第7話 湖畔のキス
アンコールのあと、
少しだけ静かな時間です。
舞台の熱が、まだ残っているまま。
音が途切れたあとにだけ訪れる、
少しだけ現実から離れた時間。
光と余韻のあいだで、
ふたりはようやく、同じ場所に立つ。
今夜は、
言葉よりも先に触れてしまう——
拍手は、2人が舞台を離れた後も、
しばらく続いていた。
さっきまでの熱が、
舞台を離れた瞬間、嘘のように引いていく。
残っているのは、わずかな倦怠と、
軽くなりすぎた身体だけだった。
「……外、行こう」
エリーがそう言って、翠の手を取る。
湖畔に出ると、夜は思ったよりも静かだった。
風はやわらかく、水面に映った灯りが、かすかにゆらいでいる。
遠くで、まだ音楽が鳴っている。
歩きながら、エリーが口を開く。
「さっきの」
振り返らずに、少しだけ笑う。
「覚えてない」
翠は足を止める。
「……本当に?」
「気づいたら、弾いてた」
湖は暗く、深く光っている。
風が、水面を静かに撫でていく。
二人はまた歩き出す。
何も言わないまま、
さっきの音だけが、まだどこかに残っている。
やがて、エリーが立ち止まった。
翠を見る。
言葉は出てこない。
代わりに、胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりとひらいていく。
ステージの光。
音。
手を引いた感触。
——来てくれた。
それだけで、足りるはずだったのに。
満ちたあとに、わずかな空白が残る。
エリーは一歩近づく。
距離が、自然にほどける。
翠の呼吸が、すぐそばにある。
指先が、そっと腕に触れる。
確かめるというより、そこに在ることを受け取るように。
そのまま、引き寄せる。
唇が触れる。
触れた、というより、重なった。
やわらかく、静かに、
わずかに長くなる。
離れない。
さっきまでの熱とは違う温度が、
ゆっくりと広がる。
一度、わずかに離れる。
それでも距離は近いまま、呼吸が重なっている。
エリーはそのまま、翠の耳元へ顔を寄せる。
「翠……」
声は低く、ほとんど息に近い。
「……もっと近くに感じたい」
言い終わる前に、唇が触れる。
やわらかく、静かに重なる。
――そのまま、ほどけていくはずだった。
けれど。
次の瞬間、翠の指が、エリーの襟元をきゅっとつかんだ。
迷いはない。
引き寄せる力も、ためらう気配もない。
翠は、息をひとつ飲んでから、短く言う。
「……まだ」
それだけで、足りていた。
聞きたいことも、確かめたいことも、後回しでいい。
今はただ、離したくない。
翠の唇が、もう一度、静かに返る。
深くはない。
けれど、強い。
エリーはそれを受け止め、翠の背にそっと手を回した。
やがて、唇が離れる。
ほんのわずかに残った熱が、空気に触れて冷える。
それでも距離はほどけないまま、呼吸だけが、まだ重なっている。
次の瞬間、エリーの腕が、しっかりと翠を引き寄せた。
今度は迷いがない。
胸元に触れる距離で、そのまま抱き寄せる。
「翠……」
低く、やわらかく、名前だけを落とす。
それ以上は、続かない。
続けようとすれば、言葉になってしまうから。
顔を少しだけずらして、耳元へ。
触れるか触れないかの距離で、唇がかすめる。
息が、静かに落ちる。
それだけで、十分だった。
抱きしめた腕は、そのまま離れない。
湖の水面が、ゆっくり揺れている。
遠くで、誰かが笑う声。
その少し離れた場所で、
もう一つの影が立っていた。
サンドロだった。
木の影に身を寄せるようにして、
何も言わず、ただその光景を見ている。
翠は気づかない。
湖の夜は、まだ静かだった。
——つづく
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
音が重なるとき、
触れてはいけない距離が、
少しずつ曖昧になっていきます。
ふたりのあいだにあったものは、
音だけでは足りなくなり、
やがて、
心も、身体も、
同じものを求めはじめる——




