遁走
にじあらわる月になると、空気が一層暖かくなり雪解けもかなり進み花も新芽も青みを増した空を背景に映えるようになってくる。
そんな心浮き立つような季節に、まるで見えない何かに追い立てられるかのように余裕のない様子で過ごすシオネの姿は見ていてつらいものがある。
とにかく自分に暇を与えないのだ。
イズリアル様と兄様が前回帰られてそろそろ一月が経つ。次の定期便が近い。
それを恐れて、考える余裕をなくしたいのだろうとケイセイは言う。
「お姉様は頭がよくありません。きっと考えすぎて空回りをしています。ホンバンニヨワイたいぷだとは、ぼくも知りませんでした」
絶賛声変わり中のケイセイは、この時期に大声を出すと終生だみ声になってしまうぞとイズリアル様に脅かされているためかとつとつとした掠れ声で、そんな彼の言葉の後半はほとんど理解できなかったものの、つまりシオネは今思考が堂々巡りをしていて閉塞しているのだとわかった。
幸いというかなんというか、春先は忙しい。それに取り紛れて我を忘れることは難しくはない。
シオネはヤギたちに名前を付けた。雄はビタ、雌はミンという。それを聞いたケイセイの何とも言えない表情を見るに、共通の知人の名前でも付けたのかもしれない。
雌が仔を産んだらお乳を搾れるようになる。ただし搾乳にもコツが要るということなので、おいおい実践を重ねていくより他ないだろう。
シオネは特に葉物を重視していて、色々な植物の葉を生と茹がいたのを食べ比べては、痛烈な批評を下して妥協の要らない種を探し求めていた。
予め毒がある草に関しては私から釘を刺せたけれど、毒にも薬にもならないものに関しては、私もその辺の野草という認識で十把一絡げにしているため、大して知っているわけではない。単純に食べられる物を探すということに関しては、私もシオネと一緒になって、一からの探究だ。
まだ最終的にという段階には至らないものの、シオネは森の野草の中から、葉身が大きく柔らかい波状の葉縁をしたフワシュの仲間と、掌ほどの大きさには少し足りない鋸葉の名も知らない草を、我が家で増やすことに決めた。どちらも一年とたたずに枯れる草なので、安定した獲得に向けて土を移し替え、根っこごと丁寧に掘り出してうちの畑に植え替えるという作業を何度も繰り返した。
他にも森で見つけてきた、小さく芽吹いていたいくつかの小株を庭に植え替えた。この森の我が家から採りに行って帰れる範囲内の、春に花を咲かせ夏に実を付ける植物を、シオネは私と父様に聞いて、あたりを付けている。また、昨年の秋に取っておいたシェラの種を様々な条件を変えて植えてみて、いくつか成功した試みの成果を起こした土に植えた。他のめぼしい植物は種ができるのを待つ。
この辺りの取捨については、完全にシオネ先生に一任状態となっている。
私はといえば、彼女ほど躍起になって植物性の食材を得る必要性を感じていないので、単に彼女の身が心配で森歩きをする彼女に付き添って回っているに過ぎず、イショクドーゲンやシンドフジを力説するシオネには悪いけれど、ショクモツセンイの摂取にそれほど身を入れていない。
父様も私同様理解できていらっしゃらないのか、『日々の糧には困らないはずだが』と首を捻りながらもシオネの気の済むようにしてやりたいとお考えなのだろう、もののついでに種類の異なる植物の葉をあれこれと摘んできてはシオネに与えて協力されている。
ケイセイはというと、姉の主張にある程度の同意を示してはいるものの、野菜よりお肉が好きだからという理由から、やはり畑の拡張にシオネほどの熱意は抱いていない。主にシオネの個人的な拘りによるもので、狩猟民族は農耕民族より太りやすいという持論のせいだと説明してくれた。
それを聞いて私は首を傾げるより他にない。
何度でも断言するが、シオネは誰がどこから見たって、太ってなどいない。彼女の体で余計な肉が付いて見えるのは胸だけで、他には毎日欠かさない運動で引き締めた肢体はすんなりとした筋肉を纏わせていることを私は知っているけれど、それでもいっそ華奢に見えるくらいなのだ。骨格差が如何ともしがたいことを差し引いても、食事を与えていないわけでないし別段小食ということもないから、単に肉が付きにくい体質なのだろう。私と並ぶと、同い年なのに、ちゃんとご飯を食べさせてもらっていないのではと思ってしまうような一回りの体格差がある。
「心配いりません。お姉様は不健康などではありません。コーイチでヒャクロクジュッセンチ……ええと、女性で16歳で身の丈16シェトレというのは、ぼくらの人々の中では平均的な体格でした。たぶん、お姉様はこれ以上は伸びないと思いますが」
