第三話
ルネが侯爵邸に来てから、一ヶ月が過ぎた。
メイドたちの報告によると、ルネは一日のほとんどを書斎で過ごしているようだ。
侯爵邸の書斎は、三階までの吹き抜けになっていて、その四方を囲む壁にはビッシリと本が並んでいる。
本棚、柱、壁の色に至るまで、歴史を感じさせる深いチョコレートブラウンの塗装で統一され、そこに流れる空気までもを一つの芸術作品と感じさせるような、美しい造りになっている。
二階部分までは、可動式のはしごが設置されていて、三階部分には本棚をぐるりと囲むように、せり出した通路が設置されている。
天井にはステンドグラスが、正面には大きな出窓が設置されており、日中は穏やかな日差しで満たされている。
その出窓にあわせてソファーが設置されているのだが、ルネはその場所が特に気に入っている。
クッションをいくつも持ち込んで、山のように積んだ本を、黙々と消化しているようだ。
ルネは集中して本を読む時、丸眼鏡に負けないほど、目をまん丸に見開き輝かせる。
巣を作り、獲物を蓄える、まさにネズミだ。
ルネの姿を思い出し、俺は思わず吹き出してしまった。
「え!侯爵閣下、今笑いましたよね」
調査団に所属する俺の右腕、ジャスティン・アセリア伯爵が、まるで幽霊でも見てしまったかのように、震えた声で尋ねる。
「黙って仕事をしろ」
俺はいつもの無表情でこたえる。
「失礼いたしました。そういえば、ルベラ領の横領の件、侯爵閣下のおっしゃったとおり、告発者の方も税を逃れていることが分かりました」
「そうか。告発者の取り調べはいつ予定しているんだ」
「明日です」
「だったら、告発者にこう言え。お前の罪を密告したのは、ルベラ領だと」
「承知いたしました。さらに情報が取れそうですね」
ジャスティンは、嬉しそうに書類を集める。
分厚い書類の束が、机でトントンと整えられる音を聞きながら、俺はルネとのやり取りを思い出していた。
「この、ルベラという領地の横領ですが、かなり巧妙に帳簿が改ざんされています。それも今年に入って突然…。告発した者のことは調べましたか?」
「告発者の素性は、ある程度は調べてある」
「何かおかしな点はありましたか?」
「特にはない」
ルネは考え込んだ。
「もしチャンスがあったら、ルベラ領の領主に、告発者が誰か教えてみてはどうでしょうか?」
「情報源を、犯人に伝えるというのか?」
「はい。この手の犯罪は、誰かの真似をしている場合がほとんどです。あそこの領地はこれで税を逃れているから、うちの領地もそれに習おうと」
「つまり、同じ犯罪をやっている者同士、お互いの手の内を知っているということか。…だから告発できた」
「はい。その黙認の信頼関係を、ちょんと崩してみれば、お互い足を引っ張り合ってくれるかもしれません」
ルネの働きは想像以上だった。
横領や脱税のような複雑な問題であっても、膨大な帳簿の中から糸口を見つけてしまう。
検視の報告書に対しても、法医学的な知識を活かして、我々とは違った角度から検証することができる。
そして驚くべきことに、ルネは根拠となる文献を、膨大な本の中からあっという間に探し出し、そのページを示すことができるのだ。
これほどまでに記憶力が優れた者に、出会ったことはない。
いずれにせよ、今日も彼女の働きで、見逃していた罪が一つ明らかになった。
ルネが好きな、マカロンでも買って帰ろう。
本に集中しているルネは、かなり無防備だ。
最近では、本から目を離さないルネの口に、菓子を運ぶのが日課になっている。
初めてマカロンを食べさせた時、あまりの美味しさに驚いて、勢いよく本を閉じたルネの姿を思い出した。
「侯爵閣下!やっぱり笑いましたよね」
「黙って仕事をしろ」
「おかえりなさいませ、侯爵閣下」
執事長のモリーがいつものように出迎える。
手荷物を受け取ろうとするも、それが菓子の箱だと気付くと、スッと身を引いた。
こころなしか嬉しそうなモリーを横目に、俺はまっすぐ書斎に向かった。
すっかり日が落ちている。
重厚感のある書斎の扉が、重たそうな音を立てた。
しんとした空間の中、天井まで靴音が響く。
書斎の中心まで進むと、温かい照明の光に包まれたルネが姿を現す。
いつもの定位置、出窓のソファーで、たくさんのクッションに埋もれながら本を読んでいる。
夜の空気が冷たくなってきた。
クッションのカバーを、ウールが使われている素材に替え、ブランケットを用意させなくては。
俺は、ソファーの横に積まれた本の上に菓子の箱を置き、チョコレート味のマカロンをルネの口元へ運んだ。
ルネは本から目を離すことなく、無意識に口を開け、マカロンを迎え入れた。
三口ほど噛んだあと、ビックリした顔で私を見上げた。
「侯爵閣下!おかえりなさいませ」
ルネが慌てて立ち上がろうとしたので、山脈の一部が崩れ落ちる。
