フェルビースト
四本の足を全力で動かす。
あつい。
地面がどんどん流れて行って、茂みに突っ込めば道を空けるように横に割れ、耳元で風を切る音は今までで一番激しい。
自分の吠え声が遠い。
体が燃えている。
四つの足で走るのはこれが初めてだ。足が縺れてうまく走れないんじゃないかという懸念がどこか自分の奥深いところから湧いて出て、すごく走りにくい気がしていたが、実際は何とかなっていた。
私は混乱していた。
直前まで、目の前にいたのは毛なし猿だったのに。臭いを嗅ぐのと同じように、目に見えるもの以外のことを確かめようと内側を覗いたら、その若い雄の毛なし猿の裏側にはあの獣がいたのだ。
圧倒的な存在感を放つ、圧倒的に大きな、火を着た獣だった。暗がりの中に潜み、深く眠っていた。無垢に見えるほど無防備な寝姿を晒し、穏やかな顔をしていた。
もしその目が開けばそれは星々の瞬く夜空の色で、限りない慈愛をたたえてこちらを見ただろう。何も根拠はなかったが、強くそう思った。それもまた、すぐにでも力の交流を止めるべきだったところを、意図せず接続を強めすぎてしまった理由といえる。
お兄さんに止めてもらわなければ自力では止められなかったというどうしようもない事実はこの際置いておく。好奇心が猫を殺した一例として私の胸に秘めておく所存だ。
話を戻す。
どんなに目の前の偉大な存在を慕わしく感じようとも、私はその状況下では闖入者でしかなかった。覗いてはならない所にまで踏み入って見るべきでないものを見ているのだと、その獣を見て悟った。
そっと引き返せば見つからないはずだったのに、私はそれに失敗した。
見つかったのではない。獣は寝ていたのだから。火が唸りを上げてのたうち、驚きに凍りついた私の中に、勝手に流れ込んできた。
絶対に目を覚ますことはない獣が、あっけなく私を塗り替えた。眠っていてもその獣は私より強かった。その気配を嗅ぎ取っただけでその気配に染まってしまうほど強いのだ。
振り解こうとしたのにできず、遮られても間に合わなかった。
そんなつもりもないままに、私はあの火の毛皮の獣の姿を映し取っていた。
あるいは、私が弱いせいかもしれない。
獣が目を覚ましていたとしても、私を乗っ取るつもりなんてなかっただろう。ただ、突然総身を駆け巡った強い力の奔流にどうしていいかわからず、心に満ちた混乱に支配されそうになって、怖くなって、逃げた。
お兄さんが呼んでくれなかったら、どうなっていただろう。
私は私を忘れそうになっていた。お兄さんに促されて、弟と、弟に寄り添う慕わしい気配の毛なし猿の雌の子を見なければ、私は自分が何なのかも忘れて、その場で彼らをひどい目に遭わせていただろう。彼らの驚愕に満ちた目もまた、私の恐れを煽るものだった。
今は少しでも、がむしゃらに走って、この得体の知れない恐慌と熱さから脱したい。
それから長い間、走り続けた。
私の体から出てくる火に焼かれて、森の草木が苦悶の声を上げている。
私も熱くて喚いていた。
喚きながら、低く差し交わされる枝の下をジグザグに走り抜け、火を振り切ろうとした。樹に体当たりをした。雪が残る茂みを転がり、何度も沢に飛び込んだ。
それでも、体の火は消えない。
走り続けるうち、何のためにこんなに必死に走っていたのか思い出せなくなった。
ごろごろと空が唸っている。ああ、雨が来る。天の助け。
いいや、違う。天は関係ない。あの雨は呼ばれて降り出そうとしている。おじいさんが雨雲を呼んでいる。
そのことに思い至って、唐突に思い出す。
彼は偉大なる祖の眷族。果てしない時を渡ってここを守ってきた長老。この森のまことの主。衰えたりといえど、その力はいまだ天気一つ変えることなど造作もない。
