第二話
お尻に伝わる、地面のデコボコ。
馬の蹄の規則的なリズムに、窓から入り込む冷たい夜の風。
全てが新鮮だった。
本の中でしか知らなかった、城下街の賑わいに目を奪われていると、急に現実に引き戻された。
「そなたが、書斎のネズミか」
狭い馬車の中、向かいに座るカロン侯爵が、私をまっすぐ見つめている。
感情の読み取れない、黄金の瞳。
城下街の灯りを無機質に反射させ、目の下のクマがより深まって見える。
きちんと整えられた黒髪に、彫刻のような端正な顔立ち。
その完璧さと動かない表情が、冷徹な男を演出している。
「私をご存じなのですか?」
「ジェラール伯爵邸の私生児は、書斎から一歩も外に出ないと。まさか、真実ではあるまい」
カロン侯爵が疑うように目を細める。
「はい、真実ではありません。寝るときには、自分の部屋に本を持って戻りますから」
「…」
何を驚いているんだろう?
アイザック・カロン侯爵。
若くして、ここヴァルサタ帝国唯一の侯爵家の当主となった秀才。
剣の腕も確かで、一時期、近衛騎士団の副団長を務めていた男だ。
その冷徹さと判断力が皇帝陛下の目に留まり、現在は皇室に新設された「ヴァルサタ調査団」を率いている。
ヴアルサタ調査団とは、主に高位貴族が犯罪に巻き込まれた場合に、その事実を確認し、責任の所在を明らかにする公の機関だ。
その上で、当事者を貴族裁判にかけるのか、皇帝陛下に処罰を委ねるのかを決定する。
つまり、かなりの強制力と権限を皇帝陛下から付与されているということだ。
正確な調査団の数も素性も、機密事項とされているが、帝国の優秀な頭脳が集結していることは、私でも知っている。
「カロン侯爵閣下のほうが、遥かに有名人です。ご活躍は、私のような者の耳にも入ってきていますので」
そんなカロン侯爵が、一体何のために私を連れ出したのだろう。
青い顔で、言葉を失った伯爵夫人とマリアを横目に、私はカロン侯爵に手を引かれ、荷物も持たずに馬車に乗せられてしまった。
といっても、あの邸宅に私の物など一つもないのだけれど。
物心つく頃には、母は亡くなっていた。
父は邸宅に全く寄り付かず、皇室医師としての仕事に没頭していた。
突然現れた義母も、いつの間にか生まれた妹も、私生児の私をゴミのように扱い、使用人でさえ、私を蔑んだ。
(幸いにも、それが行き過ぎていることと知ったのは最近のことだ)
幼かった私は、寂しさを紛らわすため、邸宅内で唯一母の肖像画が飾られていた書斎に入り浸るようになった。
医学的な本や論文が多く、誰も立ち寄らない薄暗い書斎。
だがそこは、私にとって唯一の安息の場であり、溢れ出す好奇心を満たしてくれる場所でもあった。
本は、私の母であり、父であり、友であり、師だった。
「本が好きなのか」
カロン侯爵が呟く。
「はい。大好きです。本がない人生など、考えられません」
私は、突然離れることとなった伯爵邸の書斎を思い出し、感謝と、愛情を込めて、心から微笑んだ。
そんな私を見て、少したじろいだ様子を見せたカロン侯爵が、再び口を開いた。
「侯爵邸の書斎は、帝国一だと言われている」
私は、反射的に瞳を輝かせた。
「私の望みを受け入れるのであれば、そなたにやろう」
え?
やろうって…私にくれるってこと?
帝国一の書斎を?
本は、この世に存在し、また存在していた人々の、知恵と思考の集合体だ。
本を開くだけで、作者の魂に入り込むことができる。
つまり私にとって、帝国一の書斎とは、世界と同等の価値があるのだ。
私は、ゴクリと生唾を飲み込み、念のため確認してみた。
「侯爵閣下の、お望み…とは?」
カロン侯爵は、表情を変えることなく答えた。
「私の仕事を手伝ってほしい」
「…仕事というと、調査団のお仕事ですか?」
「そうだ」
思いも寄らない申し出に、完全に面食らってしまった。
「私は、生まれてから一度も働いたことがありません。どのようにお手伝いをすればよいのですか?」
「そなたは侯爵邸にいてくれれば良い。私が持ち帰った案件に対して、意見を聞かせてほしい」
侯爵邸で、ただ意見を述べるだけ?
それで、侯爵邸の書斎をもらえる?
