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時間を食べるバク  作者: 花咲 潤ノ助、檜慈里 雅(リレー小説)
50/50

エピローグ いつかのバク (檜慈里)

 胸のあたりに鈍痛が走っている。叫びが遠くで聞こえた。声の主は女性のようだ。


 どうも悪夢らしい。もう最近は見なくなっていたから、安心していたのに。不意に顔を撫でられる。その感触が、頭から顎のあたりまで流れ落ちていく。


「……ねえ、起きて」


 子供のような声だった。


 アヤ?


 私は返事をしようとしたが、うまく届いたかどうか。体は動かず、確かめることもできない。




「おひげ、じょりじょり」


「うん?」


 ようやく眼が開くと、おさげを結った小さな女の子が、私の顔を触って遊んでいた。


「なんだ、由芽か。おはよう」


「なんだじゃないよ!パパ、今日は動物園の日だよ!ほら起きて」


 ……意識が現実に戻ってくる。


 ああ、そうだった。春休みのうちに、娘を動物園に連れて行く約束をしていたんだった。




「ママ!パパ起こしてきてあげたよー!」


 流石に8歳ともなれば、階段を降りる足どりは大人より元気がいい。私は手すりを伝い、慎重に踏み出していく。


 40歳を過ぎたあたりから時々、どうも左膝が不安だったりするのだ。




「おはよう」


「おはよう。パパ、先に朝ご飯食べちゃいましょ」


 キッチンではアヤが忙しく準備してくれている。時計はもう9時を回っていた。


「永斗、おはよう」


 居間。大型テレビの前に座る息子から、返事はない。ファンタジー風のアニメに夢中のようだ。




「……死なないでよね。絶対」


「ああ。だからおまえも、絶対に生き続けろよ。再会の時までな。


……大丈夫だって!何回生まれ変わっても、おまえを迎えに行くからさ。来世だろうと、来来来世だろうと!」


 雨の中、片腕を失ったようで血塗れの若い男が、それでも微笑みを浮かべている。




「何だこれ、今放送してるのか?朝にしては刺激が強いな」


「録画だよ。これ、深夜やってるやつ」


 やっと言葉を返してきた息子。まあ、中学生はこういう時期なのだろう。


「ふーん、じゃあいいか。永斗、みんなでご飯食べよう」


「いやいや!あのさー、父さんが起きるのを待ってたんだよ。さっきからみんなで」


「ああ。それは、すまん」


 返す言葉もない。社会人もなかなか大変なんだぞ、なんて言おうにも、まだ相手は義務教育の真っ只中である。




 ……車で40分、近場の動物園。門の周辺には桜が咲いていた。入場券売り場の前、永斗が由芽をトイレに連れて行く。少しの間、私はアヤと二人になった。


「パパ、大丈夫だった?由芽がね、パパが朝うなされてたかも、って言ってたから」


「今日のこと?ああ、それは心配ないよ。今はちゃんと記憶も繋がってるし、もしまた何かあったら真っ先に言うから。アヤにだけは、ね」


「うん。どんな時だって、あたしだけは頼りにしなさい!えへへっ」


「はーい、頼りにしてます」


 また少しくらい、二人の時間もつくるようにしていかないとな。エリアマネージャーの立場になって以来、収入は増えても家庭の諸々をアヤに頼りきってしまっている。


 せめて少しの間だけ、昔のように手を繋いでみた。




「パパ!あれ見て、あの白黒のやつ!あれ何!?変なのー!」


「何だろう?」


 由芽が説明文のプレートに駆け出し、永斗もその後について行ってやる。


「由芽、これバクだよバク。マレーバクってやつ」


「バク!なんか気持ち良さそう。かわいい!」


 私とアヤもゆっくりと柵に近づいた。そうか、本物の「バク」って見たことなかったな。


 白黒模様で、丸っこい体に少し長い鼻の、いかにもおっとりした生物が、飼育員の女性にブラシで体を擦ってもらっている。だらしなく寝そべって、何とも気持ち良さそうだ。


「ミライくんっていう名前なんだって!ぜんぜん動かないね、パパみたい」


「こら、由芽!」


 アヤが笑いをこらえつつ叱ると、周囲にいた客からも笑いが起きる。こりゃ一本とられたな。


「ねえ、時雄。あれがバクだってさ」耳元で囁いたアヤが少し意地の悪い顔をして、私を見る。


 しばらくしてやっと顔を上げたバクは、キューキューと甲高い声で鳴いた。少しだけ私と目が合った……ような気がした。




 何だろう、イメージしていたのと違うな。由芽の頭を撫でつつ、ふと何の衒いもない感想が、私の口から零れていた。


「うん。思ってたより愛嬌のある奴じゃないか、バクってのは」




 二人のリレー小説『時間を食べるバク』にお付き合いくださり、ありがとうございました。こんなに長く続くとは!


 結局、最後まで作者同士の打ち合わせはゼロのまま完結してしまいました。


 私のテキトーな思いつきに、いつも全力で応え続けてくださった花咲潤ノ助氏に感謝!

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