第4話 「それぞれの朝、足りない音」
それぞれの朝が、
それぞれの場所で、静かに始まる回です。
同じ夜を越えても、
同じ音を抱えても、
人は同じところには立っていません。
音が足りない朝を、
それぞれがどう受け取るのか。
そんな小さな揺れを描いています。
ゆっくりと、お読みいただけたら嬉しいです。
朝一番の打ち合わせと、リハーサル。
エリーの一日は、いつも音から始まる。
スタジオは広く、天井が高い。
アンプの唸り、ドラムの軽いチェック音、
メンバー同士の短いやり取りが、空気を温めていく。
指示は簡潔に。
冗談も少し。
場の流れは悪くない。
けれど、エリーの意識は、どこか別のところにあった。
――昨夜の、あの青年。
名前を思い出そうとして、やめる。
思い出す必要もないはずなのに、
昨夜のことが、まだ胸の奥に残っている。
リハーサルの合間。
短い休憩時間に、エリーはギターを手に取った。
昨日の夜、自然に形になってしまった旋律。
軽く弾いただけで、周囲の空気が変わる。
「……それ、新曲?」
「いいね。めちゃくちゃいい」
どよめきが、小さく起こる。
エリーは曖昧に笑って、もう一度だけ弦を鳴らした。
旋律は、確かに整っている。
甘く、やわらかい。
触れたところから、広がっていく音。
――でも。
何かが、足りない。
旋律はある。
けれど、あの夜に重なった、もう一つの息遣いがない。
エリーは、それ以上弾かなかった。
「……続きは、あとで」
そう言って、リハーサルに戻る。
*
同じ頃、翠はホテルのエントランスを出ていた。
タクシーに乗り込み、行き先を告げる。
窓の外、都心の街は、もう完全に朝の顔をしている。
部屋に戻ると、すぐに、柔らかい重みが足元に来た。
「……ただいま」
スコティッシュフォールドのシュガーが、すり、と体を擦りつけてくる。
急いで、新鮮な水を入れ替え、カリカリを皿に入れる。
シュガーは、肘に前足をそっと乗せて、小さく「にゃ」と鳴いた。
クリーム色の長毛。
妹が、勝手に名付けた猫だ。
「……はいはい」
翠は、少しだけ笑って、
シャワーを浴びた。
コーヒーを淹れ、
ピアノの前に座る。
鍵盤に指を置く前に、
一瞬だけ、ためらう。
昨夜のギターの旋律。
その上に重なった、自分の鼻歌の続きを思い出す。
音を、置いてみる。
——違う。
悪くはない。
けれど、何かが違う。
翠は、今朝、目にした譜面を思い出す。
あの旋律を、そっと、なぞるように弾いてみる。
リビングに、温かい光が差し込むような感覚。
包まれる感覚。
与えられている、という音。
——悪くない。
翠は、鍵盤から手を離した。
「……エリー……か」
ふと、口から零れた名前に、自分でも少しだけ驚く。
そういえば。
彼の名前。
あのメモに、そう書いてあった。
それ以上、考えない。
翠はカップを手に取り、別の仕事へ意識を戻した。
旋律と名前が、まだ、静かに胸の奥で重なったまま。
同じ朝。
同じ音を、それぞれが、別の場所で手放しながら。
まだ、
それを繋ぎ直す理由は、
どこにも、形になっていなかった。
——つづく
第4話では、
「出会わなかった朝」を描きました。
人は、何かが足りないと感じたとき、
すぐにそれを探しに行くとは限りません。
日常に戻り、
別のことをしながら、
その感覚をそっと胸に残したまま過ごすこともあります。
音も、気持ちも、
まだ形にならないまま。
それでも、
確かに同じ朝を生きている。
そんな距離感を、
大切にした回でした。
次のお話も、
静かに続いていきます。
また、お付き合いいただけたら嬉しいです。




