からは、廊下の奥まで見渡せた。夜の地下牢は、昼間の騒がしさが嘘のように静かだった。日中は兵士の怒鳴り声や囚人たちの話し声が石壁に反響していたが、今はどこかの牢から咳が聞こえ、ときおり鎖の擦れる音がする程度だった。


 廊下にまばらに掛けられた松明が石壁を赤く照らし、床に鉄格子の長い影を落としている。その明かりの向こうで人影が動いた。見張りの兵士だろう。やがて石床を踏む足音が聞こえ、再び遠ざかっていった。


 デイビットは隣の牢へ目を戻した。


「……おい、アスカ。本当に大丈夫なんだろうな?」

「何がだい?」

「壁だよ。さっきみたいに静かにできるのか?」

「さっきほど静かにはいかないだろうね」

「おい!」

「心配しな。どのくらいの物音なら見張りが来ないか、だいたい見当はついてるよ」

「……いつの間に?」

「あんたと毎晩騒いでたときさ。あれも無駄じゃなかったってことだね」


 ……なんだよ、俺との会話まで利用してたのかよ。そもそも、そんなに騒いでたか?


「さて、十分離れたかい? いくよ」


 デイビットは身構えた。次の瞬間、目の前の石壁に鈍い衝撃が走った。石と石がぶつかり合う重い音が響き、壁の一部に亀裂が走る。続いて、いくつかの石が床へ崩れ落ちた。


「うおっ!」


 舞い上がった砂埃に、デイビットは思わず腕で顔を覆った。崩れた壁の向こうには、隣の牢が見えていた。アスカは片手を軽く払っている。


「こんなもんだろうね」

「……おいおい」


 デイビットは崩れた石とアスカの顔を交互に見た。


 ……結局、馬鹿力も使うんじゃねえか。


「何か言いたそうな顔だね?」

「あ、いや、さすが! 美少女巨人女戦士様だな、と」

「まだ言ってんのかい。こういうときくらい、素直に礼のひとつも言うもんだよ」


 アスカはそうこぼしながら、崩れた石の一つを足先で脇へ寄せた。


「さあ、ぐずぐずしてると見張りが戻ってくるよ。こっちへ」


 デイビットは鉄格子の向こうに目をやった。先ほど遠ざかっていった足音は、まだ聞こえてこない。


「……ああ」


 短く答えると、腰をかがめて壁の穴をくぐった。石の破片を踏まないよう足元を確かめ、アスカの牢へ移る。


 隣の牢は自分のところよりも少し広く、天井も高かった。それでもアスカの巨体には窮屈らしく、立ち上がれば頭が天井につきそうだった。壁際には敷き藁と空の木椀が転がっている。その奥に、もう一つ穴が開いていた。


 デイビットはしゃがみ込み、穴の向こうを覗いた。


 石壁の先には暗い空洞が続いている。穴の縁には崩れた石片が積もり、その先は下り坂になっているようだった。どこからか細い風が流れ込み、牢の中とは違う、土と湿った草の臭いがした。


「……外の空気か?」

「たぶんね。奥までは確かめようがないけど、ネズミたちはあそこから帰っていったよ」


 デイビットは穴に腕を差し入れ、石の縁を探った。どうにか身体は通りそうだ。


「よし、行ってくる」

「ああ。無理はするんじゃないよ」

「分かってるさ」


 デイビットは身を屈め、暗い穴へ身体を滑り込ませた。肩が石に擦れ、脇腹の傷が疼く。湿った土の上を這って進むにも、ところどころに崩れた石が転がっていて、膝をつく場所に気を使わなければならなかった。


「デイビット。ちゃんと戻ってくるんだよ」


 背後からアスカの声が聞こえた。


「分かってるって。あんたを置いていったら、あとで何されるか分かったもんじゃねえ」


 そう答えて再び前を向くと、デイビットは肘を使って身体を進めた。


 この先で城内へ戻り、没収された剣を取り戻す。それから見張りの鍵を奪って、アスカを迎えに行く。出発前に聞いた段取りは単純だったが、城内で何が待っているかまでは分からない。途中で騒ぎになれば、アスカは力ずくで牢を破るつもりらしい。