お父さんから少しずつ聞いてきた以上の事実を整然と並べたてたのは、私の中に流れ込んでぐるぐると渦を巻いて走り出したくて堪らない気持ちにさせる、あの獣からもたらされた知識だ。
それは私にこの結果を正しく教えた。
力は何の代償もなく揮えるわけではない。この広大な森を覆い尽くすほどの雨を降らせれば、どれほどの歪みを生むだろう。おじいさんはそれを全て自分の身で購うだろう。彼は衰えているというのに。
そんなことも失念していたとは。なんということだ。
足を緩め、止まった。
俄かに降り出した豪雨が作りだしたぬかるみが跳ねて、前脚から燃え上がる火に阻まれ、途中で乾いて落ちる。背に降り注ぐ水の粒が焼かれて一回り小さくなって、腹を伝って落ちていく。
体の火は消えない。そうだ。この火はこの獣の体の一部。消えるわけがない。
体の一部なのに熱いのは、私の物ではないからだ。この体は、本来、私の物ではないのだ。形だけ真似しているにすぎないから、本質の異なる火がこんなにも身を焼くように感じられるのだ。
体の向きを変えて、来た方向をようやっと振り返る。
私が樹に体当たりをした時。茂みをくぐり抜けた時。地に身を投げ転げ回った時。私の体を取り巻く火は私の体を離れ、森の罪のない草木に移ったはずだった。
火の手はもうどこにも見えない。それが大きかったのか小さかったのかももうわからない。雨が残らず消し去ってくれたからだ。
私が森に撒き散らしてきた火を消すために、おじいさんは雨を呼んだのだ。森を守るために消火しなければならないからだ。
私は一度は私を受け入れてくれた森への裏切りを働いた。その尻拭いのための負担がおじいさんの身に堪える。それはいけない。
私は私から出た錆を拭わなければならない。
(おじいさん。おじいさん!)
どこにいるのかわからない長老に一心不乱に訴える。自分が吠えているのか、心で吠えているのか、意識の慮外にあった。でも、長老には必ず言葉が届くと今ならわかっていた。
(遅くなってすみません。過ちに気付きました。雨を止めてください。まだ水が必要なら、私がかわりにやります)
(そうしておまえは干からびて朽ち果てるというわけか。そも、おまえが自分が何をしておるのかもわからんと力を使ったばかりにかような仕儀と相成ったのであろうが。懲りもせず同じ轍を踏もうというのか、たわけめ)
間髪入れずに帰ってきたのは間違いなくおじいさんからの返事だった。この広大な森の只中の、我が家から一日ほど東の地点にいらっしゃるようだ。頭の中に切れ味鋭く斬り込んでくる、強く鮮やかな思念。弱った心身を酷使して疲れているはずなのに、どこまでも揺るがない精神と確かな自己。私の目にはとても眩く映る、羨ましく慕わしい、確固たるあり方。
とにもかくにも、私が火を撒くなどというトチ狂った真似を止めたことも、正気を取り戻したことも伝わった。
果たして、ぬかるみに穴を穿つほどの豪雨が勢いを落としていき、密やかに身に絡みつく霧雨に変わった頃、細かな雨を断ち割ってお父さんが現れた。
お父さんも四本足になっていた。恐らく魔境にいたんだろうに、急いでここまで来てくれたのだ。
「ジェオから報せを受けた時には自分の頭を疑ったぞ。体調はどうだ。頭は痛まぬか。ああ、そもそも、私がわかるか」
「お父さん」
「そうだ」
立派な牙の間から長い舌をだらんと垂らし目尻を下げてほっとした顔をしたお父さんは、蛇のように長い尻尾をくねらせながら歩いてきた。牡牛ほどもある立派な水狼の姿をしている。耳に中栓があり目に膜を下ろすことのできるこの生き物の体なら、土砂降りの中でも行動を妨げられないで済む。
「体が燃えて熱いです。他にはどこも辛くありません。ずっと熱いです」
お父さんは少し困った顔をした。水狼の顔に眉はないが、眉があるべき位置が少し下がっている。
