第四話
バスタブの中で、湯に映る自分の顔を眺める。
俺の母は、とても美しい女性だった。
金色の髪に、青い瞳。
小さな顔に白い肌。
絵画に描かれる、天使のようだと、誰もが褒め称えた。
だが俺は、そんな母親から、笑顔を向けられたことがなかった。
なぜなら、その容姿を誇りに思っていた母の唯一の汚点が、俺だからだ。
俺を身ごもっている時から、自分によく似た美しい赤子が生まれてくると信じていたのだろう。
この国では珍しい黒髪と、獣のような金色の瞳を持って生まれた俺を見て、母は絶望した。
俺が近付くだけで目眩を起こし、俺が母と呼ぶと発狂した。
ある時は呪だと叫び、ある時は知らぬ間に何者かに犯されたのだと泣き、ある時は子供のように笑い踊った。
狂っていく母を恐ろしいと思う反面、母親から注がれるはずだった愛情への憧れを捨てきれない。
そんな哀れな子供時代を過ごした。
アカデミーを卒業後、侯爵邸を出たい一心で、俺は近衛騎士団へ入隊した。
戦地ですら、居心地が良いと感じてしまう自分が情けなかった。
そんな中、母が身を投げ、それを止めようとした父も一緒に命を落としたという知らせを受けた。
地獄のような侯爵邸での日々は呆気なく幕を閉じ、俺は十六歳にして、ヴァルサタ帝国唯一の侯爵家の当主となった。
そこからの日々は、あまり覚えていない。
何かを感じている暇などなかった。
ただがむしゃらに、目の前の仕事と向き合い、体力の限界を迎えると、泥のように眠る日々だった。
それが、ヴァルサタ調査団を率いるようになると一気に変わってしまった。
ヴァルサタ調査団の指揮官を命ぜられてからは、身体の痛みに耐えることは無くなったが、日々己の決断に心臓を締め付けられるようになった。
そして、初めて調査を担当し、俺が犯人だと結論付けた貴族が処刑された日から、夜眠ることが出来なくなった。
正確にいうと、必ず悪夢にうなされ目が覚めてしまう。
そして一度目が覚めると、朝日を見るまで、恐怖と後悔に襲われ続けるのだ。
調査に漏れはなかったのか。
本当にあの者が、犯人だったのか。
自分に与えられた権限の重さに、押しつぶされそうだった。
誰にも頼ることができなかった俺の目の前で、確固たる根拠に基づいて罪を暴くルネの姿は、女神のように映った。
強引ではあったが、手元に置くべきだと直感した。
俺が下す結論を、少しでも補填してくれればと思っていたのだが…。
ルネは補填どころか、調査の軸を示してくれている。
「大した女だ」
俺は思わず呟いた。
そんなルネに、俺はかなりの信頼感を抱いているのだろう。
でなければ、ルネのおかしな提案を、この俺が受け入れるはずない。
(この本によると、高まった体温が下がる瞬間、人間は眠りに落ちやすくなるそうです)
男と女がベッドを共にして、体温を高める方法など一つしかない。
あいつはそれを分かっていて、一緒に寝ると言っているのか?
