第19話 ウィーンの森
何気なく口にした言葉が、
思いがけず誰かの深い場所へ届いてしまうことがあります。
今回は、春の森の静けさの中で、
止まっていた記憶が揺れ始める回になりました。
ゆっくりと、その変化を感じていただけたら嬉しいです。
ウィーンに来てから、数日が過ぎていた。
朝は決まって病院へ向かい、検査を受ける。
戻れば、屋敷の中は静かで、時間だけがゆっくりと流れている。
それ以外は、自由だった。
スタジオにこもることもあれば、何もせず、光の中に身を置くこともある。
その中で、ひとつだけ自然に繰り返されるようになったことがあった。
森へ行く。
屋敷から少し離れた場所に、街の気配をそのまま切り離したような森がある。
気づけば、いつも同じ時間にそこを歩いている。
その日も、エリーと並んでいた。
春の匂いが、空気の中に満ちている。
湿った土と、芽吹いたばかりの葉。
光はやわらかく、足元へ静かに落ちてくる。
どこまでも穏やかで、やわらかい。
翠は、この森を気に入っていた。
理由は、うまく言えない。
ただ、どこか懐かしい。
その感覚の奥で、いつもわずかに音が揺れている。
「森はいいね」
歩きながら、翠が言う。
少しだけ間を置いて、続ける。
「静けさが、降りてくる」
言葉が空気に溶けた、その瞬間だった。
隣を歩いていたエリーの足が止まる。
わずかに、空気が変わる。
頭の奥で、何かが触れる。
最初は、形にならない。
ただ遠くで、声のようなものが滲んでいる。
風が枝を揺らす。
その揺れと重なるように、音が少しずつ輪郭を持ちはじめる。
少年の声。
澄んでいる。
遠い。
「……待って」
エリーが、額に手を当てる。
呼吸が、わずかに乱れる。
「今の……言葉」
翠が振り向く。
「静けさが降りてくる、って言っただけだよ」
その声が、引き金になる。
音が、はっきりする。
O holde Ruhe…
光。
舞台。
白い衣装の少年。
その声は、自分のものだった。
どこかで知っているはずなのに、思い出すことができない。
けれど、その響きだけは、身体の奥で確かに重なっていく。
「……翠」
視界が揺れる。
足元が、ふっと崩れる。
翠が、とっさに腕を伸ばす。
身体が落ちる前に、受け止める。
「エリー!」
呼びかける声が、遠くなる。
音だけが残る。
Steig hernieder…
重なる。
自分の声と、少年の声。
そのまま、意識が途切れる。
森の中に、風だけが残っていた。
——つづく
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
穏やかな森の時間の中で、
止まっていたものが少しずつ動き始めました。
音と言葉、そして場所が重なったとき、
思っている以上に深いところへ届くことがあります。
次回から、エリーの記憶と、この場所の意味がさらに重なっていきます。
引き続き、そっと見守っていただけたら嬉しいです。