「それはフェルビーストの祖の火だ。ジェオの言った通りだったか」
「お兄さん?」
お兄さんもここまで来てくれたのだろうか? ざっとあたりを見回してもそれらしい姿も気配もない。
「おまえが先程長老に呼びかけていたのと同じ手段で、父さんにお前の異変を報せ、保護してくれと言ってきたのだ。あちらではウルリカとケイセイが動揺していて目を離せないからとな」
私の中に、もう一つ正気の楔が勢いよく打ち込まれた。そうだ、私の弟。
あいつには私が何をしたのかわかっただろうか。わからなくても、目の前で起こったことだけでも気を揉むには十分すぎるじゃないか。昨年、私が熱を出した時にも、泣くほど心配していたとウルリカが言っていたのに。またひどい思いをさせたに違いない。家族を失うかもしれない恐怖なんて、二度と味わわせてはならないものなのに。
ウルリカだって、どんなにショックを受け、心配しているだろう。
お父さんはまだ困り顔のまま、心配そうに言った。目の上に眉毛を描き込んだら、絶対八の字になってるに違いない顰め具合だ。
「イズリアルどのの血に眠る祖の姿を映し取ってしまったのだな。その火はフェルビーストの血を正しく継ぐものでなければ、何者であれ身を焼くものなのだ」
イズリアルさんの先祖?
首を傾げたところで、私はまたも誰からも聞いた覚えのない知識を、身の内で煮え滾る行き場のない力の渦から勝手に拾い上げていた。
それがフェルビーストだ。日本語ではヘルビーストと表記する方が近い発音となる。直訳すると地獄の獣。
しかしながら、こちらの世界では特にそんな意味はない。ビーストという言葉が獣を表すということもないし、単純に、その獣が持っていた名前がそうであったから、今に伝わっている。
今は昔、この辺境と魔境の境界を守る偉大なる獣がいた。魔境の番人としてそこに住まう全ての生き物から畏怖と信仰を集めていたその偉大なる獣は珍しい赤い毛皮と火を纏い、咆哮の一つで空を塗り替え大地を割った。あまりにも強大な力を持つために地上に軽々しくは出られなかった祖は毛なし猿との間に種を残して、己に代わって毛なし猿の側の境界を守るべしと任じ、魔境の奥へと戻った。それがヴォジュラ領の主であるフェルビーストの祖だ。
大昔のことだ。その言い伝えが人の間にどれほど浸透しているか定かでない。イズリアルさん本人もそれを知っているかどうか怪しい。
だけど今の私は、それが事実であることを知っている。彼の血から読み取った情報を元に姿を書き換えてしまったのだから。
長い時を経て混血が進み、今やその体は並みの毛なし猿と変わらぬものとなり、その血は魂の奥底で余喘を保っているに過ぎない状態であるとしても、イズリアルさんとその家族は、間違いなくフェルビーストの祖の流れを汲む人間なのだ。
そういえば、私は家から逃げ出す時、イズリアルさんにも何か失礼をしたような。
あの時は自分の変質に驚き、またイズリアルさんの方から流れ込んでくる獣の火の気を振り払おうと半ばパニックを起こして闇雲にもがいていたので、具体的に何をしたのかは記憶にない。
でも、一旦開通した力の通り道を断ち切るために、私はかなり強引にそこから通い合っていたイズリアルさんの力を押しやり威嚇したのではなかったか。蛇よろしく私に食い付いてきた火の獣を遡れば、的確なやり方かどうかはともかく命中率100%で反撃はできたはずだ。
はずというか、した気がする。
お兄さんが体を張ってそのほとんどを受け止めてくれたんだった。あんな混乱した、暴力的な力の暴走を。
それを肯定するように、お父さんが言った。
「おまえの今の状態は力の暴走によるものだ。なまじお前の力が強いばかりに、その性質までも映し取ってしまったのだろう。元の姿に戻れないか? 変化が解ければその火も失せるはずだ」
