ある春の日
はなさく月に入ると、西から吹く一際強い風が魔境の向こうからの雲を運んででも来ない限り、積雪は滅多にない。
とはいえ、辺境は未だ根雪が厚く、地表には何の彩りも見出せない。その代わり晴れ間の増えた春の光をふんだんに浴びる木々の梢には、淡い色の蕾が膨らみ始めている。
現在使われている暦名は、中央の季節感に沿って統一されたものなので、王都付近ではもう花が咲き始め、蝶が舞っているのだろう。
「チョウチョも、ここでは大きいですね」
せっせと雪べらを振るっているシオネが、雪に埋もれた枯草の中から蛹を見つけてそう言った。それが枯草の茎に鈴なりになっている。
雪を掘り返せば、そこかしこから同じように枯草に連なっている蛹が次から次へと現れ、シオネをたじろがせた。
「そうなの?」
「はい。私が知っているチョウチョは、指一本分ほどの長さもありません。中には大きいのもいますけれど」
シオネとケイセイのいたところは、総じて生き物が小さいらしい。常々思うことだが、そんなことでどうやって淘汰されずに生きていけるのだろうと不思議でならない。
「この蛹は多分、辺境アリクイチョウだと思うわ」
「あ、肉食ですか」
呟いたシオネの視線の先で、無事に越冬を完了した掌くらいの大きさの蛹は、そろそろ羽化を始めようとしているのだろうか。
ということは、短い春が過ぎ去ればあっという間に芋虫の日がやってくる。一年に一日だけの楽しみだ。いつ来るかわからないので、いつ来てもいいように備えておかないと。
あの血沸き肉躍る美しい光景を、早くシオネとケイセイにも見せてあげたい。
「ウルリカ、どうして急に機嫌が良くなりましたか?」
「え? うふふ、春が近いなって思って」
姉弟が疑わしそうな顔で私を見た。
あの光景については口で説明するより実際に見てもらった方が早い。新鮮な驚きを味わえるのは最初の一度だけなのだから、中途半端に予備知識を入れておくのもよしておこう。
『てか、この寒さで死なん蛹ってほんまにただのチョウチョか?』
『みなまで言うな弟よ、何もかも今更じゃ』
ケイセイとシオネの彼らの言葉での会話の意味はわからないながらも、なんだか疲れが滲んでいることはわかった。今日はケイセイの調子がよくないみたいで、声がかすれ気味だ。今日は早めに休んでもらわなくちゃ。
シオネは今、菜園の雪を早く取り除こうとしている。
陽の光は色の黒い物に吸収されるので、黒い物が熱くなりやすいのはそのせいなんだそうだ。同じ理屈で、家の周りも土色が露出することで付近の雪を効率的に融かしてくれると言って、熱心に雪べらを振り回している。一日でも早く畑の世話を開始したいらしい。凍った土とその上に堆く層を成す霜だった氷と凍った根雪をひたすら攻撃して、土の色を取り戻そうと奮闘している。
初めは私とケイセイが日課の訓練を行う横で自由行動の一環としてシオネだけで始めたのだけども、あまりにも必死に労働しているので、横目で見てはいられなくなった。結果、三人での作業となっている。
「ケイセイ、本当に体は大丈夫? 悪寒……いつもより寒く感じたり、頭が重くなったりしていないの? 風邪が付きかけてるのかもしれないから、早目に家に戻ってちゃんと体を拭いて。何か温かい物でも作るから」
またケイセイが顔を顰めて喉を押さえている。皆同じ条件下で働いていたはずなのだけれど、汗ばんだ体が急に冷えでもしたのかもしれない。心配になって何度目かのお願いをすると、ケイセイはやっぱり取り繕ったように笑って大丈夫と言い張る。
「ありがとう、ウルリカ。でもぼくは平気なのです。体の具合は悪くありません」
同じやり取りをそばで繰り返しているうちに、最初のうちこそ姉らしくびしっとした態度で何やら言いつけるだけだったシオネも心配になってきたようだ。昨年の秋に自分が風邪をひいて寝込んだことを思い出したのかもしれない。二人の間でのみ通じる言葉を潜めた声でやり取りし、ややあって納得した様子で会話を終えた。
「大丈夫です、ウルリカ、ケイセイは体調不良ではありません。声がへん……へんたい?」
「へんたいちがう、ノエチャ。変わる。喉、死んだ人」
「死んだ?!」
ぎょっとする私に、二人は手をばたばたさせて訴えた。私の理解が及ばないばかりに、言いたいことを伝えようと二人とも懸命だ。
「違いますウルリカ、違います。喉、ノドボトケ、変身します。声が変わります」
「あとでおとうさんに聞いてください。それで全て解決です」
結局、数で押し切られて私は頷くより他なかった。おもむろに畑の開拓作業に戻る。
「私は太りました。運動をしなければいけません。植物を食べねばいけません」
鬼気迫る目つきで開拓の動機を話すシオネは、どう見ても太ってなんかない。確かに、ここに来たばかりの頃に比べてまろやかな輪郭になった。けれど、そもそも私たち辺境人に比べて骨格が華奢なようで、縦も横も私より一回り小作りだ。それでいて、私の余計なところにまで脂肪が付いている体よりよほど機能的且つ洗練された体形だと思う。
「そんなことないと思うけれど……シオネは肩も腰も脚も細身で、フォアのように引き締まっていてしなやかよ。きれいだわ」