私はもうすぐ17歳で、17シェトレある。シオネと同じくこれから目に見えて伸びるということはないと思うけれど、平均で1シェトレ違うなら、やっぱり小柄な種なのだと思わざるを得ない。
ケイセイはどうなのかしら。
「男の子はどうなの? 同じように平均16シェトレ?」
ケイセイは、ちょっと、耳に痛いことを言われた人みたいに眉根を寄せた。
「……男性は、女性より大きめです。17から17.5くらいにはなります。たぶん、ぼくもです。靴が合わなくなりました。身長も大きくなっています」
なんとなく機嫌を損ねたように聞こえるのは気のせいかしら。
ケイセイの靴が合わなくなったというのは本当で、親指部分の爪先が破れるに至り、彼はここに来て以来こまめに洗ったり繕ったりして愛用していた上質の靴を泣く泣く諦めた。
今は兄様たちが予め必要だろうと持ってきてくださっていた煮固めた革の靴を履いて外出している。頑丈な半面、固くて重い。彼のすにいかあと比べてその重量は明らかで、顔つきからして履き心地は悪いのだろう。訓練の時の足運びが心持ち鈍っているのは気のせいではなかった。
「ぼくのいたところでは、手足に重たい枷を着けて訓練をする武人がありました。筋力を着ける特訓のためと、普段は強すぎる力を抑え込むためと、いざという時に素早く動けるようにするのです。そしていざ枷を外すと、あまりに身軽なので、空だって飛ぶのです」
ケイセイは前向きにそんなことを言って、基礎訓練を真面目になぞっている。この分ならすぐに後退した分を取り戻せるだろう。
それにしても、ケイセイの故郷には、すごい武人がいたものだ。
素直に感心していた私は、ケイセイが語ったその武人が彼の故郷におけるおとぎ話の中の架空の存在で、離れたところでそれを零れ聞いたシオネが弟に『嘘つきめ!』と激しい非難を浴びせていたことを知らなかった。
ケイセイに魔法を使ってもらって、家の増築は少しずつ進んでいる。
ケイセイは着実に力を蓄え、腕を磨いている。一方で、あれから魔法に関してシオネに何かを促すことをしなくなった。
シオネもその件については触れなかった。
私もそれで構わないと思う。魔法に関してはイズリアル様の方がずっとお詳しいのだ。次においでになった時に相談させていただければ、私たちが額を突き合わせて拙い推測を出し合うより建設的だと思う。
シオネの髪は、少しばかり面倒な時期に差し掛かっていた。
鎖骨を少し下回るくらいの長さは、少し前屈みになると肩からこぼれ落ちて何かというと頬を覆い首に絡みつく。紐や布の切れ端などで、首の後ろで一つに結んでもみたのだけれど、食べられる植物を探して森を徘徊するうちに解けてしまう。
シオネは少し首を巡らせるだけで視界を邪魔したり気を散らしにかかるまっすぐな黒髪を鬱陶しそうにかき上げて、せめてワゴムの一つも懐に入れておけばよかったとケイセイしか同意者のない愚痴をこぼしていたものの、やがて面倒くささが極まったみたいで、頭に布を巻いて髪の毛を全部ひっ詰めるという荒技を編み出して日中を過ごすようになった。切ってしまいたいという内心が態度の端々に漏れ出していたけれど、ケイセイ以外の全員がそれに反対していたこともあってか、一人の時に鋏を手に取るようなこともなかった。
一日の終わりに被り物から解放された彼女の黒髪は、色合いの変移が織り成す艶めきが私の薄い色のそれより顕著でとても美しい。そう言うと彼女は呆れ顔で『比較対象が乏しいのは決して幸せなことではありません』と答えて言った。意味はよくわからなかった。
そんな日々を積み重ねる中、シオネはすっかり落ち着かなくなった。
父様も、シオネを心配なさって、時々二人だけで表に出てシオネと話をしていらっしゃる。シオネは私には打ち明けてくれない心の内を、父様にはどの程度かはわからないが吐露しているようだ。深刻な悩みごとのようなので口出しできないけれど、私では頼りにならないと思うと少しさびしい。
そしてやっぱり、シオネは時々一人で森にさまよい出る。キツネに会っているんだろうと今ではわかるので、多少心配は薄らいでいるものの、それは私の感想でしかないし、私は何も知らないままだ。
シオネは、あの謎めいたキツネについて、何を知っているのだろう。
シオネの魔法の失敗で零れ出た歪みを拾ってくれたということは、以前ケイセイが心配していたように、本当に魔物の類ではないのかもしれない。魔物は歪みに親しむものだ。むしろ歪みを振り撒こうとするものだ。
