第九話 monster
街に戻ってきたとき、やはり襲撃は全て片付いていた。
残された人的被害,物的被害の規模は相当に大きい。
負傷者に対する介護者の数は圧倒的に足りてなかった。
私も、大量の包帯と当て木を抱えて走り回っていた。
応急手当に奔走しつつ、辺りを見回し続けてみる。
…探すのは一人の少年、しかしどこにも見当たらない。
…今は他に尽力すべきことがある――。
勿論分かっている。だが、やはり落ち着かない。
彼も戦闘をしていた、無傷なはずがない。
そんな状況が数十分続いた時、進展があった。
見つけたのは、痛々しい傷を負ったテロスさん。
そして、暴れる彼を押さえつける数人の男達。
彼らの会話は、私を動揺させるのに充分過ぎた。
「おい!! ほんとにヒシは生きてたのか!!!」
「あぁ!ワタシの手を振り払って
颯爽と君の元へ走って行ったよ!」
「なら、なんでここに居ねぇ!!
なんであいつを止めなかった!!」
「止めたさ!聞く耳は持たれなかったがね!」
「~~!! おい、放しやがれ!」
「そんな体で歩けるはずが無かろう!」
「もう歩けるっつってんだ!探しに行かねぇと!」
「あぁもう!ほんとに君達兄弟はそっくりだ!
今度は放さんぞ!君は治療を受けなければ!」
「うざってぇな!お前は俺の保護者かよ!」
テロスさんと言い争っているのはマネドさんだ。
私も、彼とは一度だけ話をしたことがある。
紳士然とした優しい防衛士…という印象が強い。
それはいい。ヒシさんが行方不明?
初めて知った情報。あまりにも不確定な情報。
手掛かりが少なすぎる、もっと彼の動向を――、…!
…小さな家の壁に背中を預けて座る三つの人影があった。
「ごめんなさい!ちょっと聞きたいことがあって…!」
「ん?あぁリエルか、どうしたそんなに切羽詰まって。」
答えてくれたのはシロンさん。
その横に座るベイドさんとロット君も視線を向けてくる。
三人とも全身傷だらけだ。裂傷と打撲痕が酷い…
…けれど、幸運にも命に別状は無いようだった。
「ヒシさんどこ行ったか知りませんか!」
「あぁ、私達も気にかけていたところだ。
戦闘直後、行き先も告げずに走り去ってしまってな。
ヒシもあの幻妖に相当な傷を負わされていたからな…。
もし良かったら探してみてくれないか。」
「探してみます!皆さんもお大事に!」
私はシロンさんに一礼してその場を離れた。
やるべきことは分かった、一刻も早く見つけなければ。
戦いの痕跡が濃く残る南門を抜け、走る。
草原よりも更に遠くを目指して、ひたすら走る。
しばらくして、人の気配が無い場所へと辿り着いた。
ここなら大丈夫だろう。懐から鍵を取り出し――
「――1つ使う、"彼の場所を教えて"。」
---
一つ、疑問が残る。
爬竜と龍人との力関係について。
最終的に、爬竜達の数は九十匹ほどに達した。
更にその中の一体は群を抜いて強大であり
準幻妖級の力は有るだろうということが判明している。
そんな長のような存在が龍人を背中に乗せていた。
一切の抵抗も嫌悪も抱かずに。ただ従順に。
…そんなこと、有り得るのか?
最初は恐怖により支配されているものだと思っていた。
龍人が全ての爬竜を従えているのだと。
しかし、あの数の爬竜が束になって掛かれば
例え龍人相手でもそれなりの勝負になっただろう。
――プライドの高い爬竜が他種族を背中に乗せた。
この事実を説明するには、明確で根強い理由が要るのだ。
利害の一致による協力関係と考えるのが最も自然か。
それでも、拭いきれない違和感と不自然が在る。
協力関係ならばせめて統領同士は対等であるべきだ。
こう考えよう。
龍人と爬竜という種は対等だった。
彼らは確かな合意の下で相互協力を締結した。
準幻妖の爬竜を足にすることも承諾した。
…三つ叉の爬竜にそう命じた奴がいる。
あの精強で強烈な爬竜が副将だとすれば?
