四章十八話 名前を書く机
《辺境者の歌》 四章 十八節
『名を書く机には、名のない責めが小さな石として置かれる。』
翌朝、西詰所の掲示板には、赤い札が一枚増えていた。
旧木炭道、通行止め。文字は太く、雑だった。でも、よく見えた。
掲示板の右下。雨に濡れにくい場所。
昨日、僕が報告書に書いた崩落地点が、たった一枚の札になって貼られている。
それだけのことなのに、しばらく目が離せなかった。
紙に書いたものが、道を止める。当たり前のようで、少し怖い。間違って書けば、違う道を止める。
書かなければ、誰かが落ちるかもしれない。僕は掲示板の前で、荷袋の紐を触った。
「朝から札に見とれてる新人は珍しいな」
ラドの声が後ろからした。
「自分が書いた場所なので」
「自分が書いた場所、ね」
ラドは札を見て、鼻を鳴らした。
「道を止めるのは気分がいいか」
「よくはないです」
「なら、まだましだ」
そう言って、ラドは掲示板の端に別の紙を貼った。
紙には、北見張り線外の小屋群巡回、水位杭の確認、軽補修、荷運び経路の確認がまとめて書かれていた。
複数名推奨。
継続受注はクラン優先。
最後の一行で、目が止まった。
「クラン優先」
声に出していた。
ラドがこちらを見る。
「知らないのか」
「名前だけは」
「冒険者が組む看板だ。大きいところは討伐団みたいなもんだが、小さいところは荷運び、見張り、保守、記録の寄り合いもある」
「寄り合い」
「お前が好きそうな地味なやつだ」
好きそう、という言い方に引っかかった。
でも、否定できなかった。
「個人では受けられないんですか」
「受けられる紙もある。だが、継続は別だ。誰か一人が熱を出しただけで途切れると困る。名簿、保証人、連絡先、代わりに行けるやつ。そういうものがいる」
名簿、保証人、連絡先、代わりに行ける人。
挙げられるたびに、少しずつ気が重くなった。
「クランって、強い人たちが作るものだと思っていました」
「強いやつだけで組むと、だいたい荷札をなくす」
ラドは真顔で言った。偏見ではなく経験らしい。少し笑いそうになって、こらえた。
✶
報告机の上には、昨日の控えが置かれていた。
旧木炭道の崩落。止血瓶四本、巡回経由で上流へ引き継ぎ。水位杭、一本と少し水没。
未確定視認記録。リゼルは、それを一枚ずつめくった。
「止血瓶は届いた」
最初に言われたのは、それだった。
「よかったです」
「伐木小屋の男は指二本を縫ったらしい。間に合ったと報告が来ている」
指二本。
その言葉で、昨日見えた瓶の数字を思い出した。
二本割れた。四本残った。指二本。
数字は、紙の上にあると静かだ。でも、実際には人の手についている。僕は自分の指を軽く握った。
最近は、見る前に何を確かめたいかを決めるようにしている。今度は、瓶の残数と、使われた場所と、次に同じ数が出るかどうかを知りたかった。
三つとも、今回はそろって見えた。前より安定している気がする。ただ、油断すると見間違える。だから、まだ紙には慎重に書く。
「それで、あの継続依頼ですが」
言いかけると、リゼルは顔を上げた。
「早いな」
「見るだけです」
「見るだけの顔じゃない」
そう言われ、口を閉じた。
リゼルは机の引き出しから、薄い書類を一枚出した。
クラン仮設立申請。
文字を見た瞬間、背中が少し伸びた。
「なぜこれを」
「昨日の報告書を読んだからだ」
「報告書で、ですか」
「個人の報告としては細かい。継続依頼の下地としては使える。お前が毎回一人で行くなら、いつか途切れる。なら、途切れない形を考える方が早い」
リゼルは書類を指で叩いた。
「ただし、看板は便利だが、逃げ場所にも言い訳にもならん」
「はい」
「名前を書けば、その名前で受けた失敗も残る」
名前。昨日まで、名前は呼ばれていた。羽黒承。
西詰所に顔を覚えられるためのもの。依頼票に書かれるためのもの。でも、ここでは違う。
名前は、道を止める札の隣に残る。荷を引き継ぐ紙に残る。失敗した時、次に誰かが見る欄に残る。
「僕一人では、クランになりませんよね」
「ならん」
「保証人も必要ですか」
返答は短いのに、紙の余白だけがどんどん狭くなっていった。
「必要だ」
「資金は」
条件が一つ増えるたび、僕の指は紙の下へ逃げた。
「最低額はある」
「名前は」
「当然いる」
全部、重い。
なのに、書類から目が離せなかった。
「なぜ、僕にこれを見せるんですか」
リゼルは少し黙った。
「お前は、道を止める紙を書いたあとに、その札を見に来た」
「はい」
「そういうやつが一人くらい、軽依頼の看板を持ってもいい」
褒め言葉には聞こえなかった。
でも、机の上に置かれた書類は動かなかった。
僕はそれを見た。クラン仮設立申請。
上の欄に、まだ何も書かれていない。空白が、妙に広く見えた。
✶
昼前、ニコが西詰所へ顔を出した。
膝にはまだ布が巻かれている。
でも、昨日より歩き方はましだった。
「瓶、届いたって」
「聞きました」
「母ちゃんに怒られた」
ニコは片手で首の後ろを掻いた。
「少し?」
「かなり」
ニコは不満そうに言い、それから掲示板の赤い札を見た。
「あれ、俺のせい?」
「道が崩れたせいです」
「でも、俺が入った」
「入ったから、分かりました。いや、たぶん、入らなかったら僕も見なかったと思います」
ニコは少し考えて、納得していなさそうな顔をした。
「変なの」
「僕もそう思います」
そう答えると、ニコは少し笑った。
それから、報告机の上の書類を見た。
「なにそれ」
「クランの申請書です」
「クラン作るの?」
ニコは紙の上に落ちた影ごと、こちらを覗き込んだ。
「まだ、見るだけです」
言ってから、ラドとリゼルに同じようなことを言われたのを思い出した。
ニコは、僕と申請書を交互に見た。
「作ったら、道の札とか増やすの?」
「たぶん、そういう仕事もします」
「じゃあ、名前は分かりやすいやつにして」
「どうして」
「子供でも読める方がいい。読めない札、意味ないし」
それだけ言って、ニコは受付の方へ行った。取り残された僕は、申請書の空欄を見た。子供でも読める名前。
そんな条件が増えた。でも、不思議と嫌ではなかった。
大きな名前はいらない。強そうな名前も、たぶん合わない。
読めて、戻れて、次の誰かが間違えにくい名前。
そういうものが必要なのかもしれない。
僕は申請書の端に、まだ本欄ではない小さな余白を見つけた。
そこに、鉛筆で短く書いた。道しるべ。書いてすぐ、少し恥ずかしくなった。
でも、消さなかった。まだ名前ではない。ただの候補だ。
それでも、空白だった紙に、初めて文字が乗った。
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