お父さんはその場で二本脚の姿に変わって見せてくれた。
しかし私には同じようにできない。
「化身は個々人のやり方の違いが大きく反映されるものだから、一概にはこうと言ってやれないが。人の姿を思い出して、体の作りや動かした時の感覚を思い出してみなさい。それに自分を当てはめるだけでいい」
イメージをし、それに現実を当てはめるというやり方は、前にもお兄さんから聞いた。この親子は、同じやり方で力を使っているし、それが向いてもいるということだろう。
私はしばらくあれこれ試してみたが、前脚の爪の先ほども変わる気配はなかった。
そもそも、自分が毛なし猿だった頃の姿というものを思い浮かべられない。もう長いこと鏡を見ていないというのは直接的な理由ではないだろう。手指の感覚とか、目線の高さとか、皮膚で感じる空気の温度とか、最近鬱陶しい髪の感触とか、一つ一つのピースはその存在を確かにあったものとして思い出せるのに、ひっくるめて一つの存在として纏め上げられない。イメージがうまくいってないんだと思う。
私は惨めさのあまり、ぴぃぴぃ鳴き声を上げていた。吉田じーさん家のゴンスケ(寝たきり)が、自力で起き上がれなくて横たわったまま脚だけ弱々しくもがく時に上げていた、あの哀れっぽい鳴き声にそっくりだと気付いて、口を噤む。くそ、無意識って赤裸々だな。
ああ、もう、毛なし猿の姿に戻れなくてもいいから、とにかく火だけは消えてほしい。このままではただ生きてるだけで周りに迷惑だ。敬清とウルリカに会わせる顔がない。
とりとめのない考えを、思いつくまま必死に追いかけているうちに、お父さんが『おお、その調子だ』と突然褒めてくれるものだから、何事かと我に返った。
気が付いたら火だけは消えていた。どうやら、無意識で変化を解こうとしていたらしい。
「すまん……父さんが邪魔をした」
お父さんが珍しく肩を落として謝罪をするのは、我に返ったことでそれまで行われていた工程も頓挫したからだ。
無意識下でやってたことをもう一度再現しろと言われて、合点承知とばかりにさくさくできるもんなら、私はこんなに魔法問題児にはなってない。
「仕方ありません。元はといえば私の未熟が起こした不料簡です。火が止まっただけでも万々歳です」
私はそれより大至急確認しなければならないことがあるのに気付いて、慌てて付け加えた。
「おじいさんは、大丈夫でしょうか? かなり無茶な力を使ってもらいました」
「さすがに、全く身に堪えないというわけにはいかんだろうな。ご自身は認めようとはなさらないだろうが」
お父さんは正直に答えた。
「しばらくご老体には休んでいただく。父さんもその分忙しくなる。元に戻る術を探してやりたいところだが、おまえの指導も休業となるだろう」
「とんでもない! 私は今まで暮らしてきたこの森に大変な裏切り行為を働きました。罰を受けなければおかしい立場です。贅沢は言いません!」
私は獣のままの首をぶんぶん横に振り立てて訴えた。実際、追放されたって文句は言えない大事をしでかしたのだ。何のお咎めもなく労わってもらえるのがむしろ信じがたいくらいだ。
「いや、それはいかん。おまえはできるだけ早急に元に戻らねばならん」
けど、お父さんはきっぱりと首を振った。
「力の暴走によって他種生物に変化すると、心も肉体の状態に引きずられて変化する。事故で普通の獣になったものなら、その獣の在り様に応じて本能的になり、なにより知能が退化する。他の獣と見分けがつかぬどころか、自分自身でさえ元が何であったか忘れて獣として一生を終えることになりかねん」
ああ! 忘れてた! そういや前にお兄さんがそんなこと言ってたっけ! じゃあ何、私、これからどんどん身も心もただのわんころになっていくの?