――つまり、こっちが本命だ。
俺は足を止めて、顔を上げ、ソレを見つめた。
そこに居たのは尻尾が四本に枝分かれした爬竜。
『 ――GRRYYLLYLYLYYYLYLRY…???? 』
その巨体を覆う鱗からは瘴気が絶え間なく漏れ出ていて。
その大口からは猛毒の雫がポタポタと滴り落ちていた。
体質か、妖術か。ソイツの鱗からは酷い腐臭がした。
まるで地下深くから漏れ出たガスのように淀んだ空気。
呼吸するだけで体内が汚染されてくのを理解できる。
…並の人間が吸えば、即刻死に至るレベルの猛毒だろう。
「……さて…。」
問題は独りで勝てるかどうか。
街で異変に気付けるとすれば、兄ちゃんくらいだろうか。
いや、妖力の感知は体調に大きく左右される。
今の彼に気付けというのは無理な話かもしれない。
そもそも今のメーセナリアは崩壊寸前だ。
こんな幻妖が辿り着きでもすれば、秒で滅ぶ。
選択肢は端から"単独で勝利"以外残されていない。
誰の記憶にも残らない内に、俺がここで倒す。
過去など、全部無かったことにしてしまおう。
『後ろは視るな』だったか。…良い言葉だと思う。
ただ残念なことに、後方も前方も真っ暗闇だ。
……自分の所在すら、視えてねぇよ。
---
「――おだいじに、だってさ。」
「んだよその視線!俺が悪いって言いたいのかよ!」
「おれは、てあてうけたかったけどね。」
「私も正直しんどいが。」
「…ごめんってば。」
「かっこつけるからじゃん。」
そりゃ一般の市民とかを差し置いて
先に治療を受けるのは遠慮するでしょ。
ギルドリーダーとしての面子もあるし、
医者にも『一番最後で良い。』くらいは言う。
まぁ流れで巻き込んだ二人には申し訳ないと思っている。
「…結果を見れば、良い収穫も得れたがな。」
シロンは手で爬竜の妖石を弄びながらそう言った。
当然妖石の表面には一筋の傷が付けられている。
彼女は鍛冶師だ、契約には然したる興味も無いのだろう。
「おれきょうだけで、ごほんもけんおったよ。」
「なんで自慢気なんだよ。」
「安心しろ、また打ってやる。」
「やったー。」
「俺も新調しねぇとな…。」
「それについてだが、龍人の妖石はどうする?」
「あー…、あのサイズなら何本になる?」
「モノによるが、片手剣三本で余りが出るくらいだな。」
「――まぁ順当に考えて一人は確定だな。」
俺は黄髪の少年を頭に思い浮かべながらそう呟いた。
トドメを刺したのは彼だ。妖石を受け取る権利が在る。
「あとは、テロスとか?」
「それは…本人に聞いてみてからだな。」
「りょうかい、あまったらおれにもちょーだい。」
「お前はそういうとこ強かだな。」
シロンが呆れたように笑う。
笑っているが彼女も大概がめつい所がある。
残念ながら、シロンにとやかく言う権利は無いはずだ。
「あのくろいの、なんだったんだろうね。」
ロットが誰に向けてでもなく一人呟いた。
曖昧な主語だが、何を指しているかはすぐに分かった。
恐らく龍人が使っていた妖術のことだろう。
あの全てを吸い込むような妖術に依って
俺達が引き受けた南門の前線は容易く崩壊した。
最終局面でも此処ぞという場面で使用されていたか。
…そこはロットが機転を利かせたおかげで救われたが。
「さぁな、私も見たことが無い。」
「べいどは?」
「思い当たるとこはある。」
「え、まじ!?」
俺の返答を聞き、目を輝かせるロット。
コイツに教えるのは少し気が引けるが…。
「…多分、『闇』。」
「やみってなに、はじめてきいた。」
「お前本とか読まないタイプだろ。」
「ムズイもん。」
「そういう妖力の種類だよ、『火』とか『水』みたいな。」
「へー。」
「よく知ってるな。」
シロンが感心したように見つめてきた。
お前は知っとけよ、という言葉を飲み込む。
鍛冶師を敵に回すのは後が怖い。良好な関係を目指そう。
「それって、おれにもつかえる?」
「使えないことは無いんじゃないか、前例はあるしな。」
「ふーん…。」
それっきり、ロットは黙り込んでしまった。
龍人が使っていた様子を思い出しているのだろう。
