19.たまには優しい夢も見たいものです
歌が、聴こえる。
やさしい、子守唄のような。
のびやかな歌声のテンポに合わせて、少女の柔らかい手指が私の毛並みをそっと撫でる。心地よい歌声に耳をそばだだせながら、私は少女の膝の上に頭を預けて、ゆるりと尾を振った。
穏やかな時間。
暖かい日差しの中で、私はまどろむ。
「おやすみなさい、ルプス」
少女の幸せを願っていた。
少女と共にあることが私の幸せだった。
「良い歌だな、セレネ」
「月の女神――」
「よい、そのまま聴かせてくれるか?」
「もちろんです! 母なる女神のお望みのままに」
敬愛する女神に捧げる歌。
『月の民』の小夜曲。
昼夜を問わず、よく歌う少女だった。私は少女を包み隠すほど大きな身体に成長しても、ちいさく身を丸めて少女の歌を聴くことを好んだ。
「なんとも気持ちよさそうにくつろいでいる。すっかりそなたに懐いてしまったな」
「そうでしょうか?」
「ソレは人間の娘の膝で眠るような獣ではないのだ」
「えぇっ……私、あなたに失礼なことしてるかしら、ルプス」
私はグルルと喉を鳴らして抗議した。
デアルナは笑った。
「ルプス……そうか、今のお前は狼か? 我らが災厄。神殺しの獣よ。よかろう。ならば聖狼の名と共に、お前に赦しを与えるとしよう」
月の女神デアルナ。
人を見守り、安寧を与えることを望んだ、最後の神性の片割れ。
よく笑う、ほがらかな女神だった。
――もう一柱の神とは対照的に。
「お前に我らへの忠節は求めまい。それは我が愛娘に捧げるがいい。今このときより、セレネに仕えることは、我らに仕えることと同義と心得よ」
「仕えるだなんて。あなたと私は友達よね、ルプス」
私は否定も肯定もせずに、ゆっくりと尾を一振りした。
女神の側にあることが少女の幸せであるならば、私もまた神のしもべに名を連ねよう。
「あの神がまた戦を始める。セレネを護れ、聖狼」
デアルナと対になる太陽神*****。
人を導き、試練を与えることを望んだ、最後の神性の片割れ。
争いを好む、苛烈な神だった。
父なる神として――デアルナと結ばれることが定められた男神であったが、*****はデアルナほどに人を愛してはいなかった。
いや、愛してはいたのだろう。
人間という種族を。人々の営みを。
その視点が、個としての人とは異なっていた。
私は『彼』を好んではいなかったが、『彼』はセレネを気に入った。
*****に身染められることは名誉だった。
デアルナが娘のように可愛がる人間の少女といえど、例外ではなかった。
「ルプス……。変わらないのは、あなただけね」
セレネは歌うことをやめた。
「月の女神が応えてくださらないの」
泣き腫らした瞳で、少女はつぶやいた。
「どうしたらいいのかしら、私。*****は私をお望みだけれど、私を愛してくださるわけではないわ。みなは名誉なことだと宴まで開いていたけれど――私は」
私の幸せは、少女と共にあることだった。
少女の幸せを願っていた。
――たとえ神に逆らったとしても。
《お前の望みを叶えよう》
かつて神々の災厄として恐れられた力は、盟約の鎖に繋がれた今なお、私の中に眠っていた。
* * *
「……うぅ……ん?」
私は、冷たい石床の上で身じろぎした。学園指定のローブが紙の束のようなものに引っかかり、ガサガサと音を立てる。申し訳程度に結ばれた目隠しがポロリと外れた。
暗い。すぐには目が慣れなくて、周りの様子がよくわからない。
なにか、変わった夢を見ていたような気がするんだけど……思い出せないからまぁいっか。
それよりも今はもっと他の問題がある。
「やりやがったなぁ、ユラめ……」
どこだよ、ここ。
なんとなく全身がだるいような気がするけど、それ以外とくに異常はナシ。薬草園でお茶会をしていたときのまま、学園指定の制服とローブを身につけている。鞄は……なさそうだな。手ぶらで連れ込まれたらしい。
まあ、私に使える魔術など基礎中の基礎だけなので、鞄があったところで役に立つとは思えない。せめて剣があればなぁ。剣術専攻だったら魔術で取り出せたかもしれないのに。学内で帯剣できるトムたちが羨ましい。
術師にあるまじきことを考えながら、私は手探りに周りの床を調べてみた。
……たぶん、ほとんど紙だな、これ。
石床の上に、毛足の長いカーペット。
その上に、いろんな紙束や本が散乱してるっぽい。
足の踏み場もないという感じではなさそうだけど……それにしても手触りがいい。カーペットも紙も上質なものなのだろう。
もふもふ。きもちいい。
もふもふ。さらさら。
うちの実家のカーペットより高級なんじゃないかこれ。何枚か紙をどけて、その下から現れた緻密な織物に頬ずりする。
聖獣の毛並みってこんな感じなのかな。やっぱり召喚獣にするなら、もふもふに限るよね。聖狼――黄金の毛並みを持つ伝説のSランク召喚獣への憧れをこじらせながら、私はカーペットの触り心地を堪能した。