ふと、初めて朝食を共にした日を思い出した。
どう考えてもメイド達の仕業だが、朝食の場には不釣り合いなほど着飾ったルネを見た瞬間、不覚にも、生まれて初めてテーブルに膝をぶつけてしまった。
朝日を浴びたベージュの髪は、白く透明感のある素肌を際立たせ、眼鏡の奥に隠されていた長いまつ毛は、キョトンとした幼い表情とミスマッチで、たまらなく魅力的だった。
女性が喜ぶ褒め言葉など、いくつも知っているはずなのに、かける言葉が見つけられずにいると、突然ルネが距離を詰め、私の胸に手を乗せてきた。
紫色の瞳に捕らえられ、反射的に体を反ると、鼻先でルネが微笑んだ。
(公爵閣下…)
バシャン
俺は湯船に顔をつける。
いつもより鼓動が早い。
のぼせてしまったのだろう。
決して、緊張しているわけではない。
さっと身体を拭き、柔らかいシルクのシャツに袖を通した。
黒色のスラックスを履き、濡れた髪の毛にタオルを掛け寝室へ戻ると、いつもと違う、優しい香りが鼻をかすめた。
それは、女の香りだった。
ドキリと心臓が跳ねる。
期待とも不安とも取れる胸のざわめきを抱えながら、大きすぎる自分のベットに近づくと、小さすぎる、愛らしい生き物が丸まっていた。
「何をしている」
白いウサギのような後ろ姿がムクリと起き上がり、ふわりと髪をなびかせた。
俺のベットの上で、ルネが振り返り微笑む。
「侯爵閣下の枕の匂いを嗅いでいました」
「…」
聞き間違いだろうか。
完璧な笑顔と、奇妙な言葉が結びつかず、理解するまで時間がかかった。
「毎日メイドが寝具を取り替えている」
「はい。そのようですね」
笑顔のルネに近づく。
ベッドに腰掛けても良いのだろうか。
いや、そもそも俺のベッドであって、許可も得ないでルネが乗っていることの方がおかしい。
「侯爵閣下、こちらへ」
ルネは、自分の隣をポンポンと叩いた。
薄いベージュのネグリジェ姿のルネは、もはや神話の中の登場人物のようだった。
美しい湧き水の中で育った水草のように、一切の汚れを知らない、美しい少女。
何だか、自分が酷く汚れた存在な気がして、少し距離を開けて腰掛けた。
「濡れ髪のまま眠るのはよくありません。体調を崩してしまいます」
ルネは、座っている俺の後ろに回り、タオルで俺の髪を拭きはじめた。
突然頭に触れられたが、不思議と抵抗することは出来なかった。
俺は昔から、身の回りの事はなるべく自分で行うようにしてきた。
メイド達だって、この黒髪に触れるのも、金色の瞳と視線を合わせるのも、気味が悪いだろうから。
爵位を継ぎ当主となった今でも、浴室が付いているという理由から、この小さなゲストルームを使い続けている。
大の大人なのに、令嬢たちどころか、メイド達と目を合わせることすら出来ない。
実の母親に拒絶された過去は、今でも俺の首を絞め続けている。
そんな俺の瞳を、ルネはいつも真っ直ぐに見つめて、楽しそうに話をする。
だが、その眼差しは、決して俺だけに向けられているわけではない。
執事長にも、メイド達にも、料理人にも、ルネは同じ笑顔で接している。
自分の見た目を、ある意味特別だと思っていたことが恥ずかしくなるほどに、ルネには何の偏見もなかった。
ルネは時より、俺の頭を挟むように、指先にグッと力を入れた。
「頭皮を刺激されると、人間は眠くなるそうです。メイド達に髪を触られるたびに気持ちが良くて、よく眠気を感じたので、不思議に思って調べたんです」
ルネは、いつも通り自信満々だ。
「確かに、心地よいかもな」
誰かに髪を拭いてもらうのなど、いつぶりだろうか。
「侯爵閣下の髪色は、とても珍しいですね」
「…ふっ」
「侯爵閣下?」
驚きの余り、思わず吹き出してしまった。
貴族ならば、誰もが言及を避ける俺の髪色に対しても、何の抵抗もないのか。
「いや、すまない。気味が悪いだろう」
「なぜですか?」
「黒は、死を連想させるからな」
「なるほど。確かに間違いではありませんね。ですがそれは、黒という色に対するイメージであって、侯爵閣下の髪が気味悪いという理由にはなり得ません」