こいつは、他人から技を盗み取るのが抜群に上手い。
遠くの方で二人の女性が肩を抱き合い、
涙を流している様子が見えた。
片方は防衛士でもう片方はその母親だろうか。
二人とも相手の身が心配で仕方なかったのだろう。
どちらかの命が失われていれば、存在しなかった未来だ。
負傷者は未だ沢山残されている。
当然、救えなかった命もある。
諸手を挙げて喜ぶことは出来ない。
ただ、救えた命もある。
多数の犠牲によって守られた幸せもあるのだ。
…納得はしないぞ。人類の未来に犠牲など要らない。
「……父さん。」
貴方の悲願を、必ず。
---
聞き出した情報を基に、彼が居るであろう場所へと走る。
彼はどうやら龍人とも一戦を交えたらしい。
一人の人間が幻妖と戦って無傷でいるはずがない。
彼らのような実力者でさえ、全身がボロボロだったのだ。
そんな体で、こんな所まで何をしに行ったというのか。
その答えはすぐに得ることが出来た。
大きく抉られた大地、溶けるように破壊された木々。
自然破壊の先にあったのは巨大な爬竜の死体。
見たことも無いような巨体に思わず足がすくむ。
こんなものがもし動いていたら…それこそ災厄だ。
私ならばその場で気を失っていたかもしれない。
そんな思考は、ある人影を見てすぐに断ち切られた。
細身の少年が巨大な化物の上で剣を突き立てている。
間違いなくこの化物を仕留めた人物。
間違いなく私が探し求めていた人物。
「ヒシさん!」
「? あぁ、リエルさんですか。」
彼の姿は見る影もないほど変わっていた。
着ている服はボロボロで。腕は酷く焼け爛れていて。
頭からはゾッとするほど大量の血を流していた。
「っ、酷い怪我だよ!はやく街に!」
「あんまり近づくと危ないですよ。」
ヒシは死体から剣を引き抜きながらそう忠告してきた。
地面を見ると辺りには紫色の液体が散らばっている。
流石の私でも、それに触れるのは厳禁だと分かった。
…その場に足を止め、私は再び声を飛ばす。
「ヒシさんの状態が一番危ないよ!」
「俺は大丈夫です、慣れてますから。」
そう言いながらヒシは死体から飛び降りた。
…そのままどこかへ歩き去ろうとしている。
彼の足取りは酷く不安定で、途轍も無く不規則で。
私の眼には、とても"大丈夫"に見えなかった。
「…? どこ行くの…?」
「少し旅でもしようかと。」
「そんな体で…?」
「えぇ、特に問題は無いので。」
「ねぇ、ダメだよ、帰ろ? フラフラじゃんか…。」
「すぐに良くなります。気にしないでください。」
「……っ、」
ダメだ、こんな言葉じゃ彼は止まらない。
彼の気持ちは、私じゃ変えられない。
私のような劣等生に、彼のような優等生は止められない。
「――せめて、こっち見てよ…。」
だから、私ではそんな細い声を出すので精一杯だった。
私には、そんな弱い言葉を発することしか出来なかった。
「…………。」
しかし、その言葉で彼は足を止め、こちらを振り返る。
声が届いたのか。――そんな期待を抱いてしまった。
そんな愚かな思い上がり,思い違いをしてしまった。
久しぶりに見ることが出来たヒシの顔。
そこには何の感情も残っていなかったというのに。
…自惚れだと知りながらも、私は言葉を絞り出した。
「何があったか、聞かせてよ…。
なんでそんなに悲しそうなの…?」
「――――、勘違いしてたんです。」
…その時、彼の姿が霞んだように見えた。
蜃気楼のように、彼の輪郭が薄ぼんやりとしていく。
このまま朝陽に混じって消えてしまうのでは。
ただの光と化し、掴むことすら出来なくなるのでは。
そんな馬鹿らしい妄想が思考の大部分を占めた頃。
ヒシによって続けられた言葉は、私の胸を突き刺した。
『俺は、人として生きられない。』
---
「幼い頃、母に捨てられました。
目を開けたときには爺ちゃんの家に居て、
それが自然なことなんだって、受け入れるフリをして。」
「それに気づくのに時間はかかりませんでした。
周りの人はみんな自在に妖術を使えたし、
傷の治りも遅かった。…『あぁ、人間なんだな』って。
