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第21話 重ならない記憶

ウィーン編に入りました。

記憶を取り戻したエリーと、その揺らぎを静かに受け止める翠。

ここから少しずつ、ふたりの距離も、言葉の温度も変わっていきます。

音より先に触れていたものが、少しずつ輪郭を持ちはじめる章です。

今夜も、静かにお付き合いいただけたら嬉しいです。



その日、ふたりで二階へ上がった。

これまで足を踏み入れなかった場所だった。


階段を上がるだけなのに、空気がわずかに変わる。

音が少しだけ遠くなり、屋敷全体の呼吸が深くなるような気がした。


廊下の奥で、エリーがひとつの扉の前に立ち止まる。

手をかける指先に、ほんのわずかなためらいが見えた。


それから、静かに開ける。


扉の向こうは、やわらかな光に満ちた部屋があった。

横から差し込む光が、床に細長く伸びている。

整えられているのに、どこか生活の気配が残っていた。


エリーはゆっくりと中へ入り、すいもその後ろに続いた。

窓辺まで歩いたところで、エリーの足が止まる。


外を見ている。


しばらく何も言わなかった。

やがて、小さく声が落ちる。


「……ここ、覚えてる」


視線はまだ窓の外に向いたままだった。


「この景色も」


少しだけ息を吐いて、光の揺れる庭を見つめる。


「……こんなふうに、話せたんだな」


自分の声を確かめるように、かすかに笑う。

けれど、その笑みは長くは続かない。


「エリー・モローでいた時間のほうが、もう長いから」


静かな声だった。


「まだ、うまく重ならない」


その一言に、覚醒したからこその戸惑いが滲んでいた。


翠は何も言わない。

ただ、そのそばに立つ。


エリーがゆっくりと振り返った。


以前の曖昧さはもうない。

けれど、その分だけ揺らぎもはっきり見えた。


「……翠」


低い声が落ちる。


「お前、もう知ってたのか」


問いというより、確認に近かった。


翠は答えず、その視線を静かに受け止める。

それだけで十分だった。


エリーの瞳が、わずかに揺れる。


「……俺さ」


そこで一度言葉が止まる。


視線が落ちる。


「……どうしたらいい」


掠れた声だけが残った。


部屋の静けさが、さらに深くなる。


翠はゆっくりと歩み寄り、何も言わずにそっと腕を回した。


包み込む。


強くはない。

けれど、逃げ場のない距離だった。


エリーの呼吸が、わずかに乱れる。

そのまま少しだけ身体を預けてくる。

翠は何も言わず、その体温を受け止めた。


「……僕も、似たことがあった」


小さな声だった。

それ以上は言葉にしない。

言葉より先に、温度が伝われば十分だった。


少しだけ抱く力を深くする。


「目、閉じて」


静かに言う。


距離がさらに近づく。


「.....僕がいる」


呼吸が重なる。


エリーの肩から、わずかに力が抜けた。

しばらく、そのまま動かない。

外の光だけが、静かに揺れている。


やがて翠が、小さく言った。


「……明日、また森に行こう」


その声のあと、ふと視線がチェストの上で止まる。


小さなバッグが置かれていた。

淡い色の布地に、細かな刺繍が施されている。


翠はそっと手に取る。

指先に、わずかな凹凸が触れた。

そして、その中央で動きが止まる。


幼い少年の顔。

少年時代のエリーの笑顔が、細かな糸で丁寧に縫い込まれていた。


横には、やわらかな文字で

Elias

さらに、そのそばに小さなてんとう虫。

赤と黒の糸が午後の光の中で、かすかに浮かんでいた。


翠は、刺繍の輪郭をそっとなぞる。


頬の線。

髪に落ちる光。

まだ何も失っていない頃の、まっすぐな目。


糸なのに、まるで小さな肖像画だった。


「……きれいだ」


ほとんど独り言のように、声が落ちる。


エリーの視線がそこへ落ちる。


「ああ」


短く答えてから、少しだけ口元を緩めた。


「確か...母が、一年かけて作った」


静かな声だった。


「クレアはこういうのが得意で、絵を描くみたいに刺してた」


翠の指先が、てんとう虫のそばへ触れようとしたとき、エリーの指がそっと重なる。


小さなてんとう虫を、やさしく撫でる。


何かを確かめるように。

そこに残る時間を、そっとなぞるように。


「……母がよく言ってた」


視線は、まだ指先のまま。


「これは、明日の印だって」


少し間を置いて、静かに続ける。


「今日がどんな日でも、明日にはちゃんと光があるって」


その声は、以前よりずっと輪郭を持っていた。

記憶を取り戻した今だからこそ、言葉がまっすぐ落ちてくる。


やがて、エリーが少し照れたように笑う。


「でも、正直」


かすかに息を混ぜる。


「俺がこれ持ってるのは、やっぱり恥ずかしい」


翠が思わず視線を上げる。


エリーの口元が、わずかに緩む。


「子供の頃の自分の顔が入ったバッグなんて、さすがにな」


部屋の空気が少しやわらぐ。


そのあと、エリーの視線が翠の手元へ落ちた。


「……お前、こういう細かいもの好きだろ」


問いというより、気づいていたことを静かに口にしただけだった。


「さっきから、ずっと糸目をなぞってる」


翠の指先が、ほんの少し止まる。

エリーの口元がやわらかくなる。


「覚えてるよ」


その一言に、過去と今が静かに重なる。


少しだけ間を置いて、エリーが続ける。


「……今は、お前が持っててくれないか」


翠はバッグを見つめる。


エリーの声は、もう揺れていなかった。


「まだ、自分で持つには近すぎる」


短く息を吐く。


「でも、お前のところにあるなら、落ち着く」


翠は静かにうなずく。


「大事に預かるよ」


小さな声。

エリーが、ほんのわずかに笑った。


まだ、何も解決していない。

それでも、ふたりの距離だけは、確かにここにあった。


窓の外で、午後の光が静かに揺れている。


てんとう虫の刺繍が、ほんの一瞬だけ、

明日の光を抱いているように見えた。


——つづく



ここからウィーン編に入り、物語の空気も少しずつ深まっていきます。

エリーの記憶が戻ったことで、ふたりの会話や時間の流れにも、これまでとは違う静けさを持たせてみました。

少しずつ変わっていくふたりを、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。

いつも読んでくださって、本当にありがとうございます。

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