世間知らずな私に意見を求めたところで、何ら役に立つとは思えないけれど。
「そのためにそなたには、私と婚約してもらう」
「婚約してもらう?」
無表情な男からの突然の申し入れに、私も感情が追いつかず、思わずオウム返しをしてしまった。
「婚約?」
ジワジワと、言葉の意味が頭に入っていくとともに、目眩に襲われた。
婚約とは、男と女が交わす結婚の約束だ。
つまり、婚約をするということは、そのうち結婚するということであって、結婚するということは…
「あくまで建前としてだ」
「え?」
私の思考の暴走を制止するように、侯爵が冷たく言い放つ。
「突然、伯爵令嬢を我が邸宅に連れて行くとなると、理由が必要となる。もっとも簡単に周りを納得させられる理由が、婚約だ。私がそなたを見初めたことにする」
帝国唯一の侯爵が、伯爵家の私生児と婚約なんてかなり強引だが、確かに周りを納得させる理由としては最適だろう。
「そなたに対する愛情は、当然抱いていない。これからもそれは変わらない。そなたの能力を見極め、必要だと判断した際には婚約を破棄し、調査団へ迎え入れよう」
私は、何故か手の甲にキスをされた瞬間を思い出した。
「分かりました。どのみち、私には行く場所がありません。素晴らしい機会を頂き、感謝申し上げます」
「では、契約成立だ。私はそなたに書斎を、そなたは私に、その知識と知恵を与える」
侯爵は、私に右手を差し出した。
私は、何だかワクワクする気持ちで、その右手を掴んだ。
馬の鳴き声が聞こえたと思ったら、静かに馬車が止まった。
どうやら、侯爵邸に到着したようだ。
侯爵は、華麗に馬車から降りると、私に手を差し出してくれた。
伯爵邸で、必要最低限の教養は受けてきたが、誰かにエスコートされるのは、生まれて初めてだった。
そう気付いた瞬間、初めて自分のみすぼらしい姿について意識した。
私は侯爵の手は取らずに、馬車から飛び降りた。
「おかえりなさいませ、侯爵閣下」
馬車を降りると、メイドや執事がずらりと並び、頭を下げていた。
侯爵は、慣れた手つきで羽織っていたマントを執事に手渡す。
「閣下。こちらのお嬢様は?」
マントを受け取った執事が口を開く。
おそらく最年長…執事長だろうか。
白く濁った瞳に、舐めるように見定められる。
「私の婚約者だ。名をルネという」
「承知いたしました」
それを聞いた執事も、その場にいたメイドたちも、誰一人として顔色を変えない。
伯爵邸の使用人たちのように、私を嘲笑ったり蔑む者はいなかった。
「ルネ様。私達がご案内いたします」
若い三人のメイドが私の前に並び、丁寧にお辞儀をしてくれた。
とても美しい所作だった。
こんな汚らしい姿の私に敬意を払ってくれるなんて、何だか勿体ないような気がして、申し訳なかった。
見慣れた部屋で剣をおろし、煌びやかすぎるジャケットを脱ぎ捨てる。
俺は、ベッドサイドに置かれたブランデーを、少しだけグラスに注いだ。
グラスに、自分の金色の瞳が反射する。
(本当に、私が産んだ子なの!?黒い髪に金色の瞳…まるで獣だわ!ピクリとも笑わないだなんて、気味が悪い)
幼い頃、精神を病んだ母に、何度もぶつけられた言葉が呪のように蘇る。
俺は一気にブランデーを煽った。
嫌なことを思い出してしまった。
これからまた、夜がやってくるというのに。
「おはようございます、ルネ様」
音をなるべく立てないように、ゆっくりとカーテンが開けられる。
丁寧でいて優しいメイドの声かけで、自然と目が開く。
まどろみのない、爽やかな目覚め。
「おはようございます」
私はムクリと起き上がる。
「よく眠れましたか?」
「はい。こんな素晴らしいベッドで眠ったのは初めてでしたので」
メイドは、優しく微笑んだまま、ルームシューズを履かせてくれた。
「いつもは、どのように眠ってらっしゃったのですか?」
「本を読みながら、机で眠ることがほとんどでした。あとは、本を読みながらカーペットの上で寝たり」
「ルネ様は、本がお好きなのですね。後ほど書斎にご案内するようにと、侯爵閣下より申し使っております」
書斎という言葉に、心が躍った。
「ですがその前に、侯爵閣下より朝食のお誘いがございます。お支度をお手伝いいたします」
(あくまで建前としてだ)
そう、私は婚約者。
帝国一の書斎のために、きちんと役目を果たさなさなくては。
「おはようございます、侯爵閣下」
案内されたドアを一歩入り、私は美しいピンク色のドレスを広げ、丁寧に挨拶をした。
綺麗に整えられた髪が、さらりとなびく。
ドンッ
ガシャン
ダイニングテーブルで、食器が小さく音を立てた。
誰かが足をぶつけたのだろうか。
ぼやけて見える人影が、こちらに無言で近づいてくる。
メイドたちに、眼鏡を取り上げられてしまったので、誰だか分からない。
私は、目の前で立ち止まった人物の胸に両手を添えて、ぐっと顔を近づけた。
どことなく熱を帯びた、黄金の瞳と目が合い、私はホッとして微笑む。
「侯爵閣下」
「…っ。眼鏡はどうした」
「こちらに」
近くにいたメイドが、さっと眼鏡を差し出す。
「かけておけ」
そう言うと、足早にテーブルに戻って行ってしまった。
とても不機嫌そう。
私は、メガネを外すとほとんど何も見えない。
それこそ、鼻先ほどの距離でないとピントが合わないほどに。
さすがに閣下の顔を確認するのは、失礼だったようだ。
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「捜査会議を公爵邸で〜純愛?溺愛?執着?いいえ、私が知りたいのは真犯人です〜」も連載中ですので、お時間がある時に是非読んでみてください。