春
ドンドンドン、とホテルのドアを叩く音がした。
「っる、せぇな…」
泰山は不機嫌にベッドから身体を起こす。
ドンドンドン
「ハイハイ、起きてるよ!誰だよ」
頭を掻き回しながらドアを開けると社員の子安と小野だった。
「社長、もう11時ですよ」
「だから何だよ」
「どっか行きましょうよお」
「チッ」
舌打ちしてベッドに座る。
せがまれて希望者のみで社員旅行を企画させたらなんと十五人いる社員全員参加だった。
なるべく家から離れたくない泰山は金だけ出して自分は欠席しようとしたが、「社長が来ない社員旅行が何処にあるんですか」と引き摺って来られたのだ。
小賢しい子安の「もしかしたら藪先生がいるかもですよ」という一言が効いたのは言うまでもない。
「勝手に行けよ。俺は忙しいんだ」
「忙しいって、寝てたじゃないですかあ」
「夜遅かったんだよ」
飲んで部屋に戻った後、ふと夜の海に暁月がいるのではないかという妄想に取り憑かれ、散歩しに行って道に迷ったのだ。
「まさかお前ら俺を待ってたんじゃないだろうな」
「社員全員、ロビーで待ってますよぉ」
「はあ?主体性の無い阿呆ばっかりか」
さっさとバラけて好きに観光すればいいものを。
呆れて、泰山は素早く着替えた。
窓の外には春の海が広がっている。
「一個メール送ったら行くから先に下行け」
と腹心二人を追い出して、泰山は暁月にメールを打った。
――三浦に来たよ。家にも張り紙したけど万が一戻ってたら絶対待ってろよ!予備鍵はいつものとこ。愛してる。会いたい。
「…早くメール見ろよ、っと」
送信ボタンを押して、PCを落とした。
その時、稲妻のようにドアが鳴った。
***
暁月は春の海を背に石段を上がった。
目当ての旅館に入ると、待ち合わせなのかロビーには十人程の男女がいる。迷惑を掛けるかなとフロントに目を走らせると、そちらはどうやら暇そうだった。
「こんにちは」
「おはようございます。おや、藪先生、どうなさいました?いつもの?」
顔馴染みの従業員が後ろを振り返ろうとするのを暁月が遮って、
「いいえ、今日はこちらに宿泊している人と約束しておりまして。403の栗田という男性です。着いたら呼び出すようにとのことだったので、お手数ですが電話してみてもらえますか?」
「はい。では、確認致しますので、あちらでお待ち下さい」
ロビーの窓際のソファを示されて、頷いてそこに座る。
ロビーにいる男女は見た感じ社員旅行のようで、その雰囲気から暁月はなんとなく昔の同居人のことを思い出して、また性懲りも無く少し胸を痛めた。
二年という歳月は、傷を埋めてくれるどころか、滴る水滴が岩を穿つように胸の間隙をジワジワ広げていく。
鈍痛のような失恋の痛みには慣れたが、心の中に居座る泰山のふてぶてしさのせいで、寂しさは日一日ごとに積もるようだった。
「せんせぇっ」
どこか語尾が間延びした栗田の声に暁月は我に返った。
デビューの時からの担当編集者の栗田が寝起きの崩れた浴衣のままドタドタと丸い体を運んでくる。
暁月は栗田に手を掴まれ上下にぶんぶん振られながら、呆れたようにこう言った。
「本当に来たんですね」
「本当に来ちゃいました…!先生ダァ」
顔馴染みになったこの旅館の番頭にお願いして、栗田からの郵便物は全てこの旅館宛に送ってもらっていた。そうしたらなんと、先に届いた郵便の手紙に「五月四日にホテル三崎屋に宿泊します。朝十時にロビーでお会いしましょう」という一方的かつ強引な約束の文が認めてあったのだ。
「それで、何の用ですか?」
「何の用かと言われると、新作書き下ろし出版前に先生の所在を確認しておきたかったのと、藪先生の生存確認と言ったら経費で旅館代が出るので、それで」
「なんだ、旅行ですか」
暁月は呆れた。
「いやいや、大事な用がありますよ。これこれ」
と鞄から黒い四角い機械を取り出す。
「…なんです?それ」
「ノートPCです。書き下ろし出版に向けて、先生といつでも連絡が取れるようにと思いまして。会社から借りてきました。電話もないっておっしゃるし、こちらからの連絡手段が郵便だけではチョット不安です」
「えー…」
機械音痴の暁月が呪物を見る表情でローテーブルに置かれたPCを見る。