 四日間も殴られ続けた身体で、武器も持たずに兵士たちとやり合うのは御免だった。


 しばらく進むと、前方から冷たい風が流れてきた。水の音も聞こえる。デイビットは一度立ち止まって耳を澄ませたが、人の声や足音は聞こえなかったため、そのまま先へ進んだ。


 やがて通路は少しずつ広がり、身体を起こせるほどの高さになった。石造りの天井にはところどころ亀裂が走り、壁には苔が生えている。足元には浅い水が流れており、どうやら古い排水路につながっていたらしい。長い間、人が立ち入った形跡はなかった。


 さらに進んだところで、行く手に鉄格子が現れた。その向こうには夜の闇が広がり、外気が流れ込んでいる。ここを抜ければ城の外へ出られそうだったが、今はその前にやることがあった。


 デイビットは水路の脇に設けられた細い石段を見上げた。上には重そうな木扉があり、その下からわずかに明かりが漏れている。どこかで兵士たちの笑い声がし、木杯を机に置くような乾いた音が聞こえた。


 見張りの詰所が近いのかもしれない。


 石段の陰に身を寄せたデイビットは、昼間、取調室へ連れていかれたときのことを思い返した。


 地下牢から階段を上がり、右へ曲がった先に兵士たちが出入りする部屋があった。開け放たれた扉の向こうには長机が置かれ、壁には槍や盾が立てかけられていた。あのときは両腕を拘束され、前後を兵士に挟まれていたため、ゆっくり見物する余裕などなかったが、曲がり角や扉の位置くらいは覚えている。


 今いる場所がその詰所の近くなのか、それとも別の場所なのかは分からない。それでも、兵士たちが使う通路なら、城内へ戻る道があるはずだった。


 そういえば、アスカは馬も調達しておけと言っていた。


『あんたには剣だけじゃなく、馬も必要だね。今の身体で森まで走るつもりかい?』


 ……簡単に言ってくれるぜ。


 もっとも、脇腹の痛みを考えれば反論もできない。無事に城を出られたとしても、追っ手を振り切って森まで走り続けられるとは思えなかった。


 デイビットは木扉の向こうに耳を澄ませ、兵士たちの話し声が続いているのを確かめた。まずは剣と鍵を手に入れることだ。馬のことは、それから考えればいい。


 石段に足をかけ、音を立てないように一段ずつ上がっていった。


 木扉の向こうでは、兵士たちが何やら言い争っていた。


「だから、最後の一勝負さえなけりゃ俺の勝ちだったんだよ!」

「その最後の一勝負で負けたんだろうが」

「違う! あいつの骰子(サイコロ)には細工がしてあったに違いねえ!」


 どっと笑い声が上がり、誰かが木杯を乱暴に机へ置いた。デイビットは扉に耳を寄せ、声の数を確かめた。少なくとも三人。奥にも誰かいるようだ。ろれつの怪しい声に混じって椅子を引く音が聞こえ、続いて酒のおかわりを催促する声がした。


 酔っ払いどもとはいえ、この人数を丸腰で相手にするのは得策じゃない。


 デイビットは石段を下り、再び排水路へ戻った。外へ通じる鉄格子は錆びついており、その向こうから夜風が流れ込んでいる。格子の脇には細い水路が分かれていて、そちらにもかすかな空気の流れがあった。


 身体を横向きにして進むと、ほどなく頭上が丸く開けた場所に出た。石を円筒状に積み上げた縦穴で、見上げれば木製の蓋の隙間から月明かりが差し込んでいる。内壁には、古い足掛かりが一定の間隔で刻まれていた。


 デイビットは足元に転がっていた小石を二、三個拾い、軽く泥を払って懐にしまった。それから足掛かりに爪先を乗せ、壁の凹凸(おうとつ)を頼りによじ登っていく。


 湿った石は滑りやすく、途中で一度、足を踏み外しかけた。脇腹の傷が引きつるたびに顔をしかめながら、ようやく蓋の裏へ手を伸ばす。


 押してみると、木の蓋は思いのほか軽く持ち上がった。デイビットはわずかに隙間を作り、外の様子をうかがった。人の声は聞こえない。蓋を脇へずらして身体を引き上げると、そこは城壁沿いの小さな資材置き場だった。


