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その日は幸也にとって、まさに「最悪な一日」だった。
朝からケータイをトイレに落とした。
遅刻しそうになり慌てて走ったら、思いっきりこけて小学生に笑われた。
鮭だと思って食べたおにぎりの具が、大嫌いな梅干しだった。
仕事でミスって所長に人前で怒鳴られた。
頭に来て、つい言い返したら「明日からもう来なくていい」と告げられた。
「最悪だ……」
いや、「最悪」というより、すべて自分が悪いのだ。
ケータイを落としたのも、走ってこけたのも、おにぎりの具を間違えて買ったのも、仕事でミスったのも、所長にクビを言い渡されたのも……悪いのは全部この自分。
それがわかっているからこそ余計に腹が立ち、幸也はイライラしながら、狭い川沿いの遊歩道を、アパートへ向かって歩いていた。
薄暗くなった空はどんよりと曇り、冷たい空気が肌を刺す。
このままあの、六畳一間の部屋へ帰っても、自分を待っている人間などいない。
コンビニで買った美味くもない弁当を、偽物のビールで胃の中へ押し込んで、薄っぺらい布団にくるまって眠るだけだ。
はぁっとひとつ、白い息を吐く。
すれ違うカップルも、目の前を横切る黒猫も、見るものすべてに腹が立つ。
もしも今夜、自分が消えてしまっても、誰も悲しむ人間なんていないんだろうな。
いや、もしかしたら事務員の梨花は、少しは悲しんでくれるかもしれない。
梨花とは一年間付き合った。
所長の娘っていうのが気に入らなかったけど、時々作ってくれた手作りのおにぎりは、すごく美味しかった。
金も学歴もなくて、小さな建設会社で、作業着を汚しながら働いているこんな自分のことを、梨花は好きだって言ってくれた。
「何考えてんだ、おれは」
幸也は立ち止ってふっと笑う。
その梨花は一か月前、自分の元から去って行った。
男ができたのだ。正確にいうと男ができていた。二股だったのだ。
相手は取引先の、誰でも名前を知っているような大企業の社員で、すでに結婚の話まで出ているという。
――ごめん、幸也。あたし幸せな結婚がしたいの。
幸也とは幸せな結婚ができないでしょ? だって幸也はお金がないから――きっと梨花はそう言いたかったのだろう。
「くそっ、バカにしやがって」
嫌なことを思い出し、また腹が立ってきた。
ポケットに手をつっこみケータイを取り出す。しかし今朝水没したそれは使用不可能だ。
幸也は古びた携帯電話を、冷たいアスファルトに叩きつけた。
闇があたりを包み込む。北風が木の枝をざわっと揺らす。
ふと幸也は視線を動かした。木々の隙間から見える公園内で、かすかに動く人影。
幸也は手を伸ばして携帯電話を拾うと、迷うことなくその公園の中へ入っていった。
そこは毎日通る小さな児童公園だった。アパートへ帰るには、ここを突っ切るのが近道なのだ。
春には桜の花が咲き、お花見を手軽に済ませるにはもってこいの場所だけど、冬のこの時間、遊んでいる子供はもちろん、人目を避けてデートするカップルさえさすがにいない。
それなのになぜか今日、そこに人が座っていた。
ブランコの脇にあるベンチに、女の子がひとりでポツンと座っていたのだ。
赤いニット帽を深くかぶり、マフラーを鼻のあたりまで押し上げ、寒そうに空を見上げている彼女は、まだ学生のように見えた。
「何してるの? こんなところで」
暗闇の中で凍えてしまいそうな彼女のことを、心配して近寄ったわけではない。かといってこんな場所で、ナンパというには地味すぎる。
それよりも何よりも、自分の中で膨らんだもやもやした感情を、誰かにぶつけてやりたいという気持ちが強かった。
彼女はゆっくりと視線を動かし、幸也のことを見た。
帽子とマフラーの間で、小動物のような目がくりくりと動いている。
よく見ると、膝の上にはスケッチブックが乗っていた。そして小柄な体の脇には、少し大きめのリュックサック。
「雪を……待っているの」
「え?」
