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3.呪縛の白刃

 ガシャンッ!!


 最高級のクリスタルグラスが、大理石の床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。


「馬鹿な……!あり得ん!あのバルバロスの豚が、自ら炎に巻かれて死んだだと!?」


 王都・聖導教会の奥深く。巨大な金庫室を兼ねた執務室で、神経質そうに痩せこけた男がヒステリックな金切り声を上げていた。


 彼の名はマクシム枢機卿。【六枢機】の一人にして、教会の資金繰りを一手に担う『強欲の金庫番』だ。十指すべてにはめられた宝石の指輪が、彼の震えに合わせてカチャカチャと耳障りな音を立てている。


「間違いありません、マクシム猊下……」


 報告に上がった神官が、顔面を蒼白にして震えていた。


「現場に踏み込んだレオン卿からの報告によれば、バルバロス猊下は、ご自身の執務室で……自らの指を噛みちぎり、床に血文字を残して焼身自殺を図られたとのこと。その血文字には、マクシム猊下を含む、残り五人の【六枢機】の御名が……」


「ええい、黙れッ!!」


 マクシムが、近くにあった黄金の燭台を神官に投げつける。


「なぜだ!?なぜあの豚が我々を売るような真似を!」


 マクシムは爪を噛み、部屋の中をネズミのように歩き回った。


「……だが、レオンは呪いで我々に嘘をつくことなどできん。報告はまず間違いないだろう」


 バルバロスは六枢機の中でも、武力においてトップクラスだった。それが、一晩で、しかも一切の抵抗の痕跡もなく「自害」させられた。その未知の手段が、マクシムの矮小な心臓を恐怖で鷲掴みにしていた。


「それにしても、十年前のヴェイン家粛清の生き残りだと?あの時のガキが、なぜ今になって現れる!」


「猊下、いかがなさいますか。このままでは……」


「……金だ。金庫の護りを固めろ!近衛の数を三倍にしろ!王都の裏社会の暗殺者ギルドもすべて雇い上げろ!」


「し、しかし猊下!すでに教会の裏金は、バルバロス猊下の管轄であった『魔石鉱脈』の隠蔽工作に回しており、流動資金が……」


「ならば平民から搾り取れッ!!」


 マクシムの細い目が、血走って見開かれた。


貧民街スラムの連中に、特別治安維持税を課せ!払えぬ者は地下の奴隷市場に売り払え!孤児院のガキどももだ、裏のオークションに流せば金になるだろうが!」


「そ、そんなことをすれば暴動が……!」


「私の命と、薄汚い平民の命、どちらが重いか分からんのか!神の代行者である私を守るための供物となるのだ、奴らも本望だろう!さっさと行け、無能どもがァッ!!」


 狂乱する金庫番。


 己の保身のためならば、何千の領民が血の涙を流そうと意に介さない。腐りきった権力者の醜悪なエゴが、そこにあった。



 ギリリ……ッ。


 薄暗い騎士団の自室で、レオンは自らの首元を強く握りしめていた。


 黒い蜘蛛の巣のように首筋に広がる『絶対隷属の呪印』が、焼け火箸を押し当てられたかのような激痛を放ち、彼を責め立てている。


『六枢機への脅威を排除せよ。殺せ、殺せ、殺せ...』


 呪いの命令が、脳髄に直接響く。逆らおうとすれば、全身の血が沸騰するような痛みが襲う。


「……ぐ、ぅぅ……ッ」


 レオンは脂汗を流しながら、壁に立てかけられた白銀の聖剣を見つめた。


 あの日。自分は確かに、この手でノアに剣を向けた。親友の心臓を貫くために、一切の淀みなく。


『……お兄様、見て!ノア様が、花冠を作ってくださったの!』


 ふと、薄暗い部屋の片隅に、幻影が見えた。


 栗色の髪を揺らし、太陽のように笑う少女――妹のノエル。そして、その隣で少し照れくさそうに笑う、幼き日のノアの姿。


 だが、その幸せな幻影は、すぐに紅蓮の炎に包まれる。


『あ、ああああっ!熱い、熱いよぉっ!お兄様ッ!!』


 顔の右半分を業火に焼かれ、泣き叫ぶノエル。


 十年前の『灰の夜』。六枢機の放った暗殺者によって、ヴェイン家の屋敷は地獄と化した。ノアの母と妹は焼け死に、たまたま屋敷を訪れていたレオンとノエルも炎に巻き込まれた。


