辺境の年越し(後編)
お兄さんが持ってきてくれた荷物の中には、おなじみの森で調達できない穀類や調味料、油や布や医薬品などに加え、おじさんの日報用の紙の束や(ドバに運ばせるんだから、値が張ってでも軽い素材じゃなきゃいけないもんね)、イズリアルさんが私用にと持たせてくれた本が一冊。
どうやら元の世界で言う日本昔話とか今昔物語集みたいな短めの民話を集めたもののようで、短文の連なりで構成された本文は初心者向きで訳しやすそうだ。時々挿絵も入っている。
横合いから覗きこんだウルリカによると、まるっきりのおとぎ話でなく、ある程度分別の付いた子ども向けの寓話集と思われる。
その他用途不明なものが色々と入っていた。
体の大きなマズリの成獣は本当に力持ちで、たくさんの荷を運べるのだ。
彼らはいつもお兄さんとイズリアルさんが来た時のようにその辺に繋がれたりはせず、手綱を解かれてその辺に放たれた。
とはいっても逃げ出したりはしない。お兄さんが森の外に帰る時に、ちゃんと連れ戻るという。
人が世話をしなければ冬を生きられない家禽たちとは違って、彼らは近くの森をうろつきまわって自力で食べられるものを探すんだそうだ。この雪に埋もれた森の中でである。それでも十分生き延びられる力をマズリは備えているんだとか。
その辺の枯草から首を伸ばせば届く範囲の木の葉や皮など、なんでも食べるらしい。
私は彼らの口元に尖った歯を垣間見てしまって以来、密かに肉も食べるんじゃないかと思っている。
さて、お兄さんが持ってきてくれた物資の一つに、暦らしき木の板が一枚あった。
これと同じものが台所の片隅に置いてあることに、私は気付いていた。とっくりと眺めた結果、どうやら363日を10分割している。
そのうちおじさんかウルリカに確かめよう確かめようと思いながら忘れていたことを、今思い出したので、訊ねてみることにした。
「ウルリカ、この板は、カレンでゃ……月日を確かめるものですか?」
「そうよ」
「棚のうえに、置いてあります。同じですか?」
「ええ。もうすぐ年が変わるから、新しい暦を兄様に持ってきていただいたの」
私の肘から指先ほどの長さの四角形をした木の板に、一年の日付が小さく彫り込まれている。紙は高級品である。手軽に出回る素材といったら木材しかないだろう。
しかもこれ、多分バイトとか動員して量産してるんだと思う。木の板に文字を彫り込んでいくだけの簡素なカレンダーだ。小刀を人並みに使える人なら特別な技術がなくとも従事できる。文字の形に癖があったり余白が片方に偏っていたり、うっかり指を切ってしまったのか血みたいなのがこびり付いていたりもするのは、どう見ても素人の仕事だ。
「ゆきがわたる、つき……はるのかぜふく月……一年は10の月ですか?」
「ええ。ゆきわたりの月、はるかぜの月というのよ。そういえば、暦の見方を教えていなかったわね」
ウルリカは優しく月毎の読み方を教えてくれ、居間の隅の棚に立てかけてある今年の暦を取ってきて、最後の月の末から6日目を指で示した。
「この日が今日。きたかぜの月の25日。一月は30日あって、月と月の間に3日の祝祭があるの。年明けには加えてもう3日の祝日があるから、10の月で300日と休息日33日で、一年363日。あと8日過ぎたら次の年に変わるのよ」
ふむふむ。じゃあ、11月下旬が誕生日の敬清は、きたかぜの月の初めくらいがそれにあたるわけか。
今はこっちに来て200日と少し経ってるから、誕生日そのものはとっくに過ぎてるとわかってはいたんだけど、目安くらいにはなりそうだ。
ウルリカが何かに気付いたように青い目をキラキラさせてこっちを見る。
「シオネ。あなたとケイセイのお誕生日がわかったの?」
まだ拘ってたんだな、お祝……
「……んあ? ええと、確かには言えないのです。私たちの村では、一年は365日と数えていました。ですから、この暦に合わせると、日がずれてしまいます。でも、おおまかにはわかりました」
「是非教えてちょうだい!」
ウルリカの発するキラキラが増した。眩しい。
「はい、えーっと、私はゴガ……んーと、にじあらわる月のおしまいくらいです。来年ひとつ歳を取ります。敬清は、きたかぜの月のはじめくらいと思います。だから、この間誕生日が来ているので、12歳になりました」