自分の体を見るたびに、『あぁ、違うんだな』って…。」
「爺ちゃんは多分ずっと前から気づいてた。
でも、俺に対してなんにも言いませんでした。
…俺は、兄ちゃんには隠し通そうとしました。
だって、この体は兄ちゃんの敵に当たりますから。」
「それがダメだったんです。
それが兄ちゃんから逃げ道を奪った。
最初から俺の全てを話しておけば。
兄ちゃんが俺の為に憤ることも無かったはずで。
あの時点で俺が死んでいないって知っていれば。
兄ちゃんはもっと冷静な判断が出来たはずで。
俺が、見苦しく秘密を隠そうとしなければ。
兄ちゃんが防衛士として"終わる"こともなかった。」
「知ってますか? 俺達は人間より好戦的らしいです。
戦闘で,破壊で,殺人で、最大の快楽を得るらしいです。
いつ自分が本性を現すか、自分でも分からないんです。
いつ人間達を恐怖のどん底に突き落としてしまうのか。
いつリエルさんに取り返しの付かない危害を加えるか…」
…辛そうな顔をしたリエルが何かを言いかける。
「……でも、ヒシさんは、……。」
それを遮る為、俺は剣を手に取った。
突然の行動に、困惑と不安を滲ませるリエル。
「…? 何を、」
俺は右手で持った剣を自らの左掌に突き立て。
そのまま、指先へ向けて思い切り剣を振り払った。
――大量の筋繊維が音を立てて切断された。
「っ!?!? ヒシさん!?」
当然大量の血がぼたぼたと流れ出る。
狂行に驚いたリエルが俺に駆け寄ってきた。
慌てて俺の左手を掴み、傷口を確認しようとするリエル。
…数秒後、彼女は巨大な違和感を抱いたようだった。
その様子を少し眺めてから、俺は再び口を開き――
『リエルさん、俺は化物なんです。』
――既に再生した左手で、彼女の手を払う。
『何度治るなって願ったって、体は勝手に治って、
どれだけ妖術を練習したって、『光』以外は使えない。
忘れようしても、母との生活は毎日夢に蘇ってきて、
自分は人間だって言い聞かせて、毎晩嘆いて、……、』
『人間のフリして、嘘をつきながら人間の街に暮らして、
せめてこの体で大切な人は守ろうって思ってたのに、
結局、守れずに、守られて!治らない傷を負わせて…!!』
あぁ、喉が痛い。
ちくちくと、何かが刺さる痛みがする。
こんなに声を荒げたのはいつぶりだろうか。
…もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。
『……もう、疲れたんです。嫌になったんです。
化物のくせして、人間の真似事をして生きることが。
俺を、追わないでください。楽にさせて、ください。』
あぁ、全部、話した。
これ以上話すことなど、一つも無い。
これでもう、俺が人間の街に戻ることは許されない。
そう思い、俺は踵を返して立ち去ろうとした。
人間の眼に映らない、何処か遠くまで行こう。
一匹の化物として世界を彷徨おう。
化物らしく、孤独に消えよう。
――パシッ、という音が響いた。
俺の手には柔らかい感触がある。
さっき振り払ったはずの、小さな手。
彼女の手は、これまでにないほど力強かった。
『――放してください。』
「ダメ、放さない。」
振り払おうと手に力を込めるが、振り払えなかった。
どうしようも無い程、体の限界が来ているのだろう。
怪我が即座に治ると言えど、疲労までは戻せない。
俺には、口頭で懇願の辞を述べることしか出来ない。
『リエルさん、お願いします。』
「やだ、絶対行かせない。」
『子供ですか。我が儘が過ぎますよ。』
「我が儘でも良い、私はヒシさんに行ってほしくないの。」
思わずため息が零れる。
何故、彼女はそこまでして俺に構うのだろうか。
何故、彼女に厳しい言葉を放つのが辛いのだろうか。
何故、彼女はぽろぽろと涙を零しているのだろうか。
「…私は、ヒシさんのこと化物なんて思ってないよ。」
『さっきの再生能力が、人間のモノだと思いますか。』
そう返答すると、間髪入れず反論が返ってきた。
「なら、なんでヒシさんは泣いてるの…?」
…………?
