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 名前は千桜ちさ。歳は二十一歳。背中に火傷の痕がある女。

 一緒に暮らす彼女のことを、幸也はそのくらいしか知らない。


「おはよ、幸也くん。見て見て、外!」

 千桜に無理やり起こされて、幸也は寝ぼけたまま窓の外を見る。

「雪、少しだけつもってるよ!」

「ほんとだ……」

 夜中にまた雪が降ったのか。あまり雪の降らないこの町に、今年はやけに雪が降る。

 だけど白い雪は、この町の見たくない景色を、すべて隠してくれるからいい。

 薄汚れた家の屋根も、ゴミだらけの河川敷も、今朝はほんのり白く染まっている。

 いつの間にかスケッチブックを取り出した千桜は、今日も外の景色を描き始めていた。

「ほんと、絵、描くの好きだな、お前」

「小さいころから、ひとりで絵ばかり描いてたから」

 幸也の顔を見ないまま千桜が答える。

「それにね。人間って、いろんなこと、すぐ忘れちゃうんだよ。だからそれを忘れないために、みんな写真を撮ったり、日記を書いたりするでしょ? あたしはその方法が、絵だったってことだけ」

「ふうん」

 わかったような、わからないような口調で幸也が返事をすると、千桜はおかしそうに笑った。


 部屋をあたためる電気ストーブ。白く曇ったガラス窓。音の何もしない部屋。

 千桜といるとなんとなく、時の流れ方が違うような気がする。

 そしてその流れはどこか心地よくて、幸也はそれを失くしたくないと思い始めていた。

「千桜……」

 鉛筆を走らせる細い指を握りしめる。そっと顔を寄せてその横顔にキスをする。

 千桜はそれを嫌がりはしない。ただ窓の外を見つめたまま、幸也の思うように身体を任せるだけだ。

 千桜の膝の上からスケッチブックが落ちる。ぽさっと畳の上で響くかすかな音を聞きながら、細くて白い首筋に唇を這わす。

 身体に纏った服を脱がすと、千桜の背中に残る傷痕が、幸也の目の前に広がった。


 その日の昼、幸也が外で何か食べようと誘ったら、千桜はうなずいてついてきた。

 千桜と暮らし始めて一か月。一緒に外へ出かけたのは初めてだ。

 幸也が仕事へ出ている間、千桜が何をしているのかは知らないけれど、仕事帰りに買ってきたコンビニ弁当を渡すと、千桜は幸せそうにそれを食べる。

 夜になるとひとつの布団にくるまって眠り、身体を要求されれば、黙ってそれに応える。

 ヘンな女だな、と思う。少なくとも幸也が今まで付き合った女に、こんな不思議なやつはいなかった。

 だけどそんな女に惹かれ始めている自分に、幸也はとっくに気づいていた。


 アパートから一番近いラーメン屋でラーメンを食べて、川に沿った遊歩道を二人で歩いた。

 千桜はあまりしゃべらないけれど、幸也は今日も少しだけ、彼女を知ることができた。

「あたしね、ずっと遠くの町に住んでたんだけど、小さい頃はこの町にいたの」

「へぇ……おれと同じだ」

 千桜は静かに幸也のことを見て、ほんの少しだけ微笑む。

 川沿いに建つ古いアパートも、丘の上に並ぶ住宅も、今日は同じように白く染まっている。そうなれば、生活レベルの違いなんて、どうでもよくなってしまうように思え、なんとなく幸也は気分がよかった。


「おれが生まれた日ってさ、この町に雪が降ってたんだって」

 気分がよくなったからか、幸也の口から自然とそんな言葉が出た。

「だから名前が『ユキヤ』。単純すぎるから、ちょっと漢字だけ替えたらしいけど」

 歩きながら隣を見る。千桜は黙ったまま前を見つめている。

「千桜……は?」

「え?」

「なんで『千桜』っていうの?」

 千桜が立ち止って幸也を見た。その真っすぐな視線が眩しくて、目をそらそうとした時、幸也の耳に千桜のかすかな声が聞こえてきた。

「わかんない。たぶん聞いたと思うけど、覚えてないの。お父さんやお母さんと話したこととか、一緒に出掛けたこととか、それまでの生活とか」

「え?」

 千桜がいつものように小さく微笑む。

「二人が亡くなったの、あたしが五年生の時だから、普通なら覚えてるはずなんだけど……両親の記憶が途切れ途切れしかないの」

「どうして?」

 聞いてはいけない気もしたけれど、どうしても聞かなくてはいけない気もした。

「きつかったからかな……あたしがはっきり覚えてる、両親の最後の記憶は、二人が炎に包まれて焼け死ぬところだったから」

 背筋がぞっとした。けれど目の前の千桜は、ほとんど表情を変えないまま、幸也のことを見つめている。

「ごめん……おれ、ヘンなこと聞いた」

「ううん。いいの。あたしの火傷の痕、知ってるでしょ? その時本当は、あたしも一緒に死ぬはずだったの」

「火事……とか?」

「うん。台所にいたお母さんの不注意で火が出て、逃げ遅れたってことになってるけど……でも本当はお母さん、死にたかったんじゃないかって思う。お父さんとあたしと一緒に」

 ふっと笑った千桜は、また前を向き、何事もなかったかのように川沿いの道を歩き始めた。


 公園で遊ぶ子供たちの笑い声が聞こえてくる。はしゃいで投げた泥まじりの雪玉が、幸也たちの足もとに落ち、あっけなく崩れる。

 澄んだ空気。晴れた空。白く染まった町。目の前に広がる鮮やかな光景が、ぼんやりとかすんで見える。

「ごめん……千桜」

 ぽつりとつぶやいた幸也の声は、行き場もなく不自然に浮かんだ。

「どうして幸也くんが謝るの?」

「おれがバカだから」

 一歩前を歩いていた千桜が、立ち止って幸也に振り返る。そして淡い日差しの中で、ふんわりと柔らかく微笑んだ。

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