「褒めていますか?」
あまり嬉しそうではない表情で訊き返された。困惑していると、横からケイセイがおずおずと言った。
「食べる肉と一緒の取り扱いは果たして褒めていると言えるのでしょうか」
うーん、わかるようなわからないような。
「それにフォアは、キャエル……顔がいけません」
「顔? 顔については何も言っていないわ。第一作りが全然違うじゃないの。体つきについてだけよ。シオネが太っているというなら、私はもっと太っていることになるでしょうね。ケイセイもそう思うでしょう?」
ケイセイまでもが困惑したふうなのはどうしてだろう。
「ウルリカはお姉さんより背が高いです。その分大きく見えます、だけであって……ええと、でも、ウルリカはフトマシクはないと思います。ウルリカはいつもきれいです。ほんとうです!」
あまり大きな声が出ないみたいで、声を不規則にひっくり返しながらもケイセイが一生懸命私を擁護してくれる。
ああ、もう、この子はどうしてこんなにかわいいんだろう。
頬が緩むのを自覚しながら、まっすぐ見上げてくる彼の顔を眺める。
着実に背丈が伸び、以前より目線の位置が高くなった。シオネと同じ色ながら彼女より硬めの黒髪もまた少し伸びて、すっかり額を覆っている。温かくなったらまた髪を切らせてくれないかしら。
ケイセイは私に髪を切られるのはくすぐったいからと言ってシオネを頼る。
先月も手足が伸びたから新しい服の型紙を作るために寸法を測り直したいと打診したら、かなりしぶとく嫌がられた。オルソン様の援護射撃もあって渋々身を委ねてくれたけれども、手短に終えてほしいという心の声がありありと伝わってきて、内心ちょっとしょげたものだ。
やはり実の姉の方が気心が知れているとはいえ、私だってもっとケイセイを撫でくり回したい。もっと心を開いてもらうにはどうすればいいんだろう。
それをこの前シオネに相談した時の彼女の顔つきは、なんともいえないという表現があれほど的確な表情はなかった。
「ええと……まあ、ウルリカのしたいようにしたらいいと思います。でも、あんまり好きにしたら、きっとおとうさんとお兄さんに叱られます……こわいので、お手柔らかにお願いします」
なんだかよくわからない理由で、とても切実そうに頼みこまれてしまった。
父様と兄様は怒ったりしないと思うけれど……
「それは声変わりだな。ケイセイは変声期に入ったんだ。体が然るべき成長を遂げる過程で必ず起こることであって、病や異常の類ではないから安心しなさい」
その日、帰っていらした父様に尋ねてみると、何もかも心得たように一つ頷いて保証してくださった。満足そうな、愛おしげな、感慨深そうなお顔で、にこにこと微笑まれては、疑いの余地もない。でも不思議ではある。
「あれが変声期ですか。私がケイセイくらいの歳の頃には、喉が痛くなったり声が変わるようなことは起こらなかったと思いますけれど……」
「男の子の方が変化が顕著なのだ。その時期が過ぎると、声が低くなり、喉仏ができる。覚えていないか? ジェオフレイにも同じことが起こったのだぞ」
えっ、兄様も? ……どうしましょう、兄様のお声が記憶の中の高いものと変わったことは覚えていても、どんなだったのかを思い出せない。
「まあ、その頃のお前は7つかそこらだったからな。幼い頃の記憶というものは、そんなものだろう」
特に惜しむでもなく、父様は柔らかいまなざしを落とした。
「ところで父様、もう一つ、不思議に思っていることがあるのです」
私は、先日シオネに相談した話と、それから今に続いている疑問を正直に呈した。
父様は即座にシオネの意見が正しいと仰った。
「父さんはおまえが生きてゆくに困らぬよう育ててきたつもりだが、どうやら教え損ねていたことがあるようだ。すまなかった、ウルリカ。男でも女でも、連れ合いのない者はみだりに異性の体に触れるものではない。それが許されるのは合意に基づく連れ合いのみなのだ」
私はびっくりして、しばらく返事もできなかった。知らなかった。けれど父様が教え損ねていたと仰るのなら、仕方がない。
すごく深刻そうに、訥々と言い聞かせられた。父さんから教えられることは少ないがと前置きしつつも、持ちうる限りの言葉を探して説明してくれたことがわかる。
「特に相手が成長途上であれば、その成長にまで重大な悪影響を及ぼしかねない。あるいは、おまえはいつか、ケイセイとつがいになるかもしれない。そうしたら思う存分触れ合いを図ればいい。だがそれは今ではない。ケイセイを堕落させたくないのであれば、あの子が一人前の大人になるまでは慎みなさい」
「はい」
ケイセイを堕落させるなんて、とんでもない。そんなことはまず私が許さない。
彼とつがいになるという選択肢が私の前に現れたのはその時だ。
そうだ、そうすれば、街へ出て行って結婚相手を探すまでもない。彼が大人になるまでまだ当分この森の家を離れずに済むし、ケイセイともシオネとも家族のままでいられる。いつかケイセイが一人前になってここから巣立つ時が来たとしたら、つがいとして誰はばかることなく一緒に行けばいい。ひとりぼっちを回避できる。父様ったら、なんてすばらしい思い付きをなさるんだろう!