 積み上げられた薪の束、割れた甕、雨ざらしの木桶。すぐそばには低い石造りの建物があり、その壁際には雑草が生い茂っている。どうやら普段はあまり人が立ち入らない場所らしい。


 デイビットは蓋を元に戻し、その位置を確かめてから立ち上がった。


 ……見つかったら、ここへ戻る手もあるな。


 もっとも、アスカまであの縦穴を通れるとは思えない。だが、使える退路は一つでも多い方がよかった。


 城壁の上では見張りが松明を掲げて巡回している。デイビットは薪の山の陰に身を潜め、足音が遠ざかるのを待ってから、目の前の建物を見上げた。


 壁の石積みがところどころ突き出しており、上部には雨樋が走っている。足場になりそうな場所を目で確かめると、デイビットは壁に取りついた。


 普段なら何でもない高さだったが、今夜は身体が重い。傷口をかばいながら慎重に登り、軒に指をかけたところで、下の通路から足音が聞こえてきた。


 デイビットは動きを止めた。


 松明の明かりが壁を照らし、二人の兵士が下を通り過ぎていく。


「――ろうな。昼まで寝てるかもしれねえ」

「お前、畑の世話はどうすんだよ」

「いや、まあ、それはそうなんだけどよ。昼まで寝て、それから酒でも飲もうかな。お前は?」

「へへへ、南門の娼館のケイミィに会いに行こうかと思ってる」

「またかよ。ほんと懲りねえな。先月の給金、もう残ってねえんじゃないのか?」

「……だから、実はお前に少し借りようと思ってたんだ」

「ふざけんな! こないだも貸したろ。女が好きならさっさと嫁でも見つけてこい! だいたいお前、俺の畑を――」


 二人は笑いながら角を曲がっていった。


 ……そりゃ貸してもらえねえだろ。


 足音が十分に遠ざかるのを待ち、デイビットは屋根へ身体を引き上げた。瓦の上に腹ばいになって息を整える。夜露に濡れた屋根は冷たく、衣服を通して腹に湿り気が伝わってきた。


 それでも、見晴らしは悪くなかった。


 城の中央には高い石造りの建物がそびえ、その周囲を兵舎や倉庫、塔などが取り囲んでいる。中庭には荷車が並び、城門の近くには数人の兵士が集まっていた。城壁の上では松明が点々と燃え、ときおり見張りの影が胸壁の向こうを横切っていく。


 デイビットは屋根の棟に沿って移動し、煙突の陰に身を寄せた。そこからなら、城壁の内側を広く見渡すことができた。


 まず探したのは厩舎だった。ほどなく城門から少し離れた一角に、細長い木造の建物が見つかった。干し草を積んだ荷車が停まり、開け放たれた戸口から馬のいななきが聞こえてくる。馬番らしい男が桶を運び、何頭かの馬が仕切りの向こうに頭を覗かせていた。


 ……よし、馬はあそこだな。


 厩舎の裏手には城壁に沿った細い道があり、その先には荷車が通れそうな小門もあった。正門から出るよりは都合がよさそうだが、あの門が開くかどうかは分からない。デイビットは周囲の建物や通路の位置を頭に入れ、今度は武器庫になりそうな場所を探した。


 しかし、屋根の上から眺めただけでは判断がつかない。兵舎らしい建物はいくつかあるものの、どこに武器が保管されているのかまでは分からなかった。


 そのとき、中庭を一人の兵士が横切った。男は左右を見回したあと、倉庫の裏手へ入っていった。腰の剣帯を押さえながら、いかにも急いでいる様子だ。


 デイビットはその姿を目で追い、屋根の反対側へ回った。積み上げられた樽を足場にして地面へ下りると、建物の陰から男の様子をうかがった。


 兵士は壁に向かって用を足していた。剣帯を緩め、すっかり油断している。


 デイビットは足音を殺して背後に近づき、男の首に腕を回した。


「騒ぐなよ」

「うぐっ……!」

「武器庫はどこだ?」

「な、何だ、お前……!」

「質問してるのは俺だ。武器庫は?」


 男は身じろぎしたが、デイビットの腕を振りほどけない。足元では、用を足していた小便が石畳に跳ねていた。


「その格好のまま死にたいか?」

「ちょ、ちょっと待て! 西の兵舎の奥だ! 二階の渡り廊下を渡った先にある!」

「ありがとよ」


 デイビットは男を締め落とし、力の抜けた身体を支えて地面に横たえた。肩から斜めに掛けた革帯には、小さな鞘付きのナイフが差してある。それを引き抜いて自分の腰に収めると、男の呼吸を確かめた。