言われて初めて。
自分がリエルと同じように
涙を流していることに気が付いた。
あれ、なんで泣いてるんだっけ。
どうやって、いつから泣いてるんだっけ。
「ずっと、…最初から、ずっと、泣いてたよ。」
『…え、?最初からって、』
「私が来た時からずっと。
爬竜の死体に立って、泣いてた…。」
そんな記憶は無い。
彼女が嘘をついているのだろうか。
……嘘をつく理由なんて、無いか。
「私の知ってる化物は、泣かないよ。
みんな、人間を殺すことに夢中でさ。
人間の為に泣く化物なんて、私は知らないよ。」
そんなの、分からないじゃんか。
俺が"豪胆"な爬竜を殺した時、
"臆病"な爬竜は確かに悲しんでいた。
化物にだって悲しむ心はあるだろう。
その程度の根拠で人間を語るのは甘すぎる。
一瞬にしてリエルの言葉を否定する考えが頭に浮かぶ。
しかしそれが俺の喉を通して彼女に届くことは無かった。
「私の知ってる化物は、もっと怖い姿をしてるよ。
蛇みたいだったり、物凄くおっきかったり。
ヒシさんみたいな優しい顔はしてないよ。」
それは主観でしか無いだろ。
俺には、自分の姿が醜い化物にしか見えなくて…
「ヒシさんがどう思ってるか分かんないけどね?
私はヒシさんのこと、好きだよ。大好き。
ヒシさんが街から出ていくなら、私も付いていきたい。」
「でもそんな人が、街にはいっぱい居ると思うよ。
院長さんだって『またよろしく』って言ってたでしょ?
ヒシさんはさ、必要とされてるんだよ。いろんな人に。
ね、だからさ、ヒシさんが街に戻る理由なんてさ…
…私は、それだけで、充分じゃないかな、って…。」
振り絞るような彼女の声。
涙で絶え絶えになりながらも、必死に…、
なんで鼻が、喉が痛いのか。ようやく分かった。
悲しくて、辛くて、ずっと泣いてたからか。
何かを言い返そうとしても、言葉にならなかった。
ダメだと分かっていても、心は揺らぎ続ける。
不意に、握られていた手が放された。
理由を考える間もなく、…背中に柔らかい物が当たった。
「…化物だとか、人間だとかは、どっちでもいいよ。
――私はただ、ヒシさんと一緒に暮らしてたいの。」
『っ、』
惑わされるな…、だって、俺は、化物で…、
『俺は、一緒に生きてちゃダメなモノですよ、?』
「大丈夫! 一緒に生きていけるって、私が保証する!」
彼女はそう言って、少し笑った。
「――ね、ヒシさん、帰ろ?」
『………っ、……は、い………」
そこから先は何も声にならなかった。
ただ咽び声のみが辺りに響き渡る。
『化物ではない』。
誰かに言われるのは初めての経験だった。
自分を『自分』として認められる。
そんなことは、初めての経験だった。
だって、ずっと隠してきたのだから。
打ち明けるのは初めてなのだから。
十二年間塞ぎ続けていた感情が溢れ出した。
リエルは情けなく泣く俺を静かに抱きしめてくれていた。
何も言わずに、全てを包み込むような優しい笑顔で。
これで良かったんだろうか。
ただの化物が人間として生きるなんて、
そんなことが許されるのだろうか。
もう一人で泣かずに済むのだろうか。
もう人間を愛してもいいのだろうか。
この柔らかい温もりを、放さないでいいのかな。
---
彼はそのまま数分泣き続け、しばらくして眠りについた。
安らかに眠る彼の頭を膝に乗せて、
私は静かな寝息を立てるその姿を眺める。
彼がここまで近くに居るのは初めてだ。
ここまで警戒心の無い姿を見せるのは初めてだ。
…私のしたことは、間違ってなかっただろうか。
突如として辺りから風の音が消えた。
来たか、と思い顔をあげると、
そこには一人の女性が立っていた。
驚くほど純粋な白色に染まった長い髪。