「ダメですよ、今の時代、メールだけでも送れるようになって貰わないと、校閲も儘ならない。ほら、会社に言ってPCカードもレンタルしてもらいましたから」
「…なんのカードだって?」
「兎に角まず立ち上げて見ましょう。……ウン、縦にしないで。…違っ、ぐふ、違います。そっちの向きでもダメです」
期待通りといった栗田の表情が癪に障る。
「そこを横にスライドさせるとパカって開くようになってるんで、開いて、アッちょっと開きすぎかな、ヒンジが馬鹿になっちゃうかな」
「私が馬鹿にされてる気分です」
「そこの丸いマークのあるボタンを押して下さい。アッ、もうちょっと長く。アッ、そんな強く押さないで」
「注文が多すぎませんか?」
だから機械は嫌いなんだ。
そう思うと同時に、脳裏にいる男が「新しい物にもどんどん慣れていかねえと。勉強ってのァ、過去のことを習えば終いか?」と耳に痛い正論をぶる。
「…はぁ。んで、次は?どうすりゃいいんです?」
溜息を吐く作家の前の画面は大仰な音を立てながら作動し出し、ややあって青い画面の右下に何故かイルカのキャラクターが泳ぎだす。
「次はメールアドレスを作ってみましょう」
「めいるあどれす…」
さすがにメールアドレスは知ってるが、それを、作る?
その時パチンと将棋を指すように頭の内側で何かが小さく弾けた。
――ほら、お前のメールアドレス、作ってやったぞ。一目で藪センセイって丸わかりのやつ。
「やぶのなかのあかつき…」
「なんて?」
「いや、ちょっと待って。…ええと、絶対メモしてるはず」
暁月は懐から常に持ち歩いている手帳を取り出してメモに目を走らせる。
「あ、…あったあった。これだ。私、メールアドレス作ってあります」
「え!マジですか?…失礼、先生は本気をマジと言うのお嫌いでしたよね。本当ですか?」
「これでしょう?このパスワードというのは…?」
暁月の昔の戯言を覚えているのは流石だが、それを無視して首を捻った。
懐かしい泰山の汚い字。
「あーパスワードも分かるんだったらそのまま使えるかもですね。ちょっと拝借してよろしいですか?…ほいほい、テンテッテテケッテケッ〜」
変な効果音を口ずさみながら栗山がカタカタキーボードに指を滑らせる。
「…よし、多分いけた。先生、いけましたよ」
どこにいけたのか目的語がない栗田のセリフに暁月は適当に頷いて再びパソコンを受け取る。
「…?これ今、何を?」
「今は過去のメールの送受信してます。結構時間掛かるかもですね。私、ちょっと着替えて来てよろしいですか?」
「是非そうしてください」
宿泊翌日の着崩した浴衣姿で衆目に晒されている栗田の姿を内心気恥ずかしく感じていた暁月は強く頷く。
PCの画面に目を向けると、送受信件数が230、231、232…と増えていっていた。
え?何故だ?
メールアドレスを作成したのは、泰山が携帯電話を購入した時に、「メール送るごっこ」をしたがったからだ。このメールアドレスは泰山しか…。
「…っ」
ざわりと総毛立つような感覚に襲われる。
浅ましいと思いながら、期待が押さえられない。さっき教わった箇所に指を滑らせ、「受信」と書かれた小さな文字をクリックした。
「…は?」
来ているメールはほぼ「市川泰山」からのもの。
震える指で、適当に一通選び、表示させて――
「あ、愛っ…?!」
暁月は思わず大声を上げて立ち上がった。
ロビーにいた全員の視線が秀麗な作家に集まったが、暁月自身はそれどころではない。
片手で顔を抑えながら、座り直し、過去のメールを辿っていく。
…読むほどにその白い頬も耳も首も染まっていく暁月は、ロビーにいた女性の一人が暁月を見て形相を変えてエレベーターにダッシュして、丁度降りてきた男二人を再び箱に押し込めて階数ボタンを連打していた、なんてことにはまるで気付かずにいた。
二年分のラブレターを震える指で辿っていた。
エレベーターを待てずに階段を駆け降りた男に背後から力強く抱き竦められるまで。
そうしてあの凍える夜のように、「見つけた」と囁かれるまで。
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読んでくださった皆様に心から感謝を。
2024/12/12 追記:ムーンライトノベルスさんの方に、番外編「日々是」を投稿しました。18歳以上の方で興味がある方は、是非。