「まあ、そうだったの! それじゃあ、ケイセイのお誕生祝いも兼ねて年越しのご馳走を作ることにしましょう。年が明けて10日もすれば兄様の22歳のお誕生日も来るから、そのお祝いもまとめて兼ねてしまいましょうね!」
ウルリカは浮き浮きと手を叩いた。
そういえば、お兄さんはウルリカの5歳年上だって言ってたっけ。
そんなわけで、今までは二人前の蕎麦(具なし)をじいちゃんと弟と三人で等分していた年越しの夕飯は、外注のオードブルもかくやというご馳走を5人で囲むという賑々しいものとなった。時々、じいちゃんがイワシを手に入れて来て、焼いてくれたりしたんだよなあ。この時期に新鮮な魚を入手することが内陸ではどんなに難しいか。私と弟の見てないところで、じいちゃんはじいちゃんの戦いをしてたに違いない。
おじさんとお兄さんは時に連れ立って、時に交代で仕事に行く。おじさんにも休みを取ってもらおうという心遣いだろう。
どっちかがいる時は、敬清の訓練を監督したり、稽古をつけてあげたり、水汲みや雪掻きなどの力仕事を率先してしてくれる。家事の効率がぐんと上がって大変ありがたい。
雪中行進の訓練だと言って敬清を連れて、天気はいいけれど雪が深く降り積もった森の中まで行くこともある。
ウルリカは言うまでもなく、おじさんもお兄さんも敬清にとって実になることは気前よく教えてやり、可愛がっている。時折男同士の話でもしているのか、その後しばらくは照れたり不貞腐れた様子を見せたりなんてこともあった。そんな時の話題の焦点が何なのかは私も察しているつもりだ。見当もつかずに心配しているのはウルリカだけだろう。
そんな中で我が弟は着実に力と技能を増し、以前の調子を取り戻しつつある。
おじさんは口が堅い。穏やかな目をしたまま、絶対に失言しない。
ただ、お兄さんは野次馬根性に負けたらしい。野性味あふれる不敵なにやにや笑いを浮かべて、ウルリカに告げていた。
「あいつは、最低でもおまえより強くなりたいとさ」
小さい子供みたいな、いたずらっこめいた表情でとても楽しそうに暴露した内容は、私の推測通りだった。
私たちを後ろに庇い、強そうなフォルクを狙い澄ました一突きで仕留めたウルリカの手並みは鮮やかだった。手負いの獣に反撃のチャンスを与えないよう、その苦しみを長引かせないよう。それに多分、私たちが見ることになる光景を少しでもむごいものにしなくて済むように。流れる血も少なくて済むように。そんな気遣いの籠められた、儀式のようですらあった。
その母のように愛情深く、頼もしくも勇ましい姿に、素直に感謝と尊敬の念を抱いた。
けど、弟の感想は私とは異なったようだ。
まあ、ぶっちゃけショックではあろうさ。
子供らしい憧れで剣の使い方なんかを教わったりもしてたあの子にとって、最初に起こった有事がとても自分の出る幕じゃなくって、自分よりもはるかに経験豊富な女性に守られながらその腕前を遺憾なく見せつけられたのだ。私の憶測も交じってるけど、殊にウルリカに、フォローしようもなく守り抜かれたって事実が痛いんだと思う。
自分の無力が不甲斐なかったから。だからウルリカにだけは今までみたく甘ったれた態度を取れなくなった。そんなこったろうよ。
じいちゃんなら勝手に行き詰らせときゃええ、男の子にゃ挫折を知る時があらぁやとか言いそうだけどさ。まあ、一人で悩んでる時って、自分一人の限界を思い知るのも早いもんだよね。
しばらく無口かつつんけんしていたかと思うと、まるで何かを忘れたいかのような気迫で訓練に打ち込んでさ。
一時的にでも人懐っこさをかなぐり捨てた敬清の態度に、ウルリカは気が気でないようだった。息子がある日突然不良になったおかあさんみたいだと思ったことは誰にも言ってない。
弟よ、ウルリカがショックを受けているのは、自分がフォルクをやっつけたあの件が、子供のあんたの心に傷を付けたからじゃないか、自分がいけなかったんじゃないかって自責してるからなんだぞ。早くそれに気付けるだけの冷静さを取り戻せ。目を回してぶっ倒れてから頭を冷やすのもいいが、そうなると余計に心配をかけるんだぞ?