「ただ、今のおまえが化けた獣は普通の獣とは異なる存在だ。そこに何らかの歯止めとなる可能性も見出せるかもしれんが……楽観視はしない方がいいだろう。やはり先程邪魔をしたのが痛かったな、本当にすまない。とにかく早めに手を打とう。他にも伝手はある。あとでイズリアルどのに相談してみよう。まずは家に帰ろうか」
二本足のままのお父さんのあとを、四本足のままついて歩いて、森の中の一軒家まで戻った。
四本足から二本足に変化した直後のお父さんは、身に着けていた衣服が全く濡れていなくて、変身している間の持ち物の処遇についてウルリカに言い訳ができない状態にあった。家に帰り着く頃には小雨に打たれ続けて服もぐっしょりと濡れていた。
私も濡れ鼠になっていた。時々立ち止まってぶるぶるすると、いっとき体が軽くなるものの、すぐに毛皮がべしょっとしてしまう。体を乾かしたいなあと思うけど、さっきあれだけ熱い熱い言ってた口で前言を翻すのもどうかと思ったので、愚痴をこぼすのはよしておいた。
森の縁の木陰に思い思いに散って雨宿りをしている三頭のマズリが、お父さんと私を見て挨拶するように小さく嘶いた。私が燃えていた時にはかなりうろたえていたが、今はもう落ち着いている。というか、こいつらは基本、お父さんとお兄さんの前ではいい子ぶってやがるからな。一時の混乱が鎮まれば、こんなもんなんだろう。
あああ、折角土台を拵えた増築部がまたぬかるんでいる! 根気良く乾かして磨いた木材もおじゃんだ。私の浅慮はこんなところにも影響を及ぼしていた。馬鹿だなあ自分。くそう、馬鹿だなあ。
お父さんの後について家の戸口に立つと、屋内が不自然に静まり返っていることに気付いた。
獣の体は毛なし猿のそれに比べて五感が優れている。中に毛なし猿が複数いるのも肌で感じられる。こう、息をつめたような沈黙とでもいおうか、そんなのが家の中に満ちている。
お父さんが先に立って家の戸を開けると、複数の視線が飛びかかってくるように集中したのがわかった。
「ただいま」
「父様!」
「おとうさん!」
ウルリカと敬清の叫び声がなんかもう痛ましい。ごめんみんな。
「おとうさん! お姉さんを見かけませんでしたか!?」
「シオネがいなくなってしまったの! 探しに行こうとしたのですけれど、兄様は、父様が見つけてきてくださるからと……」
「ああ、ここにいるぞ」
我先にとお父さんに詰め寄ってわたわたと喋っていた二人が、なんでもないことのように言い放ったお父さんの言葉を受けてぴたりと沈黙した。
それ以上先を言わないかわりに、入口を塞ぐ形で立っていたお父さんが半歩横にずれた。初対面の人相手に引っ込み思案な幼児に自己紹介しろと促すみたいな反応だ。
私は覚悟を決めて、おずおずとお父さんの後ろから顔を出してみた。
家の中を覗きこむと、案の定敬清とウルリカが虚を衝かれた顔で機能停止している。停止としか表現できない。表情からは感情の動きが一切読み取れないし、しばらく待ってみても何にも言わないから。
「……ええと、ただいま帰りました。びっくりさせてごめんなさい」
一応言ってみたけれど、きっと彼らには犬っぽい四足動物がくんくんと鼻を鳴らしてるようにしか聞こえてないんだろう。少なくとも弟とウルリカと奥から出てきたイズリアルさんには通じた様子はなかった。