肌も不健康なまでに白く、まるで生気が感じられない。
病人のように細い体つきをしているが、
その歩調は健康そのもので、しっかりとしている。
その女性はいつも通り不気味な微笑みを浮かべながら
私がもたれかかっている木の方へと歩み寄ってきた。
「――ヒシさん居るけど大丈夫なの?」
「えぇ、しばらくは目を覚まさないでしょう?」
「ふーん、それで、何の用?」
「あら、冷たいですね。
彼の居場所を教えてあげたというのに。」
「彼がそういう体質だってことも知ってたの?」
「えぇ、あなた以外にも『目』はありますので。」
「じゃあ知ってて黙ってたんだね。」
「ソレを教える"義務"が私にありましたか?」
「無いけどさ。」
いつも通りの受け流し方だ。掴みどころが無さすぎる。
この人の方が彼なんかより余程の化物だろう。
「呼んでも無いのに来るなんて珍しいね。」
「あら、嫌でしたか?」
「別に、嬉しくも無いけど。」
「ふふっ、ようやく関係が進展したようなので。
せっかくなら祝儀にでもと思いまして。」
「んな! もしかして全部聞いてたの!?」
「一語一句洩らさず聞いてました。
勿論貴方の"愛の告白"も、ね。」
ヤバい、恥ずかしすぎる。完全に失念していた。
「あははっ!顔真っ赤になってますよ!」
「…誰のせいだと…。」
ニヤニヤして煽ってくる彼女を睨むが、
特に反省の様子は見られなかった。
「では、私はここら辺で。」
「え?ほんとに何しに来たの?煽るだけ煽って帰るの?」
「はい! 満足しました!」
『じゃ!』と言って彼女はその場から姿を消した。
それと同時に鳴り止んでいた風が付近に戻ってくる。
……まじで何しに来たんだろう。
---
「――久しぶりに、夢を見なかったです。」
「うん、幸せそうに眠ってたよ。」
「すみません、こんな長時間も。」
泥のように眠ってしまっていた。
起きたときに頬が濡れてなかったということは、
リエルの言葉に嘘は無いのだろう。
「ヒシさんがよく旅に出るのってさ、」
「はい、母を探す為です。
もう一度だけ会って、話をしたいんです。」
「…その気持ちは、今でも変わんない?」
「えぇ。」
「…そっか。」
「でも、もう少し街に居る時間も増やそうと思います。」
「……そっか…!」
向こうから歩み寄ってくれたのだ。
こちらからも、少しずつ、少しずつは。
「私もね、横に並びたいな。」
「…横に並ぶ、というと?」
「一緒に戦えるくらい強くなる、ってこと!」
「…えぇ、俺も楽しみに待ってますね。」
彼女の言葉を茶化す気は起きなかった。
瞳に宿った光には、しっかりとした覚悟が在ったから。
…横に並ぶ、か。……うん、そうだな…。
「気持ちの整理がついたら、ちゃんと返事もします。」
「返事…? あ…う、ん。その、ゆっくりでいいよ…?」
リエルが顔を赤らめた。
…俺は、無表情を保てているだろうか。
人間として生きて行く覚悟がもう少し固まったら。
――俺が、彼女の横に並べる人間になれたなら。
◇
街に着いた所で、リエルとは別れることになった。
急いでいたようだったけど用事でもあったのだろうか。
その後はてんやわんやだった。
兄ちゃんには骨が折れるくらい強く抱きしめられ、
ベイド達三人には一回ずつ頭を小突かれ、
マネドさんには数十分に及ぶ説教を受け、
爬竜に襲われていた母子からは深い深い感謝を貰い、
医者達は俺の姿を見るなり大慌てで診察を始めた。
結局身体には何の傷跡も残っていないことが証明された。
無事に釈放となったが、ベイド達は不審に思っただろう。
何せ目の前で片手を食い千切られていたんだから。
バレたらバレたで大丈夫。
秘密を曝け出す勇気は、もう貰っている。