 ふと、緩んだままの衣服に目をやる。


「……このままで見つかったら、末代まで笑いものだな」


 デイビットは男を壁際に寄せ、その場を離れた。


 西の兵舎なら、おおよその位置は分かる。二階の渡り廊下というのも、屋根から見えた石造りの通路のことだろう。


 再び壁を登り、屋根伝いに西へ移動した。途中、見張り塔の松明がこちらへ向いたため、煙突の陰でしばらく身を潜めた。遠くでは犬が吠え、城下町の方角からかすかに鐘の音が聞こえてくる。風が変わるたびに煙突から煤の臭いが漂い、デイビットはくしゃみをこらえた。


 やがて西の兵舎に近づくと、二階部分に石造りの渡り廊下が見えてきた。兵士から聞き出したとおり、その先は別の建物につながっている。


 デイビットは屋根の端に身を伏せ、渡り廊下の先を見下ろした。


 建物の外壁には細長い明かり取りの窓が並び、その一つから、槍や盾を立てかけた棚が見えた。


 ……当たりか。


 窓へ近づいてみたものの、幅は人の肩が通るかどうかというほどしかない。しかも内側には鉄棒が渡されている。無理に押し広げようとすれば、かえって大きな音を立てることになるだろう。


 廊下側へ目を向けると、武器庫の扉の前に兵士が一人立っていた。松明を片手に、退屈そうに壁へ寄りかかっている。


 ……運がいい。


 デイビットは懐から小石を取り出し、窓の隙間へ放り込んだ。石は室内の木箱に当たり、乾いた音を立てた。


「……ん?」


 門番が扉の方へ顔を向けた。


 デイビットは窓の下に身を伏せ、その様子をうかがった。


「……何か落ちたか?」


 男はしばらく耳を澄ませていたが、それ以上の物音はしなかった。


「ったく、面倒くせえな。ネズミだったら承知しねえぞ」


 男はぶつぶつ文句を言いながら腰の鍵束を取り出し、扉の錠を外した。松明を掲げ、室内へ入っていく。


 デイビットは門番の背中が見えなくなるのを待ち、屋根から渡り廊下へ下りた。開いた扉の隙間から室内を覗くと、門番は奥の棚を調べている。足元には投げ込んだ小石が転がっていた。


 デイビットは扉が閉まりきる前に身体を滑り込ませ、入口近くの大きな木箱の陰に身を隠した。


 武器庫の中には油と革、それに鉄の臭いが漂っていた。壁一面に槍や盾が並び、長机には手入れ用の道具や厚手の布が置かれている。奥には大小さまざまな剣が立てかけられ、天井の梁からは鎖帷子が吊るされていた。


 門番は松明を掲げ、物音のした辺りを調べていた。


「……何だ、こりゃ」


 床に落ちた小石を拾い上げ、首をかしげる。窓の方へ目を向けたが、何かを見つけた様子はなかった。


 デイビットはその間に木箱の陰を離れ、剣立ての並ぶ奥へ移動した。松明の光が棚の間を揺れ動き、壁には槍の影が長く伸びている。門番がこちらへ顔を向けるたび、棚の陰に身を潜めた。


 ようやく奥の剣立てまでたどり着いたとき、見覚えのある柄が目に入った。使い込まれて色の褪せた革巻き。柄頭に残る小さな傷。デイビットは迷わずその剣を取り上げ、鞘から数寸だけ刃を抜いた。