自分で声をかけたくせに、幸也は意外な反応にあせって聞き返した。それとは反対に彼女の声は、ものすごく落ち着いていた。
「雪がね、降ったらいいなぁって思って」
「雪?」
幸也を見つめた瞳が細くなる。自分が微笑みかけられたと気づき、幸也はさりげなく視線を天にそらした。
「雪なんて降らなくていいよ。寒いだけじゃん」
彼女は何も答えなかった。ただマフラーの中で微笑んだまま、黙って空を見上げた。
ヘンな女。こんな寒い日にひとりで座っているのもヘンだし、知らない男に声をかけられても、全然慌てる様子もない。
「もしかして、帰るところないの?」
直感でそう感じたのは、幸也が何度も家出を経験しているからだ。
「帰るところないなら、うちに来る?」
ちらりと視線を動かすと、マフラーを首元まで押し下げている彼女と目が合った。
ショートカットで幼い顔立ち。高校生だったらヤバいかな? いや、そんなことはどうでもいい。
今はとにかく、このどうしようもない感情を鎮めるために、目の前にいる名前も知らない人間を、思いっきり傷つけてやりたいとさえ思っていた。
「あ……」
彼女の細い声が闇に浮かんだ。すっと動かした手が空に伸びる。
「雪、降ってきた」
その声につられて空を仰ぐ。天から舞い落ちる、今にも消えてしまいそうな雪。
「もっとたくさん降ればいいな」
淡くて儚い白い結晶が、彼女の小さな手の上に降る。
「もっとたくさん降れば……なにか大事なこと、思い出せそうな気がするのに」
雪が降れば思い出せる? 意味が全くわからないまま、なんとなくもどかしい気持ちで、幸也は目の前の光景を眺める。
暗闇の中、二人の上からかすかに降る雪。音もなく、ただ静かに、彼女の手のひらに舞い落ちては、一瞬のうちに消えてゆく。
「あたしのこと、拾ってくれるの?」
幸也の耳に、彼女の声だけが聞こえた。それは夢の中で聞いているような、どこか儚げな声だった。
「いいよ。おいでよ」
すっと出した右手に、彼女の指先が重なる。冷たく冷え切った、細い指だ。
雪の舞う中を、冷たい手を引いて歩いた。
錆びついた階段を上り、鍵を開けて、薄暗い部屋の中へ彼女を押し込む。
「怖くないの?」
そう聞いた幸也の前で、スケッチブックを胸に抱いた彼女が微笑んだ。無理して笑っているようなその表情に、なぜか無性に腹が立って、幸也はそのまま彼女の身体を押し倒した。
唇を押し当てる小さな顔は冷たくて、脱がせた服の下の肌は温かい。
彼女は幸也の行為を拒もうとしなかった。それもなんだか気分が悪くて、その細い身体を痛めつけるように乱暴に抱く。
暗がりの中、彼女の背中に、大きな傷痕があることに気がついた。火傷の痕のように見えた。
少しだけ力をゆるめてその傷に触れると、彼女は幸也の耳元で、かすかに切ない声を漏らした。
気がつくと、窓から薄い光が差し込んでいた。
眠い目をこすりながら窓辺を見る。昨日何度も幸也が抱いた彼女は、外を眺めながら、スケッチブックに何かを描いていた。
幸也はしばらく布団の中から、その横顔を眺めていた。
綺麗だな……なんとなくそう思った。
昨日、あんなことをしておいて、こんなことを思うなんておかしいけれど。
「あ……」
彼女が気づいて幸也を見る。
「おはよ。雪、もう止んじゃった」
布団から起き上がり、幸也は彼女に並んで外を眺める。
二階の窓から見える景色は、いつもと変わらない古びた家並みと、ゴミだらけの汚い川だ。
「おれの名前……ユキヤっていうんだ」
ぽつりともれた言葉に、ゆっくりと振り向いた彼女は、少しの間黙って幸也の顔を見た。気まずい空気に耐え切れず、幸也は顔を背けながら、言葉を付け足す。
「あの白い雪じゃなくて、幸せって字のほうだけど」
「幸也……くん?」
彼女はそうつぶやいた後、幸也に向かってこう言った。
「あたしの名前はチサ。千の桜って書いて『千桜』っていうの」
千桜……聞いたばかりの名前を、心の奥でつぶやいてみる。
彼女の後ろの見飽きた景色が、桜色に染まればすごくいいのに……そんなことを考えながら。