「そのままでよい」
俺は本を拾い上げ、ルネに手渡す。
「ありがとうございます。これは、マカロンですよね。とても美味しいです」
ルネは、口をもぐもぐさせながら、頬を赤く染めた。
侯爵邸に来て食事量も増えたのか、ルネは健康的な顔色を取り戻していた。
「もっと食べなさい。ルベラ領地の件に対する謝礼だ」
俺は、イチゴ味のマカロンをルネの口に運ぶ。
「お役に立てて良かったです」
ルネは恥ずかしがる様子もなく、口を開けてマカロンを堪能する。
幸せそうな顔を見ていると、自然と満たされた。
どうやら俺は、小動物に餌付けするのが好きなようだ。
「今日はなんの本を読んだんだ」
最近の日課となっている質問をする。
「今日は、これです」
ルネは、一冊の古い本を見せてきた。
「これは…」
「待ってください!私が当ててみせます」
ルネが楽しそうに俺の言葉を遮る。
「これはずばり、侯爵閣下の一番好きな本ですね?」
へへっと笑ったあと、ルネが自信満々に言い放った。
「なぜそう思う」
俺は、仕事中の声の調子で説明を求めた。
「この本の表紙、とてもきれいですよね。でも、中身の紙はかなりよれています。つまり、ルリユール(製本職人)に依頼して製本し直してもらったということ」
「製本し直した本は、他にもたくさんある」
ルネは愛らしくむくれて、ソファーの横をポンと叩いた。
「侯爵閣下、こちらに座ってください」
俺は、念のため誰もいないことを確認してから、ルネの隣に座った。
「こうやって本を立てると、扇形に自然に開きます。これは、何度も繰り返し読まれたということ。そして、本を寝かせて、パラパラめくると、必ずこのページが開かれます」
ルネは、物語の終盤のページを開いてみせた。
『その騎士は知っていた。自分が握りしめているのは、ただの藁であるといこうとを』
ルネの紫色の瞳が、続きをせがんで見上げてくる。
俺は、ため息に隠れて微笑んだ。
『なんら恐れることはない。剣は既に、その両手に託されているのだから』
それを聞いて、ルネは満足げに微笑んだ。
「暗唱できるからといって、私の一番好きな本だという証明にはならない」
ルネは眉を寄せ、ページの両端についた小さなシミを指さした。
「ここを見てください。油のシミです」
「…」
「侯爵閣下、このシミに親指を合わせてみてください」
ルネは、ぐっと俺に肩を寄せ、強引に俺の腕を持ち上げた。
そして、シミに親指を合わせるようにして、無理やり本を持たされてしまった。
そんな俺の手に、ルネの小さく温度のない手が重ねられる。
「ほら、このシミ、とても小さいでさいですよね」
「ああ。私の指にはあわないが?」
「当然です。これは、幼い頃の侯爵閣下が付けたシミです」
「油と言ったな」
「はい。幼い子供の指につく油といえば、バターがたっぷり練り込まれたビスケットの油です。そして、この家で高級品であるビスケットを食べながら読書することが許された人物は」
「私だけだな」
俺は、抑えられない喜びを、ルネに向けた。
「降参だ」
ルネは、屈託のない笑顔で応えた。
身体が触れ合うほどの距離で、誰かにまっすぐに目を見つめられたのは、初めてかもしれない。
丸いメガネの奥で、誇らしげに輝くアメジストのような瞳には、下心も、策略もない。
それは、俺を安心させた。
「あと、もう一つ分かったことがあるんです」
「何だ」
ルネは、積まれた本の山から、一冊を選んだ。
「侯爵閣下は、不眠に悩まされていますね。それも深刻な」
不意に、後ろから殴られたような衝撃だった。
心臓が跳ねる。
そんな俺を見透かしたように、ルネは真剣な表情をしている。
これは、誤魔化せないだろう。
「そなたの言うとおりだ」
「ありとあらゆる方法を、試されたのでしょうね」
ルネの瞳に、憐れみの色が乗る。
不眠に関する文献の量に、さぞ驚いたことだろう。
「異国の方法は試されましたか?例えば、アジオの方法は?」
「いいや。まさか、アジオ語が読めるのか」
「はい」
驚いた。
小国の言語に歩み寄る必要のない大帝国には、異国の書物を読解できる者などほとんどいない。
ここにも何冊かアジオの本はあるが、手に取ったことはなかった。
「侯爵閣下、試してみませんか?私がお手伝いします」
「ああ」
なぜか、すんなり受け入れてしまった。
そして、すぐに後悔することになる。
「この本によると、高まった体温が下がる瞬間、人間は眠りに落ちやすくなるそうです」
「身体を温め続けるのではなく、冷ます…」
「はい。なので、今夜は私が閣下と一緒に寝ます」
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
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