 間違いない。


 四日ぶりに手にした愛剣は、ずしりとした重みまで懐かしかった。


「……おい」


 背後から声がした。


 デイビットは振り返らなかった。剣を鞘へ戻しながら、ゆっくりと息を吐いた。


「お前、そこで何をしている?」


 門番が松明を掲げ、抜き身の剣をこちらへ向けていた。デイビットはわずかに肩をすくめた。


「……見りゃ分かるだろ。ネズミが悪さしてんだよ」

「何だと?」


 男が一歩踏み出した瞬間、デイビットは身を翻して飛びかかった。


 不意を突かれた門番は剣を振るう間もなく、デイビットともつれるようにして背後の棚へ叩きつけられた。激しい衝撃とともに剣が床を滑り、松明も男の手を離れて宙を舞った。


 デイビットは男の背後へ腕を回し、首を締め上げた。


「ぐっ……!」


 男は肘を振り回し、必死に逃れようとした。その一撃がデイビットの脇腹を捉える。


「……っ!」


 傷口に鋭い痛みが走り、思わず腕の力が緩んだ。男はその隙に身体をひねり、喉を絞られながらも声を上げようとする。


 デイビットは腰のナイフを抜いた。


 刃が男の首筋に突き立てられる。男は身体を大きく震わせ、デイビットの腕をつかんで引き剥がそうとした。なおも暴れる身体に、デイビットは数度、短く刃を突き立てた。


 男の喉から、言葉にならない声が漏れた。


 先ほどまで力任せに引っ張っていた指が、デイビットの腕の上で震えている。男は口を開き、何かを言おうとしたが、聞こえてきたのは苦しげな息だけだった。


 やがて指が一本、また一本とほどけていった。


 膝が折れ、身体の重みがデイビットの腕にのしかかる。男の胸はまだかすかに上下していたが、その動きも次第に小さくなり、ついには止まった。


 デイビットは男を床へ横たえ、脇腹を押さえながら息を整えた。


 そのとき、焦げ臭いにおいが鼻をついた。


 振り返ると、先ほど弾き飛ばされた松明が石床に転がっていた。炎が木棚の脚を舐め、近くに落ちていた藁くずが黒く焦げ始めている。


 デイビットは慌てて松明を拾い、壁の松明掛けへ戻した。靴底で藁くずを踏み消すと、脇腹を押さえながら床に残った焦げ跡を見下ろした。


「いてて……ったく、火事にならなくてよかったぜ」


 デイビットはもう一度、倒れた男に目をやった。それから男の腰を探り、革紐につながれた鍵束を取り上げた。


 長机から厚手の布を取り、愛剣と鞘を包む。ナイフはすぐに使えるよう腰に残し、鍵束も別の布で巻いて懐に収めた。


 室内を見回し、男の身体が扉から直接見えない位置にあることを確かめると、廊下へ出た。扉を閉め、外から鍵をかけた。


 ……結局、こうなっちまったな。


 殺しが初めてというわけではない。だが、できれば余計な騒ぎを起こさずに済ませたかった。


 デイビットは鍵を懐にしまい、来た道を戻った。


 城内は相変わらず静かだった。見張り塔の松明はゆっくりと動き、中庭では兵士が数人、談笑しながら歩いている。武器庫の異変には、まだ誰も気づいていないらしい。


 屋根から厩舎の位置をもう一度確かめ、それから地下牢へ戻る経路を頭の中でたどった。


 しばらくして、排水路から出てきた資材置き場の近くまで戻ると、兵士たちの声が聞こえてきた。どうやら休憩所が近いらしい。建物の窓から明かりが漏れ、数人が椅子に腰掛けているのが見える。


 その中に、見覚えのある若い兵士がいた。


 地下牢でアスカの世話をしていた男だ。


 腰には鍵束が下がっている。あれなら牢の扉を開けられるはずだった。


 だが、周囲にはほかにも兵士が何人もいる。正面から近づけば、騒ぎになるのは目に見えていた。


 デイビットはしばらく様子をうかがったものの、彼らが持ち場へ戻る気配はなかった。休憩所からは酒の臭いと笑い声が漂い、誰かが昨夜の賭け事についてまた文句を言い始めている。