幸運にも我が家はほぼ無傷の状態で残っていた。
兄ちゃんは医者に連れて行かれたが、
爺ちゃんは変わらぬ姿で俺の帰りを出迎えてくれた。
この老人は東門で数匹の爬竜を撃破していたらしい。
足も弱くなっているのによくやるなと思ったが、
あの暴れん坊の兄を育て上げた爺ちゃんだ。
それくらいの無茶は余裕でやってのける。
風呂から上がり居間に行くと、
床に座って楽しそうに体を左右に揺らす兄の姿があった。
「……なんで居るんですか?」
「抜け出してきた!それよりヒシ、聞いて驚け!」
そう言ってビシッとキッチンを指差し、
「ステーキだ!!」
兄ちゃんは親指をグッと立てた。
少し遅れてキッチンからひょっこり顔を出した爺ちゃんも
皺だらけの右手を力強く曲げると、同じポーズをとった。
「…いや流されませんよ、早く病院帰ってください。」
「やだよ!あそこつまんないもん!」
兄ちゃんはそう言い残してダッシュで風呂場へ向かった。
まぁ、いいか。元気そうだし。医者さんには同情するが。
爺ちゃんの作った晩御飯を口に運びながら、
自分の秘密を…秘密と呼べる物でも無いが、彼らに話す。
やはりというべきか、
一連の話を聞いても爺ちゃんが動じる様子は無かった。
恐らくずっと昔から察しがついていたのだろう。
とは言っても兄ちゃんもそこまで取り乱すことは無く、
右手で肉を口に運びながら静かに話を聞いてくれていた。
――ヒシの左腕切り落として俺にくっつければ良くね?
などと真顔で言っていたのはスルーするのが賢明だろう。
兄ちゃんは癒えない傷を負い、俺は正体を暴露した。
今日は街に大きな変化があった一日で、
俺達にも無視の出来ない程の変化があったけれど、
『家族』として三人で笑えていることは変わらない。
晴れやかな気持ちで明日を迎えられる。
その幸せを噛み締めながら、俺は眠りについた。
---
人間が暮らす街から遠く離れた地にて。
耳をつんざく破壊音が鳴り響いた。
森に潜んでいた小鳥達が慌てて空へ羽ばたく。
音の発生源は少し大きめの洞窟内部だ。
しばらくして、パキリパキリという音が鳴り出した。
それは、小さく砕かれたガラスの破片を踏み割る音。
暫くの時を経て、一人の男が月光の下に現れた。
歳はさほど取っていないように見える。
鉛色の髪に、鈍く濁った瞳。色彩に乏しい。
全身にはボロボロの布切れを身に纏っているようだ。
強張った背筋で支える漆黒の翼は左側にしか無く、
右側には何かが切り落とされたような傷跡が残っていた。
男が元は右翼がついていたであろう場所へ手を当てた。
…次の瞬間、ガラスで作られた美しい翼が構成される。
次に男は左手を大きく広げた。
直後、左手の上には不透明な仮面が出現する。
そのシンプルな仮面の材質は言うまでもないだろう。
男は仮面を顔に嵌め、両翼を大きく広げた。
遠い昔に息を潜めたその幻妖の目的は、ただひとつ。
『決着を付けよう、どちらかが滅ぶまで。』
己の仇敵、世に蔓延る劣等種。―――人類の、根絶。
---
「――ははっ、あはははっ!」
私は裏側へ戻ってきた。ここなら誰にも聞かれない。
これから起こることを考えると笑いが止められなくなる。
「あぁ、楽しみですねぇ。」
悠久の時を耐え忍び、この時を待ち続けていたのだ。
五十年前は失敗だったがチャンスは再び回ってきた。
「ようやく、"悪魔"のお目覚めですか。」
向こうがどう転ぼうと、私は美味しい。
だがどうせ滅ぶのだ。ならば面白い物語が見たい。
「八百年の外伝に、終止符を。
この駄作に、せめて最高の終幕を。」
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