そのためにはちゃんとケイセイには一人前になってもらわなくちゃ。
私は彼への態度を改めようと心に決めた。
父様は次の日、レスツルの枝で作った新しい木剣をケイセイに与えた。
ケイセイは大喜びし、早速受け取るなり驚いた顔をした。剣を取り落しそうになって慌てて両手でしっかりと持ち直す。
「……重たいのです」
「レスツルは森のずっと奥にしか生えていない珍しい木でな。木には違いないが鉄と変わらん重さがある。順調に体を作っているようだし、実際の剣の重みに慣れねばな。明日からはこれを使って稽古をしなさい」
「……! ありがとうございます、おとうさん! ぼくはおとうさんのように強い男になれるように、がんばります!」
「その意気だ。楽しみにしている。よく鍛えて、強くなるのだぞ」
父様はにこにこしながら仰った。私もにこにこしてしまう。
結局、父様はシオネが危惧したように怒ったりはなさらなかった。やっぱり私の判断は正しかった!
兄様とイズリアル様が今月の定期便を届けにいらした。
「羽化はまだか……来月……もまだ大丈夫だな。危ないのは再来月か。芋虫の日が来る前に来て帰れるといいが」
深々と息を吐く兄様は、父様と同じで、今だ森中に根強く残る冬の名残をものともなさらない軽装でいらっしゃる。覆面と蓑を省き、帽子と毛皮のマントだけのお姿は、隣のイズリアル様が厳重に着脹れていらっしゃるのと見比べると、大変りりしく頼もしい。
「あれが来てしまうと、一日拘束されてしまうからね」
イズリアル様は、耐寒装備を解かれながら、げんなりした表情だ。確かにお立場としては時間を取られてしまうのは不本意だろう。でも一年に一度しかない神秘を体験できる日なのだから、もっと前向きに受け止められて、貴重なものを見たと周りに自慢するくらい楽しめばよろしいのに。
「おまえは昔から、芋虫の日が好きだからな」
呆れたように仰る兄様は、小さい頃に頭を撫でてくださった時と同じような苦笑交じりだ。
「芋虫の日とは、なんの日ですか?」
シオネが問うて、私と兄様とイズリアル様は示し合わせたように顔を見合わせた。実際には示し合わせてなんかいないのだけれど、見事に反応が一致したのだ。
「やっぱり、最初に見た時の驚きは、何も知らずに見てこそだと思うのです」
私が力強く主張すると、イズリアル様が異を唱えられた。
「いや待て。あれは知らぬ者が遭遇すると心に傷が残りかねないぞ。事前の説明は必要だろう」
「おまけにすげえうるさいしな。家の周りが糞塗れになって翌日の後始末が面倒になる。心構えくらいはさせてやれ」
兄様も渋い顔つきでイズリアル様に同意なさった。くっ、ここでも数の力に屈した……
さっきからすごく不安そうに私たちを代わる代わる見ている姉弟に、私たちは芋虫の日について説明することにした。
二人の反応は、イズリアル様寄りだった。
ううん、私はまだ諦めない。実際のその日を迎えてみれば、新たな感動が先入観を排してくれるはず! きっとあの感動を分かち合える! ……きっと。うん、そうであってほしい。
兄様とイズリアル様のお二人は、ケイセイが変声期に入ったことを軽い冷やかし交じりに寿ぎ、いくつかの忠告をした。
オルソン様は先月都にお帰りになられた後、速やかに砦に赴任されたそうだ。また数年はお会いする機会もないだろう。