実力と経験に差がありすぎるんだから当然のことだってのに、どうしても現実と向き合えずにいたんだろう。そこを、ウルリカよりも強いらしいおじさんとお兄さんが喝を入れてくれたってとこだろうか。
「俺と父さんにしても、あいつが腕を上げてくれるのはありがたい。そういうことだ」
どういうことなの? という顔で首を捻っていたウルリカに多分罪はない。
てゆーか、おじさんとお兄さん、うちの愚弟を娘と妹の求婚者候補として認める気なのか? それくらいの見込みがあると思ってくれたんならいいけど、手近な異性で済ませようとか思ってないか? 本当にいいのか?
私も何か、自衛の手段となるようなことを習った方がいいんだろうか。
この辺境の森の一軒家での暮らしは、思いの外綱渡りだった。おじさんが毎日近所に異常がないか見回ってくれて、ウルリカが片時も離れずついていてくれて、ようやく保たれている安全なスローライフなのだと思い知った。誰かといて、守ってもらわないことにはおちおち出かけることもできない。身を守る術を独自に獲得しない限りは。そしてそれは、おじさんやウルリカの厳しい審査をくぐり抜けるものでなくては認められないだろう。
別に答えを急かされているわけでもない。じっくり考えていけばいいんだと思うんだけど……なんだろう、自分が今すごく何もしてない人のように思える。焦る。
新しい年を迎えて三日目の朝、朝ごはんの材料にする卵を回収しに鳥小屋に向かった。
ウルリカが作ってくれた毛皮のコートを着込み、彼女に教わりながら作った帽子を目深に被り、毛皮の端切れを縫い合わせて作ったマフラーを鼻先を覆うまで巻き付け、ミトンを嵌めると、小さな籠を抱えて外に出る。
玄関を出て、角を回り込むまではすぐだった。昨夜のうちに降り積もった雪おろしと雪かきをここ一月の朝一番の仕事にしている男衆の活躍により、家の周りの雪は平らに均されている。
敬清も早起きしておじさんたちに従って出て行ったが、玄関周りには誰もいなくて、雪かきは粗方済んでるように見えるのにまだ戻ってきていない。おじさんやお兄さんが一緒なら危険もないだろう。どこかに足を伸ばしてると見た。
雪が降り始めて間もない頃は、私たちは嬉々として雪だるまを作ったもんだ。雪が新たに降る度に埋もれてしまい、雪かきの度に撤去されてしまうので、すぐに諦めてやめてしまったが。
角を回って鳥小屋に急ぐと、秋のうちに風雪の吹き込みを制限するように建て付けを強化し、蓑を被せて一回り大きくなったその中で、鳥たちが枯草の寝床にうずもれて身を寄せ合っていた。羽毛を精一杯膨らませ、空気に触れる面積を少しでも減らすために顔を肩に埋めていて、まるで羽毛のお団子が積み重なっているみたいだ。
「おはよ。寒いね」
「おはよう」
「おはよう。寒いよ」
声が哀れっぽい。火鉢でも置いてやった方がいいんだろうか。
「おはよう。朝から卵泥棒だなんて、毛なし猿ときたら」
厭味ったらしい甲高い声が頭上から降ってきたので屋根の辺りを仰ぐと、積雪を除かれた屋根の縁、冬空を背景に鮮やかな青い羽根のトゥトゥがとまっている。
「おはよう……ございます」
屋根には雪べらを掴んだお兄さんも立っていた。おじさんより細身の体格と帽子の隙間から覗く灰色の前髪が、お兄さんだと知らせてくれる。
うわっ、鳥に話しかけたとこを聞かれた。慌てて言い直した挨拶が、お兄さんに気付いて話しかけたように聞こえればいいけど。
「お早う」
「僕にはなんにもないのかい?」
トゥトゥが批判的に追撃してくるが、淡々と挨拶を返してきたお兄さんの手前、返事もできずに弾劾されるしかない。