ルネは、グッと身体を俺に密着させ、肩口から俺の顔を覗き込んだ。
「私は、とても格好いいと思います」
ルネのまんまる眼鏡に写った自分の顔が、情けないほどに赤く染まっていくのが分かった。
俺は口元を隠しながら、顔を思いっきり背けた。
「か、格好いいとはなんだ。そんな表現は聞き慣れない」
「うーん、そうですね。『素敵』だったり『似合っている』と同じような褒め言葉です。ですがもっと、憧れや、惹かれるという要素が強い場合に使います」
惹かれる。
「そなたは…」
「はい」
「いや、何でもない」
俺は、いたたまれなくなって立ち上がり、ベットサイドに置いてあるブランデーのグラスに手を伸ばした。
「あ、侯爵閣下いけません。お酒は睡眠の質を下げます」
「しかし、これがないと寝付けないのだ」
「入眠はしやすくなりますが、夜中に覚醒してしまったり、眠りが浅くなることが報告されています」
「だったらどうすればよいのだ」
我ながら、駄々をこねる幼い子供のようだ。
ルネは、そっと俺の袖口を引っ張った。
「横になってください」
「…っ」
再び心臓が跳ね上がる。
いつもと違う、ルネのゆっくりとした口調のせいか、鼓動が益々早まっていく。
突然訪れた沈黙の中、ギシッとベッドが鳴る。
俺が横になると、ルネは柔らかいシーツを掛け、隣に入り込んだ。
「侯爵閣下」
ルネが、口を開く。
「なんだ」
俺は冷静さをひねり出し、何でもないように答える。
「その、灯りを消しますので、眼鏡を外してもよろしいですか」
「なぜそのような許可を必要とするのだ」
「あ、以前私が失礼なことをしてしまって…。その時に、侯爵閣下が、その…。眼鏡は掛けておけと仰ったので…」
鼻先で微笑む、ルネの顔を思い出した。
「すまない。あれは命令したわけではない」
「…」
ルネがじっと俺の顔を見つめる。
「どうした」
「いえ。侯爵閣下は、私のような私生児にも、『すまない』と言ってくださるのですね。先程、髪に触れた時も…」
「自分の非を詫びることに、相手の身分は関係あるまい」
ルネは起き上がり、ゆっくりと眼鏡を外した。
「…ありがとうございます」
その表情からは、喜びが溢れ出ていた。
ルネに、こんな顔をさせているのが自分だと思うと、今まで感じたことのない高揚感に包まれた。
もっと眺めていたかったが、ルネがふっと灯りを吹き消してしまった。
スルスルと、ルネがシーツの中に入ってくる。
布の擦れる音が官能的で、俺の心臓は赤子のように暴れ回っている。
次第に、目が暗闇に慣れていった。
ルネの白い肌が浮き上がる。
「暗順応です。侯爵閣下」
「あんじゅんのう?」
「目が、暗闇に慣れる現象をそう呼びます。暗闇の中だと、桿体細胞が活発になり、わずかな光でも感じられるようになるんです」
ルネの紫色の瞳が、月明かりに照らされる。
真っ直ぐに、俺に向けられている。
その頬に、触れたい衝動にかられた。
「私が幼い頃、夜になっても本ばかり読むので、義母にランプを取り上げられてしまったんです。暗闇の中で一人きりで眠るのが、怖くてたまらなかった。そんな時、父の書斎で暗順応について知りました」
ルネの生い立ちについては、改めて調べさせた。
母親を早くに亡くし、父親に見放されたルネと自分は、似ているような気がした。
「私たちの身体の中には、光を感じるための細胞が備わっている。しかもそれは、暗闇の中、わずかな光をも捉えられるほどたくましいんです。そう思ったら、暗闇も怖くなくなったんです」
ルネの声が弾む。
「それに、月明かりの下でも、頑張れば文字を追えるんですよ」
「そなたから光を奪えるはずないな」
「はい。誰であっても」
クスクスと、小さな肩を震わせるルネを、このまま抱きしめてしまいたいと思った。
もう認めるしかない。
俺は、ルネに焦がれているんだろう。
「…」
「侯爵閣下?」
「そなたに一つ、聞きたいことがある」