 ノエルの美しい顔は醜く焼け爛れ、その日を境に、彼女はレオンにすら心を閉ざし、ノア以外の人間を極度に恐れるようになってしまった。


「ノア……。俺がどれほど……」


 レオンの瞳から、血の涙がこぼれ落ちる。


 生きていてほしかった。ノエルと共に、どこか遠い異国で、静かに隠れ住んでほしかった。


 そのために、レオンは自らの魂を六枢機に売り渡し、彼らの「番犬」となる呪印をその身に刻んだのだ。ノアたちを「死んだ」と報告し、追手を誤魔化すために。


 だが、ノアは王都へ戻ってきた。戻ってきてしまった。


 復讐鬼となって。


「……俺の手で、終わらせるしかないのか?」


 レオンは聖剣の柄を握りしめた。


 自分が殺さなければ、呪印がレオン自身の命を奪い、その後、別の刺客がノアを襲うだろう。


 親友を殺すか、自分が死ぬか。


 どちらに転んでも、残されたノエルは完全に心を壊してしまう。


「……笑えるほど、詰んでいるな。女神よ……。俺たちは、どれほど重い罪を犯したというのだ……」


 誰にも届かない慟哭が、冷たい石造りの部屋に虚しく響き渡った。



「はっくしょん」


 王都の貧民街スラムを見下ろす、廃教会の時計塔。


 その最上階の暗がりで、俺――ノアは小さくくしゃみをした。


(……誰か噂でもしてんのか?まあいい、この時期の夜風は冷えるな)


 俺が鼻をすすると、背後の影から、ふわりと甘ったるい香りが漂ってきた。


「あら。ノア様、お風邪ですか?いけませんわ、私の体温で温めて差し上げますね。さあ、こちらへ……♡」


「寄るな。気が散る」


 背後から抱きつこうとしてきたシトリーの顔面を、俺は手で無造作に押しのけた。


「もー!ノア様は本当に照れ屋さんなんだから!私はいつでも、文字通り『血肉を分かつ』準備ができておりますのに!」


 シトリーが不満げに頬を膨らませる。


 純白のメイド服に身を包んだ吸血鬼の少女。見た目は可憐だが、その中身は俺への狂信でドロドロに煮詰まったヤバい奴だ。


(……俺の周りには、まともな倫理観を持った奴がいないのか。まあ、まともな奴は復讐の駒には使えないが)


 俺は内心でため息をつきつつ、シトリーが収集してきた情報の束――王都の裏社会の動きを記したメモに目を通した。


「……マクシムの豚、随分と焦ってるな。貧民街から特別税を取り立て、払えない孤児や貧民を地下オークションに流す気か」


 俺が冷たく呟くと、シトリーが赤い瞳を三日月のように細めた。


「ええ。バルバロスの一件で、完全に首元が涼しくなっているご様子。集めた金で、王都中の暗殺者ギルドを雇い上げるつもりのようですわ」


「孤児を売って自分の護衛代を稼ぐとはな。テンプレ通りの腐れ外道だ。……だが、好都合だ」


 俺はメモを指先で弾き、ニヤリと笑った。


「奴は今、何よりも『金』と『力』を欲している。……ならば、喉から手が出るほど欲しい『最高の餌』をぶら下げてやれば、馬鹿みたいに食いつくはずだ」


「最高の餌、ですか?」


「ああ。例えば……『絶対に勝てる裏カジノの利権』とか、『不老不死の霊薬』とかな。人間、恐怖に追い詰められている時ほど、甘い嘘にすがりたくなるもんだ」


 俺の言葉に、シトリーが恍惚とした表情で身をよじらせる。


「ああっ……!ノア様のその、人の心を弄び、絶望のどん底へ突き落とす冷酷な企み……!ゾクゾクしますわ!それで、私は何をすればよろしいですか?奴の近衛兵を、全員『挽肉ミートパイ』にして差し上げましょうか?」


「だから、お前はなんでも暴力で解決しようとするな。俺が狙っているのはあくまで六枢機ろくすうきだけだ。無駄に人殺しをしようとは思っていないさ。必要であれば別だが」


 俺はシトリーの額を軽く小突いた。


「俺たちは、奴が主催する『地下オークション』に潜り込む。奴が孤児たちを売り払い、絶頂にいるその瞬間に……奴の積み上げた富とプライドを、根こそぎ奪い取ってやる」


 六枢機第二の標的、マクシム枢機卿。


 力で守られているのなら、奴を支える金と権力の土台ごと崩してやればいい。


「さあ、仕事の時間だ。……豚に、最高級のトリュフ(嘘)を食わせに行くぞ」


「御意のままに、私のただ一人の神様ノアさま♡」


 時計塔の鐘が、深夜を告げる音を響かせる。


 最弱の復讐者と狂信の吸血鬼は、夜の王都という巨大な盤面へと、新たな罠を仕掛けに闇の中へ溶けていった。

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