イズリアルさんは、ぱっと見た感じでは、どこかを怪我していたり、気分が悪そうではなかった。手を上げてしまった相手なので、怒ってたり嫌われたりしたかなーって覚悟もしてたんだけど、イズリアルさんもむしろ私のことを気づかわしげに見てる。いささかの興味の色が窺えるのは、単に今の私の見た目が珍しいからで、決して研究施設とかに連れていきたい系の興味では……ないと思いたい。
居間の食卓の一席にどっかりと腕を組んで座り込んでいたお兄さんだけが、腕と寄せていた眉根を解いて目元を細めた。あーよかった。一瞬すげえ怒ってるみたいに見えたから、ちょっとびくついてたんだけど。でもよく考えてみれば、あれからすぐにお父さんにテレパシーだかなんだかで私を保護してくれるよう気を回してくれてたんだもんね。心配してくれたのは確かなんだ。
勿論お兄さんも無傷。イズリアルさんが無事なのに、お兄さんがそうでないなんてことはない。心身にかかった負担がイズリアルさんよりはるかにお兄さんの方が大きかったとしても、お兄さんが毛なし猿より弱るなんてことにはならないのだ。
「ねーちゃん……」
敬清がのろのろと呟いた。日本語で。掠れ、濁った声は声変わり中だからだけではきっとない。
「なんだい弟よ」
通じてはないんだろうけど、私はきゅうと一声鳴いて首をもたげ、弟と目線を合わせた。しっかりと。気まずげに逸らしたりしちゃいけない。私は江見潮音。江見敬清の本物の姉ちゃんだ。ここにいる四足動物が人違いならぬ獣違いでないことをちゃんと証明しなければならない。
「案ずるな。歪みの蓄積で魔物化したのではないからな。魔法の暴走による形態変化だ」
お父さんが気を利かして私たちのそばから退いてくれた。
ウルリカはお父さんに乾布を差し出しながら、一歩引いたところで訴えるような眼で私たちを見ている。口を挟む気はないようだ。
お父さんのその言葉で、ようやく私は、弟が私が魔法を使ったことによる歪みがキャパオーバーして魔物になったのではないかと危惧していたという可能性に思い至った。
そうか、だから敬清はこんなに蒼白な顔して泣きそうになってるんだ。
なんとかしてやらないと。姉ちゃんは大丈夫だよと、どうやったら伝えられるだろう。
弟はおもむろに腰を落とし、膝を抱えてお尻を浮かせた姿勢でしゃがみこんだ。そうすると私の方が目線が高くなる。視線がぶつかった。弟はまさに一生懸命といった風情で、窺うように、縋るように、どこか一抹の疑わしさも湛えたまなざしで、ひたと私の目を見詰めてくる。
私も真面目に弟の目を見つめ返した。どうだ、姉のこの目力で正真正銘本人だとわからないものだろうか。
「……ねーちゃん?」
「アウ」
そうだよ。
どうしよう。お手か何かしようか。
私は床にお尻を着けていわゆるお座りの体勢になり、左前脚を持ち上げた。
たしたしと軽快に敬清のおでこを叩いたつもりだったが、べちょっと粘ついた音がして、イメージ通りの爽やかなスキンシップとはならなかった。しまった、私はさっきまで雨に打たれてぬかるみの上を歩いてきたのだった。乾いたところにいた弟の短い黒髪とその下のおでこがべちょりとした泥に塗れてしまった。
後悔しながら前脚と敬清の顔を見比べる私の前で、彼は膝の間に顔を埋めてしまった。おおい、膝が汚れるよ。詰めていた息を、緩やかに長く吐き出す音が聞こえる。安堵の色濃い吐息だと思った。姉ちゃんだって、わかってくれたんだ。
「……ねーちゃんだ……」
「ワン!」
そうだよ!
私は自覚していなかったが、この時濡れそぼった尻尾をばたばたと振っていたそうな。