ケイセイは相変わらずキツネの正体を勘繰っているようだ。いわく、魔物にだって色々なものがいる。直接的な被害を与えてくる者ばかりではなく、姦計を以て人を陥れ悲劇を増大させるべく動く者や、世の中に興味もなく隠遁している者、あるいは何らかの利害や感傷によって人を助ける者まで、それこそ色々な存在があるんだとか。どういうわけか、魔物とは本能によってしか生きられない低級なものと高い知性を備えているものとの、別の生き物とでも言えるような二種類に分類されるものであるとケイセイは確信しているらしい。
変ねえ、ケイセイは魔物に遭遇したことなんて一度もないはずなのに、どうしてこんなに見てきたように詳しいのかしら。
「ぼくのいた村で見聞きしたおとぎ話です」
と彼は端的に理由を述べたが、シオネに質すと多分と前置きしてゲームヤマンガの知識だと思うと推測していたが、それが何なのかは彼女にも説明できないようだった。
「あのキツネとは、どんな話をしているの?」
シオネに尋ねてみると、思いもかけないことを言われたかのようにすごく驚いた顔をして、しばらく戸惑った後、突如すとんと肩の力を抜いて答えてくれた。どことなく安心したような態度だった。
「どこに何の木や草が生えているか、どこからがどの獣の縄張りか、拾って食べておいしいものとか、天気とか。事実と、自分が信じていることしかおじいさんは言いません。だいたい食べ物と住まいに関係しています」
「本当にキツネとお話が出来るのね」
私が興味津々で合いの手を打つと、シオネは曖昧に微笑んだ。
その顔を見て、私の中に不可解な苛立ちが湧き起こった。そのことに何より自分が驚いた。彼女は私に隠し事をしているし、それを私は知るべきではないと思っている。その根底に何か、上からの目線で判断してのことのような、なんというか、勿体ぶっているかのような印象を受けたのだ。勿論、それは私の思いつきであり、事実無根の被害妄想に違いない。シオネに対しては侮辱でもあるし、一旦口にすれば取り返しのつかないことでもある。
だから私は、内心の不服を申し立てたりしなかった。
それから程なくして、兄様とイズリアル様がいらした。
兄様とイズリアル様は私に、17歳の誕生祝いを下さった。私はこの月の生まれなのだ。兄様らしく気取ったところのない、簡素な小さな包みを開いてみると、新しい櫛が出てきた。今まで使っていた櫛の歯が欠けていると話したことを覚えていてくださったのだと嬉しくなる。イズリアル様からは最近の流行だという服の型紙集をいただいた。まあ、今までのと比べると袖や裾の形などがかなり様変わりしているわ。さっそく私とシオネのを何か拵えよう。
シオネも私よりちょっと後の生まれなので、同じような包みを渡された。緊張のあまりかその場で開いて中身を確かめることはせず、部屋に持って行っていた。
ケイセイは昨年の冬が誕生日だったことを受け、遅くなって済まないという前置きとともに兄様とイズリアル様の連名で、ボロス牙製の籠手を一揃い贈られた。今のケイセイには少し大きめだけれど、腕の内側で固定するようになっている革帯は長さに余裕を持たせて作られていて、成長すれば丁度良くなるであろう規格だ。ボロス牙は武器にしても防具にしてもかなりの強度を発揮する良質の魔物素材だ。ケイセイはとても喜んだ。
『高校入試当日でも、こんな緊張しなかった……!』
『ありゃあ、受かるの前提の定員割れした学校じゃったろが。ねーちゃん、気楽に構えてろって。試験官イズリアルさんじゃぞ。オルソンのおっちゃんよりかよっぽどマシじゃって』
いつものようにイズリアル様が父様の業務記録と家族みんなで話し合ってまとめた必要物資の要望目録にざっと目を通されている間、頭を抱える姉とそれを宥める弟のぼそぼそとした会話が背景に流れていた。シオネは傍目にもうろたえ切って挙動不審で、針で突けば跡形もなく破裂しそうに張り詰めている。
兄様は静かにイズリアル様の斜め後ろに控えていらっしゃる。シオネの様子を見てかすかに目を眇められたけれど、何も仰らなかった。
「さて、お待ちかねのようだし、シオネの魔法を見せてもらおうかな」
イズリアル様は業務記録を閉じ、気づかわしそうにシオネをご覧になった。
シオネはこれ以上ないというくらい緊張に強張った顔つきで、小さく頷いた。でも、足が進もうとしない。
「怖くありませんか……?」
「難しいことはさせないから。少し、魔法を通わせるだけだよ。表に出よう」
一同はぞろぞろと家を出て、二歩ほどの距離を置いて向かい合うシオネとイズリアル様を少し離れて取り巻く形で落ち着いた。森の縁で木に繋がれた兄様たちのマズリたちが、好奇心も露にこちらを見詰めている。
