第9話 嫉妬
音の中にある距離と、
まだ名前のつかない感情。
はっきりとは言葉にしないまま、
そのまま置いています。
話が終わり、ふと横を見たとき、翠の姿がなかった。
さっきまで隣にいたはずなのに、
グラスを持つ手の先にも、視線の端にも、その姿は見えない。
会場のざわめきの中を、何気ないふうを装って見渡す。
けれど、どこにもいなかった。
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
そのとき、奥のほうから音が聞こえた。
ピアノ。
ひとつではない。
音が、重なっている。
エリーは足を止めた。
会場の喧騒はまだ背後にあるのに、
耳だけがそちらへ引かれていく。
静かな廊下の向こう。
壁際の灯りが細く落ちた先に、開きかけた扉があった。
そっと近づく。
扉の隙間から漏れる灯りの中で、
翠と、もうひとりの男が並んでいた。
一台のピアノに向かって、連弾している。
息が合っていた。
指が鍵盤を渡るたび、音は自然につながる。
長く前から知っている者同士の音だった。
エリーは、その場で動けなくなった。
胸の奥が、静かに痛む。
目を逸らせない。
翠が弾いている。
あんなふうに音を返している。
それだけのことなのに、呼吸の奥が苦しい。
こめかみに、小さな痛みが走る。
視界が、わずかに揺れる。
音。
手。
何かを探しているような気配。
それが、どこか見覚えのある痛みに触れた。
――知らないのに、知っている。
その感覚だけが、胸の奥に残る。
連弾は続いていた。
翠の横顔は静かで、あまりにも自然だった。
その自然さが、エリーの胸を締めつける。
あの音の中に、翠の時間がある。
自分の知らない時間が、すぐそこにある。
やがて、深い和音が落ちる。
音が止まった。
余韻だけが、暗い廊下へ細く伸びる。
その静けさの中で、エリーはようやく、
自分の中にあるものに触れかける。
翠が、あの男と並んでいる。
音を重ねている。
そのことが、胸の奥を強く引く。
初めての感情だった。
名前はまだわからない。
ただ、どうしようもなく苦しい。
エリーは片手で額を押さえた。
頭の奥が痛い。
これ以上、見ていられなかった。
音はまだ背中に残っている。
それでもエリーは、扉の前を離れた。
最後まで聞かずに、会場へも戻らず、そのままホテルへ向かう。
足取りは静かだった。
静かすぎるほどに。
胸の奥には、
まだ名前のつかないものが、
沈んだままだった。
——つづく
はじめて触れる感情は、
最初から名前があるわけではありません。
理解する前に、身体のほうが先に反応してしまう。
この回では、その“手前”を描いています。
ここから少しずつ、関係が動いていきます。