もふもふ。
もふもふ。
もふもふ。
「はっ! こんなことしてる場合じゃなかった!」
極上の手触りという魔性の魅力に抗えるようになるまで小一時間かかった。
その頃にはだいぶ目が慣れていた。
私はローブについた埃を払って、室内をぐるりと見回す。
薄暗いのは窓がないせいだろうか。
学園にある古い地下牢を思わせるようなつくりだけど、意外にも内装は豪華に整えられていて、貴族の別荘と言われても違和感がないくらいだ。正直こっそり持ち帰りたいくらい高そうな調度品がいっぱいある。
せめて窓があればなぁ。そのへんの椅子でも持ち上げて叩きつければ、普通のガラスなら割れただろう。ダメ元で石壁にいっとく? ……私の力では高級品を傷つけて終わるのがオチな気がする。
気軽に投げても問題なさそうなもの、というと、このやたらと多い本か。
「無駄な努力に俺の蔵書を巻き込むなよ」
いきなり聞こえた声に、私は手に持っていた本を取り落とし、慌てて拾い上げる。
幸い、毛足の長いカーペットに受け止められて、傷ついた様子はない。私に本の価値はまったくわからないけど、もしかしてコイツも高級品だった? ていうか今の――。
「誰!?」
闇の中から帰ってきたのは、深々としたため息だった。
闇の中。
そう、闇である。
室内はたしかに暗いけど、その中でも、なんというか、一際濃い一角があった。そこだけ暗色のカーテンに遮られているかのように、黒々とした靄に覆われている。
あ、このかんじ、見覚えあるかも。
――魔術光だ。
私の部屋に侵入してきた日のユラの手元では、変態的な多重付与魔術の黒い光がナイフを覆い隠していた。あの感じに似ている。
似ているってことは、なんだ?
あの奥にいるのはユラの仲間か?
その可能性に思い至った瞬間、私はシュバっとバックステップで距離を取った。むりむりむりむり近寄りたくない。
「急に怪物を見るような目を……なに、俺のこと知ってんの?」
私は全力で首を横に振った。知らないし関わりたくもない。
「おまっ、あれだろ、『月の民』とかいうのの仲間だろ! わた、俺をどうするつもりだ!」
「どうするつもりだって、後から迷い込んできたのはそっちだろ」
そのときはじめて、相手の声が若いことに気づいた。若いというより、子供? すくなくとも大人の男っぽくはない。
「それに『月の民』って……まあ俺は気にしないけど、殺されても文句言えないくらいの侮辱だからな、それ」
「そうなの!?」
それは知らなかった。ごめん『月の民』って単語を知ったのもつい最近なもので。
「じゃあ、お前、いや、きみ? は、ユラの仲間ってわけじゃない?」
「ユラ? ていうか、俺のこと知ってるわけじゃないなら、なんでそんなに離れ――……いや、何が見えてんの?」
「見えてない見えない見えない、なんも見えてないから真っ暗で!」
私は全力で否定した。よくわからないけど否定しなくちゃいけない気がした。
「ふぅん……?」
帰ってきた声に、なんかちょっと面白がるような雰囲気がしたのは気のせいだと思いたい。
それでもユラの仲間じゃなさそうだとわかって、私は警戒を解いた。
「ずいぶん落ち着いてるんだな」
「そりゃ、俺は慣れてるからね。どうせ3日以内には迎えがくるから、それまで大人しくしてれば」
「3日ぁ!?」
私は叫んだ。それは勘弁してもらいたい。課題が溜まって大変なことになる。ただでさえスレスレの進級がいよいよ危機だ。
いやそれ以前に、ここ、見るからに水も食料もないじゃないか。
飲み水くらいなら魔術で調達できる気がするけど、3日間も空腹と戦うのなんてまっぴらごめんである。
私は一か八か、賭けに出ることにした。高級品だろうがなんだろうが構うものか。その辺にあった手のひらサイズの銅像をわし掴んで、振りかぶる。
「偉大なる女神、なんとしてでもここから出るために力をお貸しください。あの壁をぶっこわす力を。なにとぞ! ――我に祝福を」
唱える祝詞は適当でいいや。伝われこの想い。
思い描く効果は、単純なもの。私が使い慣れている数少ない魔術の一つ――身体強化魔術である。
「おりゃぁぁぁぁああ!」
背後の石壁に向けて、私は、微かな魔術光を放つ銅像を、全力で叩きつけた。
……つもり、だったのだが。
「あ、馬鹿」
「うわ!?!?」
柔らかい幕のようなものに受け止められるような、奇妙な感覚がして。
次の瞬間には、私の身体は正反対の壁際――謎の黒い靄が溜まっている一角――へ向けて吹き飛んでいたのであった。
わけがわからないまま転がり、どうにか受け身をとった、数秒後。
「い、ったたた、なにいまの」
「……さいあく」
少年の声がすぐ近くで聞こえた。
私自身が中に突入したせいか、黒い靄は霧散していた。