 ……こりゃ、待ってても埒が明かねえな。


 デイビットは休憩所から目を離すと、再び屋根へ上がった。


 向かったのは、先ほどまでいた西の兵舎だった。


 武器庫の近くまで戻ると、デイビットは通路の見通しを確かめた。今のところ兵士の姿はない。だが、少し離れた詰所には明かりがあり、男たちの話し声が聞こえてくる。


 デイビットは壁の陰に身を寄せ、大きく息を吸い込んだ。


「おい! 誰か来てくれ! 武器庫の中で誰か殺されてるぞ! 侵入者だ! 誰か!」


 叫び声が石造りの廊下に反響した。


 直後、詰所の扉が勢いよく開く音がした。


「何だ!?」

「どこだ!」

「武器庫の方らしい!」


 デイビットは素早く屋根の上へ身を引き上げた。下では兵士たちが松明を掲げ、武器庫の前へ集まり始めている。


「おい、開かねえぞ!」

「鍵はどうした!?」

「門番が持ってるはずです!」

「だから、その門番はどこ行ったんだ!」


 兵士の一人が扉を何度も叩いたが、当然ながら開くはずもなかった。


「さっき叫んでたやつは!?」

「くそっ! 誰か参謀殿を呼んでこい!」


 その声を聞き届けると、デイビットは身を低くして屋根を移動し始めた。


 城のあちこちから兵士たちの足音が聞こえてくる。先ほどまで休憩所にいた男たちも、騒ぎに駆り出されているらしい。


 デイビットは建物の陰を伝い、地下牢へ戻る通路へ向かった。途中、石段を駆け上がる兵士たちとすれ違いそうになったが、壁のくぼみに身を隠してやり過ごした。男たちは武器庫の方へ急いでおり、暗がりに潜む人影には気づかなかった。


 やがて地下牢へ続く廊下が見えてきた。


 だが、その先に人影があった。


 松明を持った若い兵士が、アスカの牢の前に立っている。


 ……あいつか。騒ぎを聞いて、持ち場の様子を確かめに戻ったらしい。


 デイビットは足を止め、壁の陰から様子をうかがった。


「……これはどういうことだ!」


 兵士は崩れた壁を見つめ、アスカに問いかけた。


「あら、あんたかい。見てのとおりだよ」


 アスカは落ち着いた様子で答えた。


 兵士は松明を高く掲げ、隣の牢にまで穴が開いているのを確かめると、顔色を変えた。


「誰か! 脱獄――」


 叫び声が響き渡るより早く、デイビットは背後から近づき、兵士の口を塞いだ。


「静かにしろ」


 若い兵士は激しく身じろぎしたが、デイビットの腕から逃れることはできなかった。


「悪いが、急いでるんでね。単刀直入に聞く。命と鍵、どっちが大事だ?」


 デイビットは片手で血のついたナイフを抜き、兵士の目の前に突きつけた。


 それを見た途端、男の動きが止まった。


「お、お前……! あれは全部芝居だったのか?」

「アスカのことか? いいから鍵をよこせ。騒がなけりゃ、悪いようにはしねえ」


 兵士は震える手で腰の鍵束を外した。デイビットはそれを受け取り、男の顔を見た。


「……まさか、誰か殺したのか?」


 デイビットの脳裏に、地下牢でアスカに声をかけていたこの若者の姿がよぎった。


「……さあな」


 デイビットは男を気絶させ、身体を支えながら床へ横たえた。


 すぐに鍵束を確かめ、アスカの牢の前へ向かう。


「外が少しばかり騒がしいけど、あんたかい?」

「ああ。おおむね予定通りだ。剣も鍵も手に入った」


 デイビットは錠前に鍵を差し込んだ。


「道中、一人殺った。それで今、ネズミ探しに躍起になってるわけ」

「そうかい」


 鍵を回すと、錠前が重い音を立てて外れた。


「よし! ……それじゃあ、急ぐぞ、美(・)少(・)女(・)戦(・)士(・)アスカ様」


 鉄扉がゆっくりと開いた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


今回のお話では、デイビットとアスカ、それぞれの得意分野が少し見えてきたのではないでしょうか。

軽口を叩きながらも、いざとなれば容赦のないデイビット。そして、ただ寝転がっているだけに見えて、実はしっかり観察していたアスカ。

そんな二人の脱獄劇は、まだ終わりません。


次回もお付き合いいただければ幸いです。

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