「僕に言わせれば、諾々と卵を取られ続ける輩もどうかと思うけれどね。毛なし猿に飼われるような羽類は頭の回りが鈍くていけないや」
フンと鼻を鳴らす音さえ聞こえてきそうな侮蔑に満ちた声音で青い鳥は言う。
「僕なら大事な卵を奪われるなんて耐えられないね」
言われっぱなしのティフススたちは一向堪えていない様子で、時折寒いようと愚痴っている。
トゥトゥに、ティフススが毎朝産む卵は無精卵だから雛は孵らないと説明しても無駄だろうなと思いつつ、黙って卵を籠に集める。早朝の冷気に晒され、生み立て卵のぬくもりはたちまち失せてしまった。
「区別がついていないんだな」
さらりと割って入った言葉は、屋根からひらりと飛び下りてきたお兄さんのものだった。結構な体格なのに体重を感じさせない軽やかな着地だ。均された雪に、煮固めた革に所々金属片も付いてる頑丈そうな長靴を履いた足が、甲まで埋まった。
お兄さんはよろけもせず体勢を立てなおし、帽子と覆面の隙間から覗く薄青の目でトゥトゥを一瞥した。
「我々の群れは彼らより強い。群れの主がその方針を許しているから、習慣として成立している。無知な新入りをからかって遊ぶな」
私はまじまじとお兄さんを見た。
お兄さんは父親であるおじさんに似ている。
おじさんを一回り小型にしたような見かけで、身長はゆうに190センチを超えているだろう。2メートルには、ちと足りてないかな? 測ったことはないけど、おじさんは2メートルあると思う。
これまたおじさんによく似ていて、おじさんより少しだけ濃い、でもウルリカよりは薄い青の目は感情が映りにくく、覆面で目元以外を覆われている今は何を考えているのか全く読み取れない。体の大きさと相俟って威圧感半端ない。一言も喋らないで眼前に立ちはだかられると、もうね。
お兄さんは私を見下ろしてしばし黙した後、大真面目に言った。
「ティフススがトゥトゥの言葉に反応しないのは、トゥトゥの言葉がわからないからだ。同じようにトゥトゥにもティフススの言葉はわからない。野鳥と家禽とでは感じ方が大きく隔たるということもあるが、互いにわかろうとしないからという方が正しい。例外はあるが、普通はそうだ……それより喉を痛めるぞ。口は閉じろ」
マフラーの下に隠れてたのに、なんで口がぽかんと開いてたのがわかったんだ?
お兄さんは雪べらを家の壁に立てかけ、鳥小屋掃除用の熊手に持ち替える。鳥小屋掃除を手伝ってくれる気らしい。
「前の前に来た時、こいつに話しかけられてそれを聞き分けていたろう」
うまく誤魔化していたようだがとさらっと暴露しつつ、窮屈そうに長身を屈めて、けど慣れた様子で鳥小屋に入ってきた。
私としては、あの時離れたところで敬清に木刀で打ちかかられていた人がよくそんなことに気付いていたなと突っ込みたい。しないけど。
ともあれ、鳥小屋掃除は本来卵集めに来た人の担当である。私も我に返り、卵の籠を小屋の外の雪の上に置き、お兄さんがかき集めてくれた糞床の枯葉を新しい物に取り替える。
「あいつらは口が軽いから、言葉の通じん相手にも好き勝手に色々言うが、おまえはそれを理解して反応した」
「勝手なこととはなんだい。群れの仲間なら当然教えておいてあげるべきことを君たちが忘れてるみたいだから、代わりに僕が教えてあげているんじゃないか」
「それくらい同族で面倒見る。お前のようなお喋りに嘴を挟まれると迷惑だ」
そこまで言って、喚くトゥトゥをきれいさっぱりスルー。青い鳥はばたばたと暴れて屋根の上に残っていた雪をお兄さんに向けて落とした。ひとひらも届かない。
ああ、本当にトゥトゥと会話できてる人なんだ。しかも大分気安い仲と見た。
お兄さんは熊手を駆使して、糞床から回収した枯葉を堆肥用の大桶に移し替えながら続ける。
「イズリアルは何も気づかなかったし、あの時はあれでよかったと思う。おまえの素養を明らかにして、それを磨くにしても抑制するにしても、ここの文化と風土に馴染んでからの方がいいだろうから」
私が餌の雑穀を餌箱に移し替える横で、水入れに張った氷を取り除きながら淡々と。
バレていたとは思ってもみなかったので、今更ながら気が気じゃない。言い逃れようにもなんと言っていいやら思いつかないわ、どういう対応が効果的なのかさっぱりわからない。よって黙っているより他ない。特に今のお兄さんは何を考えてるのか分からなくて、怖くて顔を見られない。
でも、お兄さんも私と同じことができるってことは、偉い人にばれたら困るはずだ。いや、ばれても困らない種類の能力なんだろうか。
あれから2月近く経っているし、誰か偉い人に喋られたなら、もっと私の周囲は騒がしくなってるんじゃないかって気はするから、自分の胸の内に留めて黙っててくれてるのかもしれない。
思ったより自分が平静だと感じていたが、一向考えがまとまらないのはやはり軽くパニクってるからかもしれない。でも自分の立場が安全かどうかは確かめなければという自己保身の心だけは正常に機能した。
「……もしかして、隠すしなくてもいいことですか?」
「心配しなくたって、毛なし猿にそんなことわからないよ」
「静かにしていろ。おまえ自身に自分の力を受け入れる準備が整っていないだろう。だからあの時あれでよかったと言った」
あ、そうですか。ちなみに前半は、茶々を入れてきたトゥトゥに向けたお叱りのお言葉だ。
「お役人の上の人は、知っていませんか?」
「あの場にいた者の中で他にトゥトゥの警告を理解した者はいないし、俺は外部の人間には報告していない」
「そうそう。他の毛なし猿には僕の言うことはわからないって、僕にはわかっていたからね」
いかにも僕はいいことをしましたよ、と言わんばかりのトゥトゥを、お兄さんは黙って長々と見た。
「僕、そろそろ行かなきゃ」
青い鳥は突然急用を思い出したようだ。そそくさと飛び去った。
「おにいさんも、動物や鳥の言葉がわかること、隠していますか?」
「ああ。本来隠すことではないが、大っぴらにはしていない」
その言い方は、知ってる人もいるって意味にとれる。
嘘が吐けない人なんだろうな。案外、お兄さんがお役人なんて職業に就いているのも、その辺に由来するのかもしれない。
となると、私も知ってる人は少なく留めた方がいい気がする。
「お兄さんは、私のこと、他の人に話しませんか?」
「必要でなければ」
そうでなければ、あえて口外しないということだ。必要な時が来るとは思えないし、少し安心できた。
「先程の話だが、獣の世界でもそれぞれの種族によって言葉が違う。正確には受容する感覚の違いと相互理解の意思の有無によるのだが、おまえはそれを認識していないようだ。つまり話し手の意図にかかわらず両方の言葉をきわめて自然に聞き取りできている。だから違いに気付かない。どちらの言葉も、自分にとって理解しやすい言語を話しているように聞こえているんだろう」
その通りです。生憎母国語の日本語ではなく、こちらの世界の人間語として聞こえていますが。
お兄さんの言葉が止まり、考えをまとめているような物言いたげな沈黙が横たわる。
その間に、私は手を動かしながら考える。
動物や鳥の言葉が種類ごとに違うというのは、人間も民族や居住地域によって言語が異なるのと同じようなものだろうか。それを慣れと勉強によって習得数を増やしていけるとか?
いや、多分そういう私の頭で思いつけるような単純な理屈ではないんだろう。私は複数言語に慣れもしてなけりゃ勉強もしてない。学校の英語の成績はぶっちゃけ中の下程度だった。
あるいはそうとすら感じないことが、お兄さんの言う区別してないとか、素養とかいう問題なんだろうか。それを説明してくれる気があればいいんだけど、説明するまでもないという前提の下で会話を進められている気がしてならない。
うん、無理無理。考えても無駄。
私は辛抱強くお兄さんの次の言葉を待った。
鳥小屋の掃除が終わった。お兄さんが腰を屈めて小さな戸口をくぐり抜けるのに続いて私も鳥小屋を出た。
「おまえには並みではすまない素質があるに違いない」
こちらを向き直ったお兄さんと目が合う。ウルリカや敬清を相手に細めた時に垣間見える笑い含みの気配はひと欠片もない。苛立ちを押し込めているかのような薄青の目が咎めるように険しくこちらを射た。
「珍しい素養であることは確かだ。その分危険だ。無制限に使っていいものではない。おまえは色んなものに話しかけて意思の疎通を図っているようだが、それはやめろ。おまえのように無暗に声を拾っていると消えてなくなるぞ」
その言葉の意味を理解するのに、少しかかった。フォルク事件の時に私が拙いながらも用いた生きるの否定ではない、明確な消滅を意味する言葉のようだった。
きっとお兄さんは、死ぬと言ったんだろう。死という言葉は、まだ誰からも習っていない。
「心か体か、どちらが先かはわからんがな」
その言葉の意味を質そうとした時、お兄さんは私の次の言葉を押し留めるように手を翳した。
家の角を回り込んで、剣を引っ提げたウルリカが現れた。
お兄さんは妹に軽く手を挙げて「はよ」と挨拶をする。私に対するものとは違って、随分砕けた挨拶だ。
「兄様、おはようございます」
「すみませんでした、ウルリカ。卵は遅刻しました」
慌てて卵の入った籠を抱える。我知らず息を詰めていたのか、言葉とともに気霜がぶわりと巻き起こった。
「シオネ、大丈夫? 兄様、シオネに何かおかしなことでも仰ったの?」
ウルリカが血相を変えて走り寄って来るほど、私は不自然な顔をしていたのだろうか。というか、なんで顔の半分隠してるのにこっちの表情の変化を的確に見抜いてくるんだ、この兄妹。
「いや。普通に話をしただけだ。俺の言葉選びが悪かった。彼女には難しかったかもしれないな」
お兄さんは手にしていた掃除道具を鳥小屋の側の用具入れに仕舞い込み、家の壁に立てかけた雪べらに持ち替えながら静かに言った。本当に何でもないことだったみたいに平静だ。実際に、お兄さんにとっては私の進退など何でもないことなのかもしれないが。
「父さんはケイセイを連れてマズリたちに朝飯を食わせに行ってる。ついでに騎獣の乗り方も教えるとさ。じきに戻るだろ。後片付けを済ませたら俺も戻る」
それだけ言うと、さっさと鳥小屋の裏手に消えてしまった。
……肝心なところで逃げられた。少なくとも、ウルリカが聞いているところでは詳しく話すつもりはないようだ。
「……シオネ? 顔色が悪いわ。家の中に戻りましょう」
ウルリカの顔には、疑念と心配がありありと浮かんでいる。家族を信頼しきっている彼女には、兄の言葉を疑うなんて発想は微塵もない。だからなんで私が動揺しているかが不思議でならない。今のウルリカは丁度、そんな表情をしている。
「戻りが遅かったから、前のように鳥小屋に行った時に何か悪いことが起こったのではないかと思ったの。無事ならよかったわ」
そこでやっと、ウルリカがフォルク事件の再発を恐れていることを悟った。
私が無力なことは彼女も百も承知だ。何か起こった時にそれを守るのは自分だという責任感と、戻りが遅いことから首をもたげた恐れに突き動かされて、剣を取り私の後を追ったのだ。近くで雪かきをしているはずのおじさんやお兄さんの存在すら失念して。
「それは大丈夫です。おにいさんがいてくれました」
「そうね。兄様がご一緒なら何が起こっても安全だわ」
うん、まあ、そうだろうね。
時々会話をする森の生き物たちは、私たち同じ家に住んでいる毛なし猿を一つの群れとして捉えている。そのボスと認識しているのがおじさんだ。『お前たちの群れの一番大きく強い』と評されるおじさんと並んで特別視されていたのが、たまにしかここに来ないお兄さんだった。その理由がやっとわかった。
「……おにいさんは、私に悪いことを喋ったのではないのです」
とりあえず、ウルリカの心配の種は取り除いておきたい。
「私は少し、本当とは違うように考えて……誤解? していたことがわかったので、反省……考え直さなくてはいけません。おにいさんは、それを教えてくれたのです」
ウルリカは空気を読んでくれた。煙に巻くような言い回しで、何が何だかさっぱりわからなかっただろうに、詮索の素振りも見せないでいてくれたから。
翌日は、年が明けて4日目、お兄さんが仕事に戻る日だった。
お兄さんが帰り支度をしているのを察してか、どこからともなくいそいそと現れた三頭は揃い踏みし、手綱と荷物をつけられるまでいい子で待機していた。もしかしなくてもお兄さん、マズリと話せる?