「私が君に触覚を開くから、君も私に向けてなんでもいいから魔法をかけてみてくれ。心の中から、見えない手を伸ばして握手をするような感じかな」
シオネはイズリアルさんをはったと見詰めて、ほどなく少し焦点をぼやかした。目の前に居る人の内に秘められた何かを見出そうとするかのように、気配を探る時のような張り詰めた緊張がその場に満ちた。
シオネがなにごとか呻いた。寄せた眉根に戸惑いと衝撃もあらわに、突如目に生気が戻る。まじまじと眼前のイズリアル様を見て、なぜかその顔が驚愕に塗り潰されていく。
「イズリアル、中止だ」
私ですら感じ取った不穏な予兆を、より正確に察知されたのだろう、静観していた兄様が小さく叫ばれた。同時に一歩大きく踏み込んで、イズリアル様と、膝が崩れて蹲ろうとするシオネの間に身を挟まれた。きっと、さっきイズリアル様が仰った、見えない手の握手を遮るために。
イズリアル様も怪訝そうに顰められた眉を解き、穏やかな声でシオネに話しかけた。
「シオネ、いったんやめるんだ。もう一度、最初からにしよう」
答えたのだろうか、シオネの細い喉から迸ったのは、私たちが教えた言葉ではなく、彼女たちの言葉でもなく、空気を震わせる理性なき唸りだった。
ケイセイがひゅっと喉を鳴らして息を飲む。隣に立つ彼がよろめいた気がして、私は腕を伸ばして彼の肩を抱いた。無意識にか、私より小さなその身がすり寄せられる。
離れたところにいるマズリたちの動揺した嘶きと地団太を踏む忙しない足音が聞こえる。
イズリアル様が舌打ちとも悪態ともつかない呻きを漏らし、大ぶりの槌で横殴りに打たれでもしたかのように上体を激しく仰け反らされる。寸でのところで片足を後方に引き、自力で転倒を踏み止まられた。
「シオネ、よせ」
兄様が鋭く仰る。
それがシオネに聞こえていたのかどうか。
その黒い目は我を忘れている。限界まで見開かれたそこに、小さな火花が散った。
何が起こったのか、その場で見ていても、後から落ち着いて思い出してみても、説明するのは難しい。
その時シオネは瞳の色が変わっただけではなかった。その周りを取り巻く鳥の子色の肌が溶けるように下降していき、赤い毛皮に包まれていた。
シオネが獣に変わった。そうとしか表現できない。キツネのようにも、狼のようにも、犬のようにも見える、けれどその動物たちのどんな種類も持ち合わせない燃え盛る火の色をした、私の知らない大型の四足獣に。その毛並みは色合いばかりではなく、実際に火の粉を撒き散らしているのだ。ぱちぱちと火の気が赤い毛並みの表面で爆ぜる音がする。
マズリたちの混乱した嘶きがうるさいくらいに満ちているのに、私はそれをどこか遠く感じていた。
私は何が何だかわからなかった。いつしか、ケイセイの肩に両腕を回して、しっかりと抱きしめていた。もしかしたら、縋りついているのは私の方だったかもしれない。少なくともその時、私は彼の体を支えにして立っていた。
ケイセイも凍りついたように棒立ちで、言葉もない。
兄様に見据えられ、四足を撓めて警戒態勢を取りぐるぐると唸り声を上げるシオネの姿は、人に敵意をむき出しにする獣そのものだった。
「シオネ、お前がいるのはそこではない。周りを見ろ。ウルリカとケイセイを見ろ」
こめかみを押さえて頻りに首を振っているイズリアル様を背に、兄様は蹲る四足のシオネに目線を合わせて膝を着かれた。
その言葉は届いたようで、シオネはそろそろと首を巡らせた。そこに立ち尽くす私とケイセイを見た。
炯々とした橙色に煌めく目が、恐らくは驚愕に見開かれ、動揺した呻きが大きくなった口から漏れる。水狼に似た、びっしりと牙の生え揃った凶悪な口からは、獣の哀切漂うきゅうんという声しか出てこなかった。
ぶたれた生き物が瞬間的に身を庇って丸くなるように、シオネも衝撃に打ち据えられたみたいに、瞬間的に身を竦めた。
体表で燃えている火がぶわりと膨らんで弾ける。舞っていた火の粉が小さな火の玉になって私の背丈より高く噴き上がり、ばらばらに放物線を描いて彼女の周囲に降り注いだ。
突如押し寄せる熱気に思わず目を覆ってたたらを踏んでいるうちに、猛烈な勢いで熱気が唸りを上げて薄れていく。
兄様が珍しく『待て!』と怒声を張り上げるのを耳にして、もしやと思い慌てて目を開けると、やはりシオネはその場から居なくなっていた。
慌ただしく周囲を見渡すと、魔境に向けて赤い火の揺らめきが一目散に遠ざかっていくのがちらと見え、消える。
「…………!」
当然のことながら、我が家は大混乱に陥った。




