牢獄
初めまして。
趣味でまた小説を書き始めました。
剣と魔法、科学、そして時間をテーマにした物語です。
気軽に楽しんでいただけたら嬉しいです。
「刻渡りに手を染めた者は、二度と故郷の土を踏めぬ」
「進んだ刻は戻らんのじゃ」
とうの昔に死んだ祖母の言葉を、なぜか思い出した。
あの老婆の昔話は、いつも似たようなものだった。森には人を喰う魔物がいて、月のない夜には死者が歩き、海の向こうには空に届くほどの塔がある。子供のころはそれなりに面白がって聞いていたが、今となっては、もう少し役に立つことを教えておいてほしかったと思う。
例えば、縄で両腕を吊るされて殴られた翌朝、どうすれば肋骨の痛みを和らげられるのか、とか。
デイビットは石壁に背を預け、ゆっくりと息を吐いた。湿った冷気が衣服の隙間から入り込み、地下牢に染みついた黴と古い血の臭いが鼻につく。ウォーターワスの城に投獄されて、おそらく四日目。昼夜の区別がつかない場所では、時間の感覚も曖昧になっていた。
舌先で奥歯を押してみる。まだ少しぐらついているが、幸い抜けてはいない。肩や脇腹にも痛みは残っていた。それでも指は動く。膝も曲がるし、足首にも異常はなさそうだった。剣を振るうこともできるだろう。
もっとも、肝心の剣は捕まったときに取り上げられてしまったのだが。
あれは少々惜しい。装飾らしい装飾もない、ごく普通の片手半剣だったが、幼いころから使い込んできた一本だ。何度も巻き直した柄革には手の形がなじみ、目を閉じていても重心の位置が分かる。今ごろ城の武器庫で、ほかの押収品と一緒に放り込まれているのだろうか。
そんなことを考えていると、隣の牢から地鳴りのようないびきが響いてきた。
ゴオォォ……。
デイビットは横目で石壁を見た。その向こうで眠っているのは、身の丈およそ三メートルの女だった。鮮やかな赤い髪に、頭部から伸びる二本の角。鍛えられた腕と広い肩を持つ、古代巨人族の女戦士。名をアスカという。
デイビットが物心ついたころには、すでに彼女は家に出入りしていた。祖母とは古くからの付き合いで、幼いデイビットに剣を教えた師でもある。自分が子供から大人になるまでの間、彼女の見た目はほとんど変わっていない。
そんな女が、今は隣の牢で気持ちよさそうに眠っていた。
「おい、アスカ。これも計画のうちだろうな……俺の身体がもたねえぞ」
返事はない。相変わらず豪快ないびきが響いている。デイビットは足元の小石を拾い、壁に向かって投げた。カツン、と乾いた音が響いたが、いびきは止まらない。もう一つ投げる。三つ目を拾い上げたところで、ようやく声がした。
「……ったく、うるさいな。寝られやしない」
「寝られねえのはこっちのセリフだ」
隣から鎖の擦れる音が聞こえた。
「あんた、あの程度も耐えられないのか?」
「……代わってみるか?」
「断る。あたしは腹が減ってるんだ。それより、今日の飯はいつ来るんだ?」
「さあな。昨日と同じなら、もう少しあとだろ」
「そうか。なら、それまで寝る」
「お前なあ……」
デイビットはため息をついた。
「こっちは毎日引っ張り出されてるんだぞ。少しは作戦の続きを考えてくれよ」
「考えてるさ。だから待ってるんだろ。それとも、あんたはもう出たいのか?」
少しだけ声色が変わった。
「ここまで来て何もつかまずに逃げたら、また最初からだ。あんただって、それが嫌で捕まったんだろ?」
「……分かってるよ」
「なら、もう少し辛抱しな。あんたの身体が本当にもたないなら、そのときは考える」
最後だけ声を落とし、アスカは再び横になったらしい。
デイビットは小さく笑った。幼いころ、疲労を隠して剣の稽古を続けようとすると、決まってアスカに見抜かれたものだ。彼女はできないことを無理にやらせるほど愚かではない。ただし、できると判断したことには容赦がなかった。
「そういや、今朝のパンはどうだった?」
「二つだぞ。たった二つ。あれじゃ腹の足しにもならない」
「俺は一つだったがな」
「あんたとあたしじゃ身体の大きさが違うだろ。まったく、少しは考えてほしいもんだ」
その言い分はもっともだった。
そもそも、城の兵士たちはアスカの扱いに困り果てていた。普通の牢では身体が収まりきらず、荷物置き場として使われていた広い房を空けることになった。取り調べ室への通路も天井が低く、拷問台も椅子も彼女の身体には合わない。結局、彼女だけは牢に残されたままだった。
それに、巨人族そのものが珍しい。
初日から兵士たちが興味本位で覗きに来ていた。
「これが噂の巨人か」
「女だそうですよ」
「女? ずいぶん大きいな」
兵士の一人が鉄格子越しに覗き込んだとき、アスカは牢の隅で膝を抱えていた。長い赤髪で顔を隠し、大きな身体をできるだけ小さくしている。
「……お願いです。怖いことはしないでください」
その声を聞いたデイビットは、思わず壁の方を向いた。長い付き合いだが、あんな声を出すアスカは初めてだった。
「ほう。案外おとなしいじゃないか」
「巨人族といっても、女は女なんでしょう」
若い兵士が頷くと、アスカは恐る恐る顔を上げた。
「あの……一つだけ、お願いがあるんです」
「何だ?」
「もう少しだけ、お食事をいただけませんか……?」
デイビットは口元を押さえた。
そこだけは演技ではない。
「確かに、これだけ大きければ腹も減るか」
「厨房に言っておきましょうか?」
「余計な仕事を増やすな。捕虜に贅沢させてどうする」
そう言いながらも、翌日にはアスカの食事が少し増えていた。
以来、彼女は食事を運んでくる兵士たちに丁寧に礼を言い、怯えたように目を伏せ、時折、小さな質問をした。デイビットは彼女の声を聞くたび、笑いを堪えるのに苦労していた。
「何を笑ってるんだ?」
隣から声がした。
「いや、別に。お前、ここに来てからずいぶん可愛らしくなったと思ってな」
「言ってろ。あんたが殴られてる間、こっちは兵士の顔と名前を覚えてたんだ。誰がいつ見張りにつくかも、だいたい分かった」
「……へえ。そいつは頼もしいな」
「それに、あの若い兵士は悪い奴じゃない。逃げるときは、なるべく怪我をさせずに済ませたいもんだ」
「そいつは賛成だな。あの娘に賞金を払う連中でもあるし」
「……あんた、まだ金の心配をしてるのか?」
「当たり前だろ。あれだけ殴られて、取り分なしじゃ割に合わねえよ」
アスカが呆れたように笑った。
「まったく。あのときもそうだったな」
「何が?」
「手配書を見つけたときさ。あんた、捕まることより金の心配をしてたじゃないか」
デイビットは思わず苦笑した。
確かに、あのときはそうだった。
数日前、ウォーターワスの城下町は市の日を迎えていた。
広場には商人の屋台が並び、焼きたてのパンや香辛料の匂いが漂っていた。デイビットは掲示板の前で足を止めた。
自分の顔があった。
正確には似顔絵である。
あまり似ていなかった。輪郭は妙に四角く、眉毛も太い。実物より十歳は年上に見える。隣には角の生えた巨大な女の絵が描かれていたが、こちらはもっとひどかった。
顔など、ほとんど熊だった。
「……ひでえ絵だな」
「何だこれ。あたし、こんな顔してないぞ」
「俺もだ」
「描いた奴を呼んでこい。描き直させる」
「やめとけ。余計に目立つ」
アスカが不満そうに腕を組む横で、デイビットは似顔絵の下に記された賞金額へ目を留めた。思っていたより高かった。
「へえ。ずいぶん奮発したもんだな。俺たちにこんな値段がつくとは思わなかったぜ」
「いい金額じゃないか。これだけあれば、しばらく食うものには困らないな」
アスカはしばらく手配書を眺めていたが、やがて口を開いた。
「ねえ、デイビット。これ、使えるんじゃないか?」
「何に?」
「誰かにあたしたちを突き出してもらうんだよ。そうすれば賞金が出るだろ」
デイビットはアスカを見上げた。
「……まさか、わざと捕まろうってのか?」
「そのまさかさ。追っ手を一人ずつ捕まえて聞き出すより、城へ入った方が手っ取り早いだろ?」
「まあな。だが、相手の懐だぜ?」
「何かあれば、あたしもいる。それとも、あんたは自分の腕が信用できないのか?」
デイビットは手配書に目を戻した。
数か月前から、自分たちの行く先々に怪しい男たちが現れていた。彼らが探しているのは、祖母から受け継いだ刻樹だ。古い切り株のような奇妙な代物で、守る理由さえ詳しく聞かされていない。
それでも、祖母との約束を破るつもりはなかった。
「……悪くねえかもしれないな」
「だろ?」
「だが、一つ問題がある」
「何だい?」
「賞金を受け取った奴が、俺たちに分け前をくれる保証はあるのか?」
アスカは呆れた顔をした。
「……そこなのか?」
「一番大事だろ。命懸けで捕まるんだぜ?」
アスカはとうとう声を立てて笑った。
そのあと二人は、広場から少し離れた通りで野菜を売っていた少女を見つけた。十歳にも届かない、小さな子供だった。
デイビットが手配書を見せると、少女は二人の顔を見比べた。
「……これ、お兄ちゃんたち?」
「にゃはは、そうらしいんだよ。 面白いでしょ?」
「悪い人なの?」
「どう見える?」
少女はデイビットをじっと見つめた。
「……あんまり」
「だろ?」
「でも、お金持ってなさそう」
アスカが声を立てて笑った。
デイビットは苦笑した。なかなか見る目のある子供だった。
話を持ちかけると、少女は最初こそ疑っていたものの、賞金額を知ると目の色を変えた。分け前を渡す約束をして握手を交わしたが、そのあとも何度か周囲を見回していた。
逃げる算段でもしているのか。
少し不安になった。
そして翌日、二人は予定どおり捕まった。
少なくとも、そこまでは予定どおりだった。
最初の尋問は、名前や出身地を尋ねるだけのものだった。しかし、刻樹の隠し場所を答えないでいると、二日目から扱いが変わった。縄で吊るされ、水をかけられ、殴られた。
それでも収穫はあった。尋問係の男たちは刻樹についてほとんど知らず、誰かに命じられた質問を繰り返しているだけだったのだ。
デイビットが知りたいのは、その命令を出している人物だった。
そして、その人物が近いうちに城へ来るという話を耳にした。
デイビットは待つことにした。
……とはいえ、いつまで待てばいいのかは分からなかったが。
「……おい、聞いてるのか?」
隣から声がした。
デイビットは顔を上げた。
「何だ?」
「あの娘の話だよ。あんた、いつまで金の心配をしてるんだ?」
「……ああ、そうだったな」
デイビットは石壁に頭を預けた。
「ちゃんと待ってりゃいいがな」
「約束したんだろ? だったら信じてやりな」
「そうだな。まあ、取り分だけは忘れずにいてほしいもんだ」
アスカは呆れたように鼻を鳴らした。
そのとき、頭上から馬の蹄が響いた。
続いて、車輪の軋む音。
城に荷馬車が出入りするのは珍しくないが、今日はどこか様子が違った。人の声が重なり、やがて急に静かになる。
少し遅れて、地下へ続く扉が開いた。
「おい! 何をしている! 閣下がお着きだぞ!」
頭上から怒鳴り声が響いた。
デイビットはゆっくり立ち上がった。左肩に痛みが走ったが、顔には出さなかった。
隣の牢でも、いびきが止まっていた。
「……アスカ」
「聞こえてるよ」
「ようやくお出ましか」
「待ちくたびれたな。さて、どんな奴が来るのやら」
「誰の作戦だったっけな」
「今さら言うなよ。ここまで来たら、最後まで付き合いな」
地下の通路を兵士たちが慌ただしく行き来し始めた。木箱が片づけられ、床に散らばっていた藁が隅へ寄せられる。居眠りしていた牢番まで立ち上がり、慌てて腰の剣を確かめていた。
デイビットが隣の牢へ目を向けると、アスカはすでに壁際へ移動していた。膝を抱えてうつむき、赤髪で顔を隠している。
切り替えの早い女だ。
階段から靴音が聞こえた。二人分、三人分。それから少し遅れて、もう一人。
最後の足音だけが妙にゆっくりしていた。
松明の光が通路の奥で揺れた。
最初に現れたのは城の兵士だった。その後ろに、黒い外套を羽織った男がいた。年のころは三十前後。手には薄い革手袋をはめ、腰には剣を帯びている。身体つきは細いが、貧弱には見えない。
男は階段を下りると、通路をひととおり見渡し、デイビットの牢の前で足を止めた。
「閣下、こちらです。手配されていた男です」
兵士が一歩下がると、男は鉄格子の向こうへ目を向けた。
デイビットは、その目に気づいた。
片方が灰色。もう片方が琥珀色だった。
松明の明かりが揺れるたびに、左右の瞳が違う光を返している。
「君は……確か、デイビットだったかな? ずいぶん探したんだよ。まさかこんなところで会えるとはね。おかげで手間が省けた」
「そいつはよかったな。俺の方はおかげで散々な目に遭ってるがね」
デイビットは腫れた頬を指さした。
「ふふ……それにしても、少々意外だったよ。各地で兵士たちを手玉に取っていた君たちが、たった一人の少女に見つかってしまうとはね」
「子供だからって侮っちゃいけねえよ。大人が気づかないことにも、案外よく気がつくもんだ」
男は小さく笑った。
「ふふ……なるほど。盗賊風情にしては、なかなか口が回るようだ」
「お褒めにあずかり光栄だね」
デイビットが大げさに頭を下げると、男はそれ以上追及せず、隣の牢へ歩み寄った。
牢の奥では、アスカが膝を抱えてうつむいていた。
「ほう……これは驚いた。巨人族、というのかな? 私も実物を見るのは初めてだ。おとぎ話の中だけの存在だと思っていたよ」
アスカは恐る恐る顔を上げた。
「……あの、お願いです。どうか、乱暴なことはしないでください」
男は穏やかな笑みを浮かべた。
「心配はいらないよ。おとなしくしてくれている間だけ、君に危害を加えるつもりはない」
「……ありがとうございます」
アスカは小さく頭を下げた。
男は彼女の角や鎖の巻かれた腕を眺めていたが、やがてデイビットへ振り返った。
「さて、君とは少し場所を変えて話をしたい。構わないかな?」
「そいつはありがたい。できれば椅子があると助かるんだが」
「もちろん、用意してあるよ」
男が合図すると、兵士が牢の鍵を開けた。
デイビットは鉄格子をくぐり、隣の牢へ一度だけ目をやった。アスカはうつむいたまま動かない。
兵士たちに囲まれ、地下牢を後にした。階段を上がる途中、小さな窓から差し込む光に目を細める。どうやら、まだ午後らしい。
男は歩きながら、刻樹についていくつか質問してきた。どれほどの大きさなのか、どこで保管していたのか。デイビットが逆に値段の話を持ち出すと、男は楽しそうに笑った。
金貨五千枚。
その金額を口にしたときには、兵士まで呆れた顔をしていた。
案内されたのは、以前の取り調べに使われた部屋とは別の一室だった。壁には織物が掛けられ、床には薄い敷物が敷かれている。古い木製の机を挟んで椅子が二脚。小さな窓から午後の日差しが差し込んでいた。
男は兵士たちを扉の外に待機させると、向かいの椅子に腰を下ろした。
デイビットも腰を下ろし、目の前に置かれた杯を手に取った。水がなみなみと注がれている。彼はためらうことなく口をつけた。
「驚いたな……毒を疑わないのかい?」
デイビットは最後の一滴まで飲み干すと、手の甲で口元を拭い、男をまっすぐ見つめた。
「死んじまったら、俺から聞きたいことも聞けなくなるだろ?」
男はしばらくデイビットを眺め、口元を緩めた。
「ふふ……私なら絶対に口にはしないがね。さて――」
「ちょっと待て。まずは自分から名乗るのが筋じゃないのか?」
男は一瞬黙ったが、やがて声を立てて笑った。
「はっはっは! どうやら君は、主導権を握られるのが嫌いなようだね。いいだろう、付き合ってあげよう」
男は椅子に深く腰かけ、デイビットを見据えた。
「私はマイケル。陛下にお仕えし、王国の参謀を務めている。そして……」
その口元には、変わらず穏やかな笑みが浮かんでいた。
「君に危害を加えることを、少しもためらわない男だ」
デイビットはしばらくマイケルを見つめた。
「……そいつは、ずいぶん――」
「丁寧な自己紹介だな、かな? ふふ……気に入ってもらえたかい?」
マイケルはデイビットの返事を待たず、机の上で指を組んだ。
「さて、君の連れについて少し話をしようか」
お読みいただきありがとうございます。
本作は、中世・現代・近未来を舞台に、異なる時代を生きる人々の運命を描く物語です。
楽しんでいただけましたら、次話もお付き合いいただけると嬉しいです。