私はマズリとはうまくいかなかったんだよね。この能力を自覚してから何度か話しかけてみたけど、どうも舐められているような気がするばかりで、会話が成立したことはない。
でも納得した。お兄さんを主人だと思っているから、私なんて格下、歯牙にもかけてないんだ。この推測は間違ってないと思う。
そういうこと含めこの力のことを色々と確かめたかったのに、お兄さんとはあれからこの話はできなかった。
何度か、あの朝の話の続きをしたくて機会を窺っていたのだが、雪に閉ざされた一軒家では二人きりになるチャンスなんて滅多にあるもんではなく、結局謎は謎のままだ。
一応、屋外の声を聞き取ろうと意識を傾けることはやめることにした。脅し文句にしても『消えてなくなる』なんて怖すぎる。
お兄さんはおじさんが仕事に出るのと同じタイミングで、三頭のマズリを引き連れて去って行った。
私たちは、最後のマズリの一頭が見えなくなるまで表に出て見送った。
それから、家の中に戻ろうと三々五々踵を返した時。
けーん、と、動物の鳴き声が聞こえた。
ずっと前方、さっきお兄さんが消えた方向だ。
けーん、けーんと、何度か調子を変えてその声が冬空に響く。
「ウルリカ、あれは何の生き物ですか」
首を竦めていた弟が、耳元を覆う帽子を少し引き上げてきょときょとしながら、ウルリカに尋ねた。
「あれはケーンよ。ケーンと鳴くからケーンというの」
敬清にものを訊ねられたのが嬉しいのか、ウルリカが同じように耳を澄ませながら物柔らかく答える。
「いい毛皮が取れる獣なの」
うん、実利的すぎるその言葉はきっと、笑うところでも引くところでもない。私たちの世界でもそうである以上。
「……キツネじゃよ。見た目もそっくりなんが図鑑にあったで」
チットに負けず劣らず手強い家禽泥棒だと書いてもあった。でもウルリカによると、彼女の記憶でもケーンがティフススを襲ったことはなかったという。多分、群れの主ことおじさんまたはお兄さんに恐れを成す何かがあったんだろう。
私がぼそっと発した回答に弟はたちまち納得した。
「キツネな! うわなっつかしー」
それからしばらく聞き耳を立ててみたが、鳴き声はもう聞こえない。
名残惜しそうにする弟を尻目に、私はそれどころじゃなかった。
ウルリカすら気付いてないみたいだが、動物の鳴き声を装って届いたその声は、さっきここを去ったばかりのお兄さんの言葉だったのだ。
『詳しいことは父に訊け』
……丸投げ感満載のその言葉は、明らかに私に向けて言っていた。
お兄さん、動物語喋れるんだ……あれは鳴き真似なんていうものじゃなくて、本当に私にしか意味が通じない、動物の言葉そのものだった。
敬清とウルリカの耳を憚ってこんな回りくどいやり方だったけど、一応気にしていてはくれたらしい。
無暗に声を拾うなと言った矢先にこんな手段で声を届けてくるなんて、お兄さんのやり方ではない気がする。それでもやったということは、それしかなかったからか、それでも安全だと判断したからじゃないだろうか。
今のお兄さんのキツネ語は、特別聞き取ろうともしていない状態で、ごく自然に人間同士が話す言葉のように耳に入ってきた。動物と向き合って、目を見て、気配を窺って、共感しようと意識して言葉を受け取る必要もなくて、何の心構えもしていない時に不意に投げかけられた言葉がするりと頭の中にまで浸透する時に似ている。
もしかして、この能力、小難しく考える必要はなくて、もっと単純なものなのかもしれない。お兄さんはそれを伝えようとしたのかな。そもそも私の力の使い方は間違っているのかもしれない。
まあ、なんにせよ、あれだ。説明が足りてない。
ていうか、もしかして、おじさんも聞こえる人?
しかしあれから、お兄さんの時と同じ理由で、おじさんと腹を割って話す機会には恵まれていない。
そんな時、私を訪